打ち倒された時の記憶は美化も風化もされぬまま、未だ自分の中にある。
   
最初の日、魔法陣から生み出される魔物を目当てに地下へと潜ったシャスカは、横合いから現れたトカゲ男達の剣に貫かれた。
次には殆ど手応えのないダンジョン内を進み、魔王を見つけ出し…その痩身を簀巻きに縛り上げたところで後ろから魔弾がひとつ飛んできた。
振り返ってぞっとした。
淡やかな桃色に輝いていた岩肌がいつの間にか大幅に抉れ、ぽっかりと空いたその場所には数え切れぬほどのサキュバスがひしめいている。しかも端の方ではガジガジ虫やらエレメントやらを嬉々と吸い込みながら、いまだ増殖を続けてさえいるのだ。
魔王を捕らえたままではろくに反撃もできないと判断し、逃亡のために踏み出した足が粘着質のフェロモンに絡め取られて、動きが止まる。
そこから先は数秒もかからなかった。一瞬のうちに何十何百もの魔弾が身体を焼き、力尽きて意識を無くす瞬間、彼は鋭敏になった死の間際の感覚ではっきりと認識した。
サキュバスの群れの向こう側、ツルハシを肩に担いだままでにやりと笑うその人物を。
『破壊神さま!』魔界の王が心底安堵したふうに叫ぶ様子を。
生み出した夢魔の一匹にじゃれ付かれ、頭を撫でてやっている笑声を。
   
あれは誰だ。
あんな奴は知らない。
あのような存在は聞いたことがない。
   
復活ポイントから蘇ったシャスカが調べたところによれば、それは魔王が呼んだ名の通り「破壊神」であるという。土を掘り、ダンジョンを作り上げ、魔物たちを生み出すもの。魔王が自分の力を殆ど使い果たしながらこの世界へと召喚したもの。
魔王も同じように見えるが、かの存在は「王」…魔物たちの支配者であるのに対し、破壊神はいわば父か母に等しい存在。
(それだから、あのような表情をしていたのか…)
シャスカの持論で測るならば諸悪の根源だと言うのに…また二度までも煮え湯を飲まされた相手だというのに、どうしても心底から憎む気になれない理由はそこにあった。
しかし魔王や魔物達へ向けるごく優しげな微笑みは、ひとたび自分たちを前にすれば俄かに毒を含み、鮮朱から冷蒼へ移り変わる。
破壊の神と謳われるに相応しく恐怖心を掻き立てながらも、同時に否が応でも惹きつけられる魔界の神。
それから幾度か、シャスカは交渉に出向いた。魔王を捕らえるためでも魔物を狩るためでもなく、破壊神を説き伏せる為に。
このまま地下を掘り進ませる訳にはいかないと、今もその持論にぶれはない。だがその中にほんの僅か、かの存在への憧憬に似たものを見つけてしまったのは何度目のことだったか。
(本当は…本当は私は…同志がどうこうでなく、あの、破壊神を)
認めたくない、否、仮初めにも国王に雇われた勇者の一人としては、認めるわけにいかない感情だった。
   
   
戦いは精神状態に大きく左右される。
回復の得意な仲間を見つけ、今までよりは効率を上げたといえど、実質的には不安定もいいところ。
…そんなシャスカが数分も持たず力尽きたのは、ある意味で当然のことではあった。
別行動のドレンは水の向こう…狭い水路にひしめいたMCハンマーの群れに葬り去られた後。
歯噛みをしながらふと踏みつけた魔法陣の色が、変わった。
間髪を入れずそこから現れ出たのは、背に翼を持った青い身体。日光の下ならユーモラスにさえ見えそうな丸みを帯びた巨体からは、しかし情け容赦のない痛恨の一撃が放たれた。
重い一撃を身体が受け止めきれず固い岩壁へと叩きつけられ、凄まじい衝撃に息が詰まった。
何度も何度も腕が振り下ろされる。マントが裂け、血飛沫が舞う。ドレンが設置していったらしき松明の炎に照らされて、深紅の隻眼がぎらりと光る。
長い牙が体を貫き、爆弾も魔封箱も間に合わぬままもう何度目かもわからぬ敗北を喫した。
   
…そのはずだ。
自分は何故まだダンジョンの最深部で生きているのだろうか。
   
ぼろぼろに引き裂かれていたマントや下の衣服はそのままで、しかしなぜだか傷は半ばほど回復している。頑丈な手枷から伸びた鎖を握っている主を視界に入れ、シャスカは目を疑った。
自分が狙っていた魔界の王。
「起きたか」
こちらもまた、破壊神を呼ぶときとは決定的に違う声だった。嘲りも蔑みも…ほんのわずかな怒りさえも、何も匂わせない平坦な口調。
「これはどういうことだ。私は確かに、おまえたちに倒されたはずだ」
「意識を無くしただけだ。殺してもよかったが、少しばかり用があるのでな…迎えは追い払っておいた。暫くは誰も来るまい」
「用…?」
あまりに予想外な言葉だった。
反射的に問い返すと、魔王は初めて表情を変えた。複雑で微妙な…なにかを懸命に割り切ろうとするような目付きでじっとシャスカを睨めつけ、ややあって深く息をつく。
「破壊神さまが、貴様をご所望だ」
破壊神さま。
出されたその名に心臓が跳ね上がる。
「感謝するのだな。同志になる気はないが、熱意に免じて話くらいはしてやると仰る。わたしとしてはあのお方に、勇者を引き合わせるなどと不本意だが」
意を唱えることはしたくない。苦々しげに魔王は吐き捨てた。
「一応言っておこう。あの方に無礼な真似をするようなら即刻ドラゴンに食わせ、二度と蘇らぬよう貴様の冒険の書を消し去ってくれる。
 …ついて来い」
鎖を引く力は、魔界の王とあろう者には相応しくないほど弱々しい。かの存在を呼ぶために力を使い切ってしまった、という噂にやはり間違いはないようだ。
逃げようとするなら、そうもできた。
そもそもこれほど消耗しきった…相手がどんな勇者であろうが、手向かいもできず簀巻きにされてしまうような者のこと。奢るつもりはないが、手枷をつけられていたところで引けは取らない。この先に破壊神が待ち受けているのなら、ここで魔王を蹴り倒して逃げるのが最善ではないのか。
心中で明滅するハザードランプを、しかしシャスカはきっぱりと無視して歩を進めた。