結論から言おう。
黄昏甚兵衛殿はこの上なく満足してくださった。
寝る前に重大な事実に気付いてから、この時代において未知のものを学園の外に広めてしまっていいのか優に三時間は悩んだ私であったが、もうタソガレドキまで来てできると返事をしてしまった後なのだからいいも悪いもない。ここで帰るなんて言ったら何を言われるか。
というより考えてみれば、もうどこぞかの露天商が持ち込んでしまった後なのだから仕方ない。毒とか兵器とか物騒な系統の知識じゃないんだ、大丈夫大丈夫。
たぶん。
そういうわけで。
講義になりませんので作法の方は無礼講に願いますと前置いて、知る限りすべてをお教えした。詳しく書いたらこの話が丸ごと喫茶店開業講座に変貌しかねないので省くのだが、必要な道具や抽出するに最適なお湯の温度を皮切りに、茶葉の量の計り方、蒸らす時間の目安、急須の中で対流を起こす条件。ついでに土地ごとの水質の違い。その他諸々。
それを数時間で吸収した黄昏甚兵衛殿は、顔とセンスはヘンだがさすが頭の回転は早い。
戦乱の世の一国一城の主をなめたつもりはないけれど、一年は組から聞いた話で少し侮っていたかもしれない。反省しよう。
「ふむ…、その方なにか望むものはあるか。見る限りさほどに欲はなさそうだが、報償を取らせる」
「無いというほどの無欲では…下さるなら、有り難く」
「そうしろ、一人前の働きに金も取らぬのは莫迦のやることだ。今すぐとは言わんから、タソガレドキ忍軍になんでも申せ」
そんな大変有り難いお言葉をいただいたわけだが、もう帰るだけとなって雑渡さんが迎えに来た(送ってくれるそうだ)今でもまだ決まっていない。
さて、どうしたものか。
「決まらない?」
「困りましたねえ…私は無欲どころかたいした強欲でして。いろいろ欲しいものや聞きたいことや頼みたいことはあるんですけど、考えすぎるとまとめきれないんですよ。すみませんけどもう少し待っていただけますか」
「いいけど、悩むぐらいなら全部言っちゃえば? うちの殿君のこと気に入ったみたいだから、たぶん多少の無茶は叶えてくれるよ」
「そういう訳にはいきません、ちょっと考えることがありましてね」
言わないけど、主に自分のこれからのこととか。
元の時代に未練がないわけでは決してない。今となってはこの時代に永住することを決めてはいるが、元はといえば不慮の事故からこちらに来た身。
幸か不幸か配偶者というのはいなかったけれど、20年以上を過ごして築いたもの…家族も友人も職場も住む場所も、大切だったものを丸ごと置いてきてしまった。子供みたいに人前でめそめそ泣いたりはしなくとも、もとの時代の親しい人達を思い出す度、いつもそれなりには寂しかった。
できることなら、帰りたかったのだ。
しかし調べても一向に手掛かりは見つからず、暫くして大事な人ができて、ここにいたいと思った職場である程度認められてもきて。次第に思うようになっていた。
もう帰れないのではないか。
少なくともそのつもりでこちらにも基盤を作ったほうがいいのではないか。
などと思って気合いを入れた甲斐はあり、この時代にも少しは馴染んで、好いた相手に好かれるなんて幸運にも恵まれて、…そんなところにぽんと故郷との繋がりらしきものが転がり出てきたのだ。そりゃ悩むに決まっている。
(…とは言っても、早く決めなきゃなあ。雑渡さんに迷惑がかかるし、だいたい次会った時にタソガレドキが味方だって保証もない…言えるうちに言っておかないと)
即断即決はガラではないが、今は決めなければいけない時だ。
判断は頭で、決断は腹でしろ。私の尊敬する人はそう言っている。
「よし」
「決まった?」
「はい、頼み事があります」
内容を聞いた雑渡さんは、虚を突かれたように何度か瞬いた。
「そんなことでいいの?」
* * *
「さん」
「あ、いさっくん」
雑渡さんとあれこれ話をしながら来た道を三分の一ほども戻ったあたりで、学園からのお迎えとかち合った。
「やあ、保険委員長くん。悪いねえわざわざ来てくれるなんて。それとも無事では帰さないとか思われた?」
大丈夫だよ、仮に殿に危害を加えたとしても足の爪全部引っぱがして表に放り出すぐらいで済ませてあげる気だったから。…そう続いた物騒な後半は全力で聞かなかったふりを決め込んだ。
「よしましょうよ、殆ど一般人なんですよこの人…あ、それ貸してください」
言いながら、着替えくらいで重くもないのにひょいと荷物を持ってくれた。よかった優しいいさっくんで。仙蔵君あたりならきっとこっちに一瞥もくれず早々に行ってしまうだろう。いや、それ以前に迎えに来てくれているかどうか。
「一般人」
「なにか?」
「うん、一般人なんだよね、君は」
「そうですけど」
「いや、それにしては度胸が据わってると思ってね…そうだなあ…これ結構本気で言うんだけど、どうかな、タソガレドキに来る気ない?」
「「何言ってんですか」」
突拍子もないことを言ってくださる。思わずいさっくんとツッコミがかぶった。
「えー。ちゃん「あの、話の腰を折ってすみません、キャラじゃないんで名前のちゃん付けよしてくれませんか」
小松田君ならまだずっと若いからいいが、いい年こいた包帯まみれの男にちゃん付けで呼ばれるというのはいかんともしがたく尻がむず痒い。
「そう? じゃあちゃんは」
「………ちゃんでいいです」
「ワガママだなあ」
なんかこう、ギャグマンガに出てくるテンプレートな業界人みたいで背中までむず痒くなった。
「ちゃんは器用だしいろいろ思いも寄らないようなことを知ってるし、機転も利くしね。絶対必要ってほどじゃないけど、一人いればわりと助かる類の人材だと思って。どうかな、何なら二人とも一緒に「…ダメです……」
悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。
このタイミングで、幽霊みたいに背後の木の影から出てきたのは。
「なにやってんの伏ちゃん!」
口から内臓噴くかと思った。
「あれ、伏木蔵。どうしたんだいこんな所で」
「こんなこともあるかと思って、こっそりついて来ちゃいましたー」
悪びれた様子もなくそう返すと、改めて雑渡さんに向き直る。…こんなことってどんなことだ。
「ねえねえ粉もんさん、二人とも連れてっちゃダメです。伊作先輩が卒業してから就職するんなら止めませんけど、さんはよしてください」
それか。
「おや、どうして」
「ああそうか。伏木蔵はこういう事態を予想して、斜堂先生のために止めに来たんだね」
「はいー。すかうとされて、さんが忍術学園を出ていっちゃったら困ります。ぼくの担任の先生が、きっとすごくしょんぼりします」
「あーあーなるほど、あの人ね。出掛けにちゃんと口喧嘩してた」
「喧嘩というかなんというか…でもまあ、その人です」
とても美しい師弟愛だ。
でも皆していったい私をなんだと思って。
「なににしてもお断りする気ではあったけど、その尻軽認定はどういうことなの」
「認定されずにいるには普段の言動が大事なんですよ」
「ええー」
そりゃあ、必要以上に忠義だどうだとこだわる気はない。大体より良い条件があるなら仕事場を移るのはなんら悪いことではないだろう。私は間違っているか。熱い戦乱の世に生きるにはドライすぎるのか。
いや…いいんだけど。白身魚ばりに淡泊だと自覚はあるからそれはそれで間違ってないけど。なんか。こう。
「出掛けにも、うちは変人多いから心配だって言われてたっけね」
「そうでしたね…おかしいな、私は正直と誠実を絵に描いたような好人物なのに」
「ツッコみませんよ?」
「ボケてないよ!?」
…おかしいなあ。
「それはともかく、斜堂先生を置いてまでタソガレドキに移る気はないよ、伏ちゃん。ニッチ狙いで掃除婦を選んだのも副業を始めたのも、学園にいるためだからね。学園から首を切られるのと斜堂先生に三行半突きつけられるのとが重なったりしなけりゃ、まあ動かないかな」
「あ、そう?」
「ええ。タソガレドキ忍軍も楽しそうなんで、振っちゃうのは残念ですけど」
結局どんなに疑われていようとも、私の結論はこれに尽きる。
忠誠がなんだ、一途ならどうした。
混じり気のない感情がそんなに偉いのか。
少なくとも忍術学園に対する私のそれは、打算と親愛と恋愛の感情がうまいこと絡み合ってのものだから、そうそう滅多にヒビは入らない。
「今までと同じように、味方でいていただくのが私の望みです」
「そんなことでいいの?」
「ええ。雑渡さんも部下の方たちも立場というものがおありでしょうから、あくまで立場的な…いろいろなところに抵触しない範囲内で、今まで通りのゆるい味方でいてくだされば助かりますね」
なんだかんだで保険委員の子達を気に入っているみたいだ。このままテキトーな立ち位置の味方、というポジションでいてくれればいい。すごくいい。自分の立場を省みずに学園の肩を持つような大間抜けなはずもないし。この人。
それ故、現状維持を取る。
もとの時代の手掛かりはそりゃ知りたい。タソガレドキ忍軍の力を借りて徹底的に紅茶の出所を洗い出してもらえば、あるいは自分以外の未来人に会えるかもしれない。
正直、諦めるにはあまりに強い誘惑だけれど。
…でも冷静に考えてみれば探したところで見つかる率はあまりに低く、何よりも、果たしてその人は私と同じ時代の人なのかどうか。少なくとも紅茶がある時代ということしかわからないのだから、もしかしたら私が生まれる前とか死んだ後とか、そういう可能性だってあるじゃないか。リスキーすぎる。
そんなことを考慮して、義理堅い雑渡さんに貸しを作っておいた方がなにかといいという結論になった。
後悔はしない。
「うーん…」
「ダメでしたか?」
「そうじゃないけどね。私たちとしても世話になっておいて、現状維持のままはいさようならって訳にはいかないんだよ。もちろん味方はするけど、他になにかない?」
「なにかと言われても…
あ! それじゃあお言葉に甘えて、欲しいものが一つ」
だから私は結局なにも変えずに、来た道をそのまま三人でぽてぽてと歩いて帰っている。
このペースなら夕方までには着けるだろう。
「…ところでさん、この荷物いったい何が入ってるんですか? なんだかさっきからいい匂いがするんですけど」
「内緒」
← →