幽霊を見たら精神状態を疑え、とはよく言ったものだが、獣用の罠にかかって半泣きのおかしな女を見た場合はどれを疑えばいいだろうか。
カテゴライズするなら明らかに異常事態の範疇に収まるであろう今にあって、立花仙蔵は恐ろしく冷静であった。
獣の罠に人間が掛かったというだけのことなら、なるほど、それは異常ではない。どこにでも…は、いない底抜けの阿呆だが、ただそれだけであって特に意識を向けるようなこともない。彼が目を向けた対象は女の纏うひどく奇妙な、頓狂とすら言えそうなつくりの衣裳だった。
南蛮人の使う言葉に見えるおかしな模様を鮮やかな色で染め抜いた、袷も袖もない(ちょうど手頃な袋に穴を開けてかぶったような)着物の上には、群青色の丈夫そうな生地でできた丈の短い上着。
それだけですら妙だというのに、下に穿いたものに至ってはどういう意図があるのかもわからない。形としては袴のように見えなくもないが、その用を為さないほど丈が短く…また履物はそれとは逆に膝までをすっかり覆い隠している。あんな珍妙なものを穿くのだったら袴で事が足りるだろうに。
その服装は何百年か後にはロゴ入りのタンクトップとデニムのショートジャケット、ホットパンツに革のロングブーツなどと呼ばれる一般的なものであるが、当然ながらそんなことは彼の知ったことではなかった。
服装の方向性はどうあれ顔立ちは明らかに大和民族のもので…何より鮮やかな緑の黒髪であるから…南蛮人とも思えない。
珍妙な格好、あまりにも隙だらけの立ち居振舞い、見慣れない装身具。
この時代において異様でありすぎるが故、曲者というよりもそれはむしろ珍獣を発見した気分に近かった。


さて、ではどうすべきか。
木の上から彼女を見下ろしたまま、僅かに思案した。これほどまでに弱そうな相手だ、然程の警戒は必要あるまい。そもそも気配も消せていない上、足に食い込んだ虎挟みを力で外そうと躍起になっている大層な阿呆が忍者や密偵であろうとも思えなかった。
ならば一番妥当な線は。
(一般人、だろう。事実その辺りの農民よりよほど弱そうだ。手の甲が白いから農婦でもないな。しかしそれにしても、あの着物や持ち物…
 …いや、考えていても堂々巡りになるだけか)


ともかく話を聞いてみなくては始まらない。
仙蔵は誰にともなく頷くと、一動作で彼女の前へ飛び降りた。


 * * *


「…とまあ、そんな感じが第一印象だったな」
そう話を切った立花仙蔵君と私の方へ、黙って聞いていた作法委員会の低学年衆は驚いた目を向けたまま何度も何度も頷いた。
「失礼な。黙って聞いてりゃ人を珍妙珍妙と絶滅危惧種でも見つけたみたいに」
「珍妙に変わりはないのだから仕方がなかろう」
「それでここまでついて来て、学園長先生に保護してもらったんですね」
「…まあね」
よい子達の手前まあねと言ったが、あれは保護と呼ぶより尋問の類いだった。
なんにしても届けてもらってから暫く仙蔵君とは会わなかったため、その後のことなら私か先生方が一番詳しかろう。
件の彼女即ち私は結局学園長の前に引っ立てられて、当然のごとく周りの先生方に散々疑われ、どう説明したものか悩んだ末に(正直に話したとはいえ)相当恥ずかしい自己紹介をしてしまったことは未だ記憶に新しい。皆さん気にはしていないようだが私にとってすれば殊更恥ずかしかった。
まあ今から何百年も後の時代から来ただなんて言い分をどうにか信じてもらえたのは、私の下手くそな説明ではなく確たる物的証拠…こちらで言うところの面妖な旅行鞄すなわちトランクに詰めた、様々な「向こうの」品々が効を然してのことだった。
そしてこの時代の知識も行く当ても金もなかった私は学園長に土下座する勢いで頼み込んで、今こうして掃除婦兼事務員として働かせていただいている。…要は困ったちゃんなどこぞかの先輩のカバー要員であるようだが、当の本人は気付いていない。先生方もそれなりに優しいし子供たちはみんなよい子だし、食堂のおばちゃんも先輩事務員の小松田くんも(今この時代においては)天涯孤独の私を気遣ってくれる。
(やたらやかましい自称剣豪が学園破りだか殴り込みだかに来た時はさすがに弱ったものの、竹箒で引っ叩いて表に放り捨ててから来ていない。…一応言い訳をしておくと、掃除をしたばかりのところにどうやって小松田くんを潜り抜けたか知らないがドブの泥まみれで入ってきて、しかも人に飯まで要求したからだ。失礼な人間に用はありません!)
神、世にしろしめす。なべて世はこともなし。思ったよりもずっと平和ないいところじゃないか。


「あ、そこは」
「え?」


「いった…また落ち、! ぎゃああああなんか穴の底に蛇がいる!」 「また虫やら蛇やら逃がしたのか生物委員会は…」 「ちょ、ちょっと先輩、早く出さないと」 「ねえ、こっちにマムシのマーちゃん来てない? 箱に穴が空いてたみたいなんだけど」 「マムシィィ!?」 「おい大変だ虎若! この中だ!」 「ぎゃー上がれない! しかも蛇がこっち来る!」 「立花先輩、笑ってないで縄かなにか放ってあげないと噛まれて死んじゃいますよ!」 「いやだから笑ってないで仙蔵君! なんでそんな楽しそうなの!」




神、世にしろしめす。なべて世はこともなし。
嘘だ。