「…すみません」
「なにも謝らなくても。自分の意思でどうこうできることじゃないんだもの、気にしないで」
「でも、せっかくあなたが何度も来てくれているのに、その度こんな…情けないですよ」
「そう? 私はそうは思ってないわよ(…それに言ったら泣くだろうけど、薄々こういうことになるんじゃないかって予感もあったから)」
「はあ…」

行灯の幽かな灯りに照らされた、夜半九つの室内である。
布団を挟んで交わされるのは薄くか細い謝罪と、微苦笑混じりにそれを宥める声。
気にしないで、と。
もう何度この台詞を聞いたろう。斜堂は罪悪感と自己嫌悪に深く項垂れながら、向かいのに目線をやった。
彼女の態度に変わりはない。いつものように…今に限っては先のやり取りで僅かな呆れを含んでいるが…柔らかな表情のままだ。
わざわざ部屋まで呼んで抱きすくめておいてそこから身体がまるきり使い物にならないなどと、女にとっては侮辱のようなものだろうに…しかし自分を情けないと責めるでも嘲って笑うでもなく、無理をしないでといつも気遣ってくれる。
つくづく自分ごときにはずいぶん出来た人だと思うのに、その反面気遣われれば気遣われるほど心が重くなっていくのも事実なのだ。感謝しているのもべた惚れの首ったけなのも間違ってはいないのに、私なら構わないと言われるたび、いっそいい加減にしてと怒鳴られた方がましなほどの屈辱感に苛まれる。無理に笑ってくれなくても構いませんと撥ねつけてしまいたくなる。
そうして、その卑屈な考えに嫌気がさしてまた暗くなるのだから、悪循環もいいところだ。
(分かっていますよ。他意がないことぐらいは…)

「そう思い詰めないでってば。…たとえば人が相手じゃないんなら…自分でなら、どう?」
「じ、」
なにをいきなりそんなことを。
「…それはまあ。私も男ですから、あなたのいない夜にそう…なることもありますよ。ですけど、実際あなたを目の前にすると」
着物越しにしか触れられないという事実は、斜堂が自分で思うよりもはるかに黒い影を落としているのだろう。抱きしめたままどうすることもできず、時間だけを無為に消費する羽目になる。
それだってもう十分にわかっている…考えるようなことでさえない。人の肌であれ唇であれ、触れたところで何ほどもないくらい、とうの昔に分かっているのだ。
けれど恋が理屈でないように、神経質も潔癖症も悲観気質も理屈で割り切れる類のものではない。気の病は身体のそれとは違い、自分の考えがどうにかならない限り変わらない。さらに言えば、神経症などそうそう簡単に覆せるようなら、今頃斜堂は周りからもっと明るい印象を持たれているはずだ。
「うーん。それだったら、もう少し待ってみてもいいんじゃない? 時間がないわけでもないんだし、ゆっくり時間をかけて慣れればいいのよ」
そう告げたが手を伸ばし、削いだように痩せた頬をそっと撫でた。
「ほら。最初はこうやってちょっと顔や手に触るのだって抵抗があったみたいだけど、今は平気なんでしょう? …だから、そのうちちゃんと出来るようになるわ」
「…ええ」
これ以上触れられるようになるのが先か、それともいよいよ自分の神経が参ってしまうのが先か、この分ではわかったものではありませんけれど。
そう言いたくなった口をぐっと抑え込んで、斜堂は力無くうなずいた。


* * *


わずかな衣擦れの音と共に、を抱く腕にゆっくりと力を込める。
今夜こそ、今夜ならば、と思いながら、いったいどれだけの夜を過ごしただろう。もうそれさえ判然としない。先刻から手の震えが止まらないと思っていたが、ふとした拍子に震えているのは身体すべてだと気付いた。
まったく。自分はどれだけ情けないのだろう。そう改めて実感する。
まだ震える余地が残っているというのか。女々しいにも程があるだろうに。
さん…、話があります」
その言葉に、が肩に預けていた頭を持ち上げて視線を合わせる。

口から滑り出た声は、ひどく掠れていた。
「別れませんか」