ひやりと冷たい空気で満ちた小さなスペースに、破壊神はいた。
手近な岩に腰掛け、悠然と足を組んで、周囲の魔物達を眺めている。食物連鎖の習い…その場でも魔物が別の種を捕食してはいるが、それもまた愛おしいと言いたげに。
足元を這うニジリゴケに目を細め、膝に擦りつくリリスを撫で、頭の周りを飛び交うガジフライを指に止まらせ、時に蝋燭を捧げ持つレディに労いの視線を向ける。闇色の瞳は勇者達と対峙するときの冷徹なそれではなく、いつか力尽きる前に見たそのまま…まるでただの人間のように暖かなものを宿していた。
その目が、ふとこちらへと向いた。
「来たか。
 …まともに向き合って話すのは初めてだな、勇者よ。私が破壊神だ。お見知り置きを」
種々様々な魔物達の中からこちらへ歩み寄って来る足元を、エレメントの控えめな光が照らす。
常ならば自分達を目に留めた瞬間眼光が変わるはずだったが、(シャスカが無力な状態であるせいか)今は敵意らしきものは感じられず、その代わりにごく余裕気な笑みが浮かんでいた。
   
「初めに言っておこう、遅くなって済まないな」
「な…」
「は、破壊神さま!?」
ごく当然のように投げかけられたあまりにも意外な言葉に、シャスカのみならず鎖を持つ魔王さえ声を上げた。
「どうも真剣な訴えを無視するのは心苦しくていけない。本来ならもう少し早く相手をしてやるつもりだったのだが、幾度かお前に呼びかけられたことは覚えていても、生憎その時はそれどころでなくてな。結局こういう方法になった」
「そんな理由で、私をここまで呼んだのか」
「いけないか?」
(…なんだ、この会話は)
目眩がしそうだ。
纏う空気も傲然とした口調も、打ち倒されたあの時のまま何一つ変わっていない。だというのにその風貌で、その口で、仮初めにも勇者であるはずの自分にまさか謝罪してくるなどとは。
そしてまた、違和感を覚えたのは自分だけではなかったようだ。
「破壊神さま! お戯れが過ぎますぞ。いかに弱体化させたと言えど、この者は勇者。魔界の神たるお方がこのような相手に謝罪など、前代未聞ではありませんか」
全くだ。
自分に賛同されてどうする。
「そう言うな、魔王。私はこういう命知らずが好きでな…己の信ずる考えのために武器を取り、魔物のひしめく地下へ降りてくるなど、敵ながらなかなかの男気だ。そうは思わないか」
ふと破壊神は膝を曲げ、至近距離からシャスカの目の奥を覗き込んだ。
耳朶を舐めるように甘く、柔らかく、穏やかな声。
「勇者よ。私は魔王に呼び出された身だ。お前に如何ほど言葉を尽くされようと同志にはなってやれん。だが、その意気には心を打たれた。本当ならば心血を注いだダンジョンを荒らし、大切な我が子たちを殺した相手に復讐したいところだが…勇敢なお前に免じて、少しはいい思いをさせてやる。
 魔王、少しの間魔物たちを連れて第一階層あたりにいろ」
「そんな…何をなさるおつもりですか。このような者と二人になど、」
「私の言うことが聞けないのか?」
「い、いいえ! そのようなことは、決して!
 …失礼しました、仰る通りにいたします」
先ほどまで自分に向けていた不遜な口調も態度も消し去って、眼前の神へ慈悲を乞うような視線を向けながらも踵を返す魔王を、シャスカは信じがたい心持ちで見詰めた。
簀巻きにされようと乱暴に引きずられようと、勇者と相対する時に気弱な素振りは一欠片も見せないというのに。
その魔界の王をして平伏させる、絶対強者だというのか。
「不思議そうだな」
「ああ」
「目が離れたから教えてやろう。あれはこの間おかしな夢を見たらしい。お前を連れて来いと命じたら泣きそうな顔で人に縋りついて、正夢になっては嫌だと言う。…なんだか知らんが、私がお前に犯されたとかどうとか…本当になにを考えているんだか。そんなことは有り得ない。だろう、勇者よ?
 立場としてはまったく逆だというのにな」
「ぐっ!」
言うや否や口内に何やらねばついた、固体なのか液体なのかさえ解らないものを含まされ、強引に口を塞がれる。
「毒性はないから飲め。でなければ終わらんぞ」
甘い匂いが鼻腔を満たした。舌が痺れ、攣りそうにひくつく。喉の奥まで押し込まれたせいで抵抗もままならず、噎せかけながらもそれを飲み込んだ途端、喉から食道…仕舞いには身体中が妙な痺れに支配され、思考が輪郭を失くしていく。
「な、んだ…これは…」
「リリス異常種最強と名高い、ネクラスのフェロモンだ。媚薬で知られていてな、魔界じゃ結構な高級品らしい。…まあ、いくらでも採れる私には関係ないんだが」
   
脊髄に虫が這うような得体の知れないざわめきは、次第に灼熱の欲望へすり変わっていった。