ある程度の年まで独り身でいると、自然周りも口煩くなるもの。
とはいえ、話す相手が生徒や同僚ならばまだましだ。長期間家を空けがちの困った店子の身としてみれば、大家の話を聞かずに追い返すことなどできよう筈もなく…結果として、今にも零れそうな溜息をどうにか口に押し込めながら、斜堂はひたすら話が終わるのを待っていた。
「いえ、そりゃ私だって無理を言うつもりはないですよ。でもねえ、やっぱり三十路間近にもなって独身でいるってのもね、体裁なんかもあろうし…不便でしょう」
「はあ…」
「男は家庭を持ってこそ一人前だなんてよく言いますし、第一今はそれでよくても、もっと年がいったときに一人だと寂しいもんですよ。もうそろそろ身を固める頃合いじゃないですか」
「………。」
謂れのない説教をされる生徒とは、あるいはこんな気分かもしれない。
向こうとしてみればこちらの不便だ体裁だはともかく、人が住まない家は荒れるからと格安で貸してやっているのに、その店子がほとんど帰らないとあっては詐欺もいいところ。そろそろ決まった女の一人くらい作って、いない間家を任せておけという意味合いも多分に…いや、おそらく第二の本音だろう。
(基本的には、いい人なのですが)
一年は組の土井半助もよく愚痴を言うのだが、仕事の特性上、話して解ってもらう訳にいかないのはなんとも痛いところだ。
「それにねえ、影野さん」
「…はい」
偽名である。
「何より、伴侶を持つっていうのはいいものですよ。周りはそう言いませんか」
「ええと…」
身近な人物の中に、結婚の具体的な成功例は少ない。
そして、何分肝心の相手がいないものでとうっかり楽な方へ逃げてしまおうものなら、畳み掛けるように見合いの一つや二つ押し付けられるに決まっている。さもなくば今までの説教は、そうした回答をさせるための誘導尋問…長い前振りであるかもしれなかった。
そればかりは避けたい。
「あの、実はですね」
「はい?」
「実は、もう意中のひとが居るのです」
「なんだ、そんなひとがいるなら早く言っ「ただ、彼女は私のことをあまり良く思ってくれていないのです。正直見込みのない想いだとはわかっているのですが、それでも今はまだ諦められず…ましてや別の方のことなど、とても…」
内心で学園の掃除婦に平謝りをしつつ、表情だけは沈痛なそれで尤もらしく続けてみせる。
誰か事情を知るものが聞いたなら、見込みがないなんて大嘘をどの面下げて、と突っ込まれるに違いなかったが。
「ああ…そうなんですか、それはまた難儀な…」
覿面であった。
三分の二ほどは嘘をついたが、しかし全く嘘というわけでもない。思い人がいるのは本当だ。ただし人に言われて急かされるのは真っ平、まして早く口説き落として連れて来いなどと言われるのも。
(…申し訳ないですが、まだ決心がつきませんので)
忍びが本気で言いくるめた甲斐あって、長い説教も終わった去り際。気の毒なことを聞いてしまった詫びのつもりか、でなくばせめての親切か、大家は挨拶の後にひとつ付け足した。
「ああ、それからね…知らないでしょうけど、町の方にいい小間物屋があるそうですよ。どうです影野さん、なんならその意中の人に贈り物でもしてみたら」
「小間物屋ですか」
「ずいぶんいい品を扱っているとか、家内や娘が騒いでいましてねえ。趣味も使い勝手も良くて、しかもちょっと珍しいっていうんで」
「珍しいもの…」
それだけを問うなら他でもない彼女自身が、どういう仕組みになっているのかも判然としない、おそろしく便利で珍しいものを山ほど持っている。しかしその反面、日常的に皆が使っているものを見ては逐一驚いたり感心したりもするのだ(余談であるがは蚊帳を手に『アナログってほんとナメたもんじゃないわ…』などと呟いていた)(尚、どういう穴なのか理解できた者は一人もいない)。
また、綺麗なだけで脆いものも好きではなさそうだ。風変わりな意匠も面白いものも好きではあるが、まず第一に実用に耐え得るもの、という傾向がある。そういった点でも有り難い情報だった。
なにか買って行ったら喜ぶかもしれない。
「…ありがとうございます。行ってみます」
まず間違いなく、今日一日で最も気持ちのこもった言葉だった。
* * *
目深に笠を被っていてさえ、強い夏の陽射しは人を弱らせるものがある。ましてや自分のような日陰者であれば尚更。
同じ組の実技担当の日向なら大喜びするであろう雲ひとつない晴天だが、しかし斜堂にしてみれば、こんな日は確たる用事がないかぎり昼日中から出歩くのは遠慮したい。
(夜では何にもならないとしても、夕方くらいだったら店も閉まりはしないでしょうに)
木陰を選んで歩きながら、斜堂はとりとめもなく考えた。自分はいつからこんなことをするようになったのか。
早いうちに店まで行って、なるべく多い選択肢の中から彼女の好みに近そうなものを見つけ出そうなどと、少し前なら思いもしなかったに違いない。
(何故、でしょう…さんはこちらの人ではないのに。いつ元の時代に帰ってしまうとも知れない、渡り鳥のような人なのに)
どれだけ親しくなろうと、どれだけ好意を示されようと、は常に何歩か引いたところに立っている。
感情表現は豊かなほうで、表情も雰囲気もこちらに影響を与えるくらいにへらへらと締まらないのに、そのくせ我を忘れたり判断力を無くしたりしたところを見たことはない。肝心な部分は時に非情にすら見えるほど平静で、揺るぎがない。
視点を変えてみれば、見込みがないというのも存外嘘でなさそうだ。
こちらが手を伸ばせば(少なくとも好きだと言ってはいるのだから)無論握り返しはするだろうが、それとていつとも知れない、ここにいてくれる間だけではないのか。いざ生まれ育った時代に帰れるとなったら、感情がどうこうはお構い無しにふいと消え去ってしまいそうだ。
一つ処にどれほど馴染んでも、空を渡らずにはいない燕のように。
ならば自分はどうしたいのか。
それらしいことを言ったり今のように贈り物を探したり、気持ちに応えるような言動をするのなら、何らかの覚悟をしなくばなるまい。をここに留めておくか、あるいは。
(わたしが…向こうに行くか…?)
想像して、斜堂は思わず日ざかりの下に立ち止まった。
太陽はちょうど中天にあり、どう見積もっても涼しいとは言えない天気だというのに、脊髄に冷水でも流しかけられたように寒気がする。
できるはずがない。それは自分のすべてを捨てるに等しい。彼女がこちらでどうにかやっていけるのは、時代の知識や運を持ち合わせている他、忍術学園という後ろ楯の存在がやはり大きいところだ。もしも自分が彼女に着いて向こうへ渡ったとして、うまく生きられるかと問われれば。
答えは否。
さりとて生まれ育った時代で築いたすべてを、自分のために捨ててくださいとも言い切れない。なんとも中途半端な話ではないか。
(頭が煮えそうです…どちらの意味でも)
考えるのは後に回してともかく町まで行かないことには、日射病で倒れてこの場で死にかねない。もう一度笠を深く被り直して、斜堂は溜息混じりに歩を進めた。
遣り切れない思いを抱えて吐き出した息は、自分のものと思えないほど熱かった。
* * *
さすがに噂になるだけあって、人が絶えないせいだろう。町の外れにぽつりと一軒…などという、いかにも寂しげな場の雰囲気を殆ど感じさせない佇まいで、噂の小間物屋はそこにあった。
とはいえ、さほどきちんとした店ではない。
廃材や筵や暗色の布をうまく使って雰囲気をつけただけの、単純なつくりの屋台といったところか。表からは店の中が見え辛くなっていて、その代わりのように暗幕から「雑貨屋」と素っ気ない屋号を記した紙が下がっている。
大家はあまり商売っ気のない店主だと言っていたが、それにしても改めて目の当たりにするとなんとも言えない空気だ。これはよほどの変わり者か偏屈者だろう。
(なにか買っていくというよりも、さんを直接連れて来た方が喜びそうな…)
掃除婦はこうした薄暗い雰囲気が好きそうだ。
…というより、どうとも人心をくすぐるところのある店ではないか。人気はないものの、町外れにしては治安も悪くない…穴場とも呼べそうな場所にぽつりと一軒。扱う商品も持っていると目を引く、そんじょそこらでは取り扱っていなさそうな意匠の雑貨で、そこへ持ってきて、客を寄せ付けないとすら見えるこの空気。否が応にも想像力と好奇心を掻き立てる。
人間の心の奥底に確実に存在する薄闇への蠱惑を計算しているのだとすれば…店主は偏屈者であると同時に恐ろしいほどの策士でもあろう。
(この発想や周到さ…)
ひょっとしたら、忍びのそれか。
見せつけるような怪しげな振る舞いをすることで、まさかあんな分かり易い間諜はいないだろうと油断させる。よく使われる手法だ。
生まれ持っての気弱で陰気な表情の下に忍びとしての顔をひっそりと閉じ込めて、斜堂は何気ない風を装って暗幕を捲った。
途端、あまりのことに思わず自分の目を疑った。
幕で日光の入る角度をうまく調整し、人工的な薄暗さをつくった店の中。真正面に座った店主もこちらの姿を認めた瞬間、いらっしゃいませ、の、いの形に口を開けたまま似たような表情で固まった。
無理もあるまい。
「…こんなところで何をやっているのですか、さん」
「…斜堂先生こそ」
せめての変装か男のなりをしているが、どう間違っても斜堂が見紛うはずはない。
学園の掃除婦以外の誰でもなかった。
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