闇の帳の降りきった忍術学園にて。
部屋の主である大川平次渦正と、庵に詰めた教師陣の居並ぶ中。いくつもの視線を一身に受けたまま、女は静かに話を締め括った。
「以上、任務報告を終わります。…学園への正式な礼状はこちらに」
荷物の中を探り、タソガレドキ城から預かった手紙を取り出した掃除婦へ、それまでもの言いたげに黙っていた安藤が言葉を向ける。
「さん、あなたはそれで良かったんですか」
「どういう意味ですか」
「学園宛てでなく、せっかく自分個人にともらった報酬でしょう。そのお茶の出所を辿ったり自分以外の未来人を探してみたり、そういうことは考えないんですか? 職場思いは大変結構、しかしね、自分の望みを犠牲にして他人のためと謳うなんてのははっきり言って誰も喜びやしませんよ」
「安藤先生」
土井半助が安藤の名を呼んだのは、遮ることを目的としていたのか、そうでなければ抑え切れずに零れたものか。もしくは、多分に賛同はするがもう少し言い方があろう、と諫める為であったか。
何にせよ安藤は他に一瞥もくれずに視線を据えたままでいた為、あまり意味はなかったが。
「いやだなあ、私そんな自己陶酔型悲劇のヒロインに見えます? そしたらそれっぽい台詞を一つふたつと、誰かにすがって泣いた後涙を浮かべて笑いかけなくちゃいけませんかね。気にしないで、学園のみんなのためだから…っ「誤魔化されてあげませんよ。あなたはそうやってへらへら笑って人を煙に巻いて、見えないところで自分の望みを押し殺すのが癖でしょうが」
へらりと表情を崩したところに真顔で切り込まれ、流石に彼女も笑みを収めた。
「…押し殺したつもりはないんですけどね。
それでしたら、今は何をどうしてもここにいたいんだということを、どう言ったら納得して下さいますか」
年頃の娘を持つ親としては、自分に入れ込むのもわからなくはないけれど。
思ったことは口に出さぬまま、はゆっくりとかぶりを振った。
「来た当初、確かに私は元の時代に戻るために動いていました。今でも心残りがあることには変わりません。戻りたいと思いますが、ただそれは、あくまでこの時代のこの場所に帰って来ることができるならの話です。一度元の時代に戻って心残りを全て清算して、それからまたここに帰って来られるなんて。もしできるなら願ったり叶ったりですが、たった一度こうやって時間を越えることでさえきっと天文学的な確率でしょうに、そんな都合のいい話がそうそう滅多に転がっているとは思えません。
安藤先生の仰ることは間違っていません。自分以外の未来人に会えるかもしれないんですから、これはタソガレドキの勧誘より遥かに強い誘惑ですよ。
でも、だから乗るわけにはいかないんです。甘い夢を見てその人を探してみて…もしも向こうに戻る方法がもうないと言われたら。もしくは、あっても片道切符だったら。もしくは未来でも私と違う時代の人だったら」
自問自答のように訥々と、一言一言を区切りながら語り終えて、ひとつ息をつく。
「期待すればするほど外したときには落ち込むでしょうし、自分たちに出来ることならなんでもと言ってくれたたった一つの願いをそんなことに使うのはもったいないと、
そう思っただけなんですよ。本当に」
語り終えてからも暫しの間、安藤は目を外しはしなかった。
静かに視線を受け止めるの顔にも感情の揺れは見受けられず…誰が語り出す気配もない沈黙に、庵の主の声が柔らかく割り入る。
「ま、本人が言うのじゃったらそれもよかろうよ」
「学園長」
「夏之丞。今からなにをどう言おうと、の結論は変わるまいよ。
ろくな考えもなく惚れたはれたでものを言うほど馬鹿な娘でないことは、この場の皆が知っていよう。お主の言わんとすることもわかるが、本人の意思を尊重してやれんかの」
口調も表情もさほど普段と変わらぬ気軽な調子でありながら、不可思議なほどに有無を言わさぬ音声であった。
「苦労じゃったな、皆。これにてお開きじゃ」
* * *
人気のない暗い廊下の終わりに差し掛かったあたりで、不意に暗く澱んだ声がした。
「さん」
「! あーびっくりした、あーびっくりした…ちょ、斜堂先生、よしてくださいよ脅かすの」
「脅かしたつもりはありませんが…」
「あ、そうでしたね」
本人にその気はないんだった。
それにしても人のいない場所で、しかも音もなく歩いてきて背後にぴたりと着いて声を掛けられるのはいくら慣れてきたといっても怖い。ましてこちらから会いに行こうと思っていたタイミングなら尚更。
「すみません、こんな寒いところで引き留めるつもりではなかったのですが…話を聞いていたら、どうしてもすぐに謝りたくなって」
「なんでですか?」
変なことを言う。
「なんでってあなた」
「だって出掛けのあれなら、謝らないとならないのは私じゃないですか。実はさっきから、その話をしようと思ってたところで」
言うと、それがよっぽど意外だったのか目を見開いたまま固まった。
「どう考えても配慮が足りなかったのは私ですよ。斜…影麿さんに余裕がないのは分かってたから、気安く他の人を褒めたら不安がらせると…わかってはいたんですけど」
ここに永住すると決めたのはあなたのためだと、そう示したからいいというものじゃないだろうに。ずいぶん買い被っていたものだ。
「ごめんなさい。ネタがネタだからもう少し気を遣うべきでした」
「そんな、さんが謝る必要はないでしょう。悪かったのは私です」
「それこそどうしてですか」
「だってですよ…少なくとも任務の内容も解らない、下調べもない状態でタソガレドキに向かおうという時にわざわざ言うべきことではないでしょう、あんな」
いやだからそれだって大元は私が失言を積み重ねた結果だから、気にして当たり前の話であって。
「私のためにこちらに住むことを決めてくれた人だというのにろくに信用もせず、挙げ句つまらない邪推で任務の邪魔をしてしまうなんて。それだけでも恥ずかしいのに、先の話の内容を聞いていたら自分が情けなくなって。
あなたに帰る意思がないのは…ずっと私の側にいてくれるのは解っていたつもりだったのですが、表面上のことといいますか…」
「ああ、まだ微妙にぴんときてなかったんですか」
無理もないことかもしれないが、流石にこの人はわかってくれているものと思っていた。
そう苦笑した矢先。
「ですが、あなたが話すのを聞いていて改めて思い知ったのです。口では職場を移る利便性がどうのと示唆していても、あなたが本当にこの場所に留まっていたいのだということ…本当に学園の皆を大切に思っているのだということ。
それから…その。自惚れてしまえるなら、本気で私を思ってくれていることも」
「………。」
「あの…さん?」
(なんだ)
自虐に走ることなど何もなかったのか。
誰かに何か分からせたいならさっきの職員会議のように、相応に言葉を尽くすのが必要条件。それをものも言わずに勝手に自嘲して、バカか私は。
この人はちゃんと考えて解答してくれたのに。
「やっぱり私がバカでしたよ」
「何を言うのですか、私です」
「いやだからちゃんと話をしないでいたのは」「口で色々言いながら結局あなたを信頼しなかったのは」
「「私ですから」」
「………。」
「………。」
「さっきから堂々巡りですねえ。譲る気ないですか?」
「ありません」
「…影麿さんって気弱そうに見えて案外頑固ですよね」
「あなたこそ柔軟そうに見えて言い出したら聞かないんですから。とんだ詐欺ですよ」
なんだこの変な喧嘩。
ともかくこんな所でああだこうだと言い合っていても不毛なだけだ。
「わかりました、わかりました。そこまで言うんならとりあえずそっちが悪かったってことで」
「そうしてください」
「じゃあ許してあげますから、一つお願い聞いてくれません?」
「なんですか…?」
「寒いから、そろそろどっちかの部屋行って話しましょうよ」
* * *
「それでよかったんですか?」
「それ言ったの雷蔵君で七人目だよ」
帰って来てから数日。
少し遅めの昼食を取っていたら実習帰りらしい五年生たちとかち合った。皆タソガレドキから無事に帰って来たのを喜んでくれたので、重要なところは上手いことぼかしつつことの経緯を説明したらまた聞かれてしまった。
「いや、そりゃ言うに決まってますよ…なんですかその鮮やかなセオリー丸無視」
「あー。でもさほら、君子危うきに近寄らずって言うからね。雷蔵君も久々っちゃんも…いや、みんなそうだと思うけど、自分が傷ついたり不愉快になったりする確率があんまりにも高かったら、どんなにそれが欲しくても態々寄って行かないでしょ」
柳に風のごとくへらへらしているとよく言われるが、それほど太い神経は持ってない。
「まあ…そうですね。
ところで前から聞きたかったんですけど、なんで俺の呼び名『久々っちゃん』なんですか」
「なんでって、ゴロがいいじゃないの」
「さん、生徒はみんなそういう風に呼ぶね。語呂と語感が全てっていうか」
「人の呼び名はそれが全てよ。三郎君だって私に敬語のひとつも使わないくせに」
下手をしたら下級生でさえ使わないから気にしてはいないのだけど、相当なめられているようでなんとなくモニョる。
「それよりタソガレドキからもらってきたっていうお茶、そんなに美味しいんですか?」
「あ、それ私も気になった」
「あんまり欲のないさんが態々もらってくるぐらいですもんね」
私自身はたいそうな強欲だと思っているけど、他人からの評価が悉く予想の正反対であるからもう諦めた。
この世は客観でできている。人の目にそう映っているなら、それが自分だ。
「うん。ちょっと懐かしくてもらってきたはいいんだけど、取っておいても仕方ないね。
今ヒマなら御馳走しようか」
私はバカであった。
「うわー、美味しい! いい香りがする!」
「でもちょっと渋くない?」
「そういえば砂糖を入れるとか言っていたけど本当かな」
「え! お茶にか?」
「ああさっき聞いた、あと牛乳だ。南蛮人の考えることはよくわからんな」
「茶に牛乳…? 気持ち悪いだろ」
「結構合うかもしれないよ留さん」
「なかなか美しい色合いじゃないか。これだったらこの滝夜叉丸に…そう学園きっての最強のスター、容姿端麗成績優秀「奇想天外四捨五入、出前迅速落書無用」
「被せるなアホハチロー!」
「変わった匂いのお茶ですね」
「未来のものか…悪くはないが色も不思議だな。赤い」
「綺麗ですよねこの赤」
「おお美味そうじゃの。、ワシにもくれ」
「あれ、いらしてたんですか学園長」
「あっわたしも! さーんお代わりー!」
「小平太お前味わってるか?」
低、高学年どころかくのいち教室や教職員、果ては学園長まで集まってきてわやわやと騒ぐものだから引っ込みがつかなくなった。そうだった、この学園には珍しもの好きが多いんだ。忍者としてはあるまじきことかもしれないが、学園長からして珍しいものや新しいものが大好きなんだからこれは定めというやつだろう。
「ああもうあとから淹れるのめんどくさい、いっそヒマな連中みんな集めてらっしゃい! それから持ってる人はお菓子持参ね!」
『はーい!』
そしてまたこう来ると取っておくより、盛大に振る舞ったほうがずっと楽しい。
もらったからには使わなくては。
「美味しい美味しい」
「茶請けは団子だけど、案外アンコと合いますねこれ」
「なんて言ってたっけさん…だーくぐれい?」
「アールグレイだってば」
「このビスコイト誰のだー」
「しんべヱです」
「こっちの饅頭は?」
「それもしんべヱです」
「この豆大福は?」
「それもー」
「しんべヱ、またおまえはお菓子溜めこんで! ネズミが来るからやめなさいとあんなに言ったのに!」
「ネズミは困ります…見回りができないじゃないですか」
「うわあ! しゃ、斜堂先生もいらしたんですか」
「なに言ってるんですか土井先生。かなり最初のうちに来てましたよ」
「え、本当ですか」
「はい…さんはよく気付いてくれます…今だけじゃなく、いつも」
「斜堂先生の気配は一番わかりにくいのに、愛だよねえ」
「まあね」
「…うーん…さんって照れないっていうか、こういうとこでさらっと開き直るからいじり甲斐がないなあ。つまらない」
「だからいい年した大人になに期待してるの三郎君。そういう意味ならまだ斜堂先生のほうがいじりやすいと思うけど」
「そんなにあっさり私に振られても困りますよ」
「おーい、お代わり」
「いつの間にか部外者が混じってるのは気付いてなかった…で、その格好はなんなんですか大木先生」
「うははは、決闘帰りじゃ!」
「せめて泥ぐらい落としてくれませんか、食堂ですよここ」
「まあ固いこと言うな」
「いえ、私じゃなくて食堂のおばちゃんが向こうですっごいガンをくれてますけd「いかんちょっと野暮用を思い出した! あとでまた来る!」
「風呂だな」
「風呂だね」
かくして静かなアフタヌーンティーだったはずの時間は、忍たまくのたま教職員プラス数名の部外者まで入り乱れた和洋折衷マッド・ティーパーティーへ変貌を遂げ…もらって三日目にして茶葉がほぼなくなったが、まあ、これはこれで。
「…私にもくれませんか、さん」
「あ。ええ、もちろん」
そっと食堂に入ってきてどことなく気まずそうな顔で湯呑みを差し出す人影に、一年は組が数人きつく眉を顰めてこしょこしょ耳打ちしてきた。
「イヤじゃないんですか? 安藤先生には普段あんなに…」
「いいのいいの。安藤先生はなにも私が憎くて言ってるんじゃないものね。ご自分も年頃の娘さんがいらっしゃるから、つい色々重ねて私の両親のほうに肩入れしちゃうんでしょ、わからないでもないよ。そこは私が大人になって差し上げないとヒソヒソ」
「さん! 普段より大きいトーンで内緒話はよしなさい! …わざとらしく口に手まで当ててまったく嫌みったらしい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
「伸ばさない!」
「くく…なんかほんとに親子みたいですよ」
「「失敬な!」」
「そんな似てますかねえ…私とさんなんて、言うほどは「ははは、顔はともかく口達者でイジワルなところがよう似とるわい」
「学園長まで!?」
「まったく、私が安藤先生と似てるなんて寒気がしますね。
寒すぎて紅茶が凍っちゃいますよ」
紅茶は暖かかったが、狙い通り場の空気はものの見事に凍り付いた。「あの」安藤先生でさえもだ!
どうだ私の渾身のダジャレの威力。
「ま、ざっとこんなもんで」
「呼んだ?」