いいえ、決してあなたのことが嫌いになったのではありません。
ただ、もう耐えきれないと思っただけなんです。自分がこれほど、…使い物にならないことも勿論そうですけれど、それに対しての自己嫌悪も入っていますけれど、本当は。
あなたに気を遣われるのが、辛いのです。
一応忍びですしそれなりの年ですから、女性にもそうした欲望があるくらいのことは分かっています。なのにずっと、こんな長い期間手も出されずに…口付けの一つもできないままに生殺しのような夜を過ごして、それで満足だなんて聞いたところで、どうして信じられますか。あなたはいつも構わないと笑ってくれますけれど、言われれば言われるほどその気遣いが重くて、押し潰されそうで、辛いのですよ。
それだけのことではありません。私は…あなたが心変わりをしないとは思えないのです。
…睨まないでください。だって。だってですよ…
今は好いてくれているから、そのおかげもあるでしょう。恋は盲目とはよく言ったもので、本当に、そういうものですから。でもある程度時間が経って…霧が晴れるように目が冴えるときは必ず来ます。ふっと我に帰ったなら、まず、こう考えると思うのです。
あれ、どうしてこんな面倒な人と付き合っているんだろう、と。
そういうときに私よりずっと見目の良い…それもこんな…心から好いた女性に口付け一つもできないような情けない男でなくて、もっと…健全な男性がいたとしたら。ふらりと揺らいでしまわないと本当に言い切れますか。そう考えると恐ろしくて仕方がなくて。
あなたが好きなのです。
本気で、心底から。
だから余計に目を覚まされるのが怖くて…これ以上のめり込んで深い傷を負う前に逃げようというのです。
身勝手で卑劣な言い分だと、自分でもわかっています。
でも、だから。
ごめんなさい。
ああ、もう、どうか嫌ってください。
こんな浅ましくて女々しい男のことなんか、もう知らないと突き放してください。そうでないと。そうでないと私は、…本当に神経をやられてしまいそうで。
…泣くまいと、思ったのですが…
* * *
長い独白を聞き終えて、がひとつ深い息をついた。
それにすら肩がびくりと震えてしまう。考えていたことはすべて言い終えた後…あれだけみっともない心の内を吐き出したあとで、おそらくとうに呆れられているだろうに。もう取り返しはつかないというのに。その溜息一つですべて引っくり返されそうになる。
今言ったことはすべて嘘ですと、どうか捨てないでくださいと、俯いた目に映った膝に縋りついて懇願したくなる衝動を、なけなしの精神力を総動員して斜堂はどうにか堪え切った。
「言いたいことは、それで全部?」
「ええ」
声にも感情らしきものはない。
「ひどいわね」
反論の余地はないとわかっていてさえ、身体か心か判然としないどこか奥底がずきりと痛む。
しかし斜堂が顔を上げるよりも、細い手で顎を掴まれて持ち上げられる方が早かった。
膝立ちになった彼女が、柔らかな舌先で目元を拭う。濡れた頬に唇を当てて涙の粒を吸い上げたと思うと、はそのままゆっくりと顔中に口付けを落としていった。
額、米神、頬、鼻、顎、唇と順繰りに幾度も口付けられるたび、あまりの心地好さに目眩がする。
普段ならば人の口など雑菌だらけだと厭うにも拘わらず、このときばかりはその温かさに何故だか陶然として。そっと唇が離されてからも、斜堂は目の焦点を合わせるのにほんの少し手間取った。
「…落ち着いた?」
「ええ、少しは…」
「じゃあ、影麿さん。少し私の話をするわ。本当なら絶対言わないつもりだった、私の本当の顔の話。
言ったらきっと気を悪くすると思って、今まで黙ってたけど。でもあなたは私が嫌いになったんじゃなくて、私に無理をさせることや気を遣わせることが辛いんでしょう? それならこれを知らせないまま、はいさようならなんて私のほうが嫌だもの。
…だから、聞いて」
* * *
私が一番好きなあなたの表情は、なんだと思う? …そう、表情。言い換えれば、どんな時のあなたが一番好きだと思う?
笑ってるとき?
残念。基本的には全部だけど、その点でいけば間違ってはいないんだけど。
正解は、泣いてるとき。
ああ、この言い方は語弊があるわね。一時的にネズミやゴキブリに悲鳴を上げてるときじゃなくて、正確には今みたいな…追い詰められて足掻いて打ちひしがれて、ずたずたに傷ついて、それを情けないと思って泣いてる時が一番好き。
どんなに考えてもどうしようもなくて、自分は男として駄目なんじゃないかって落ち込んでる時なんて…、もう。見てるとどきどきしてぞくぞくして、たまらなくって。あなたがそうやって悩んで苦しんで、私に申し訳ないっていつもの無表情を泣きそうに歪めてくれるたび、それこそ出来ないくらいどうってことないほど、本当に満たされるの。
まあ勿論、出来るんだったらそれに越したことはないんだけど。
だからね、なにも気なんか遣ってないの。
そうよ。ああやってことさら気を遣ったふうに大丈夫って笑えば、却って苦しそうにしてくれるから…その反応が嬉しくて、泣きそうなあなたをもっと見たくて。つい調子に乗ったの。
南蛮では、サディストって呼ぶんですって。惚れた相手をいたぶって泣かせることで、精神的、肉体的に快感を得る人種のこと。
それに驕りと自己保身もあったわ。いくら苦しくても辛くても、あなたの立場上私を責めることはできないって。だって私の側から別にいいのよって言われちゃったら、それ以上何も文句をつけられないものね。
怒ってくれたほうがましだって、思ったんでしょ?
…我ながら遠回しで手の込んだ、本当にたちの悪いいじめ方よ。
人格の破綻した女だって自覚はあるから、知ったら嫌がると思って。…嫌でしょう? 自分が悩んだり落ち込んだりするのが大好きで、ましてや泣かれるとぞくぞくするなんて。怖くて気持ち悪いでしょう。
でも、好きなの。
私の目は盲目でも節穴でもないわ、あなたのことは出来る限り客観視してるつもり。長所も短所も一般的な評価も。その上で、しかも世間的には短所だって認識されるところにべた惚れなの。幽霊みたいに不気味で陰気で、重度の潔癖症で神経質で、悲観気質で面倒くさい…そんな手のかかるところが、大好きよ。
うん、要は悪趣味なのかもしれないわね。
でもこればっかりは言えるわよ。あなたに抱いた思いの強さなら、いっそ病的なほどだって。
だから悟られないようにして、どんなことがあっても隠すつもりだったの。
別れたくないから。
愛想を尽かされるのが怖いから。あなたのような人には付き合い切れませんって、そう言われると思ったから。
ねえ、でも。
全部聞いた今も、もしまだ私を好きでいてくれるなら。
…捨てないでいて。
「ごめんなさい…もう、しないから」
* * *
追い詰められていたという自覚は正直に言えば薄々あったのだが、まさかこうまで意図的に追い込まれていたとは思わなかった。
だと言うのにすべて聞いた今でさえ…騙されたと、それこそ彼女の言う通り、もうこんな女はごめんだと愛想を尽かす気にもならないのはどうしたことか。
いや、とうにわかっている。結局のところ、それが自分を好いたうえでの言動だからこそだ。たとえどれほど意地の悪い真似をされようが、どれほど追い詰められようが、最終的には。
思っていてくれるのだと、その一つだけで。
一方、こんなことを繰り返していては嫌われやしないかとおっかなびっくり接していたともいう。その点今回のことは本当に読み通りだったと言えようが、それよりも。
(こんな…ひとだったのですね)
という人間はいつでも悠然と笑っていて、どんなことを言われても余裕気に微笑みながら先回りをして。さりげなくきついことを言ったりもするが、けれど基本的には優しい…そうしてなにより強い…自分では決して敵わないのだとさえ思っていた。
馬鹿もいいところだ。自分の女を天女だとでも思っていたのか。盲目になっていたのは誰あろう斜堂自身ではないか。なぜ気付いてやれなかった。
彼女はもの柔らかな微笑みの仮面の下、どろどろと熱い葛藤をずっと隠し通していたというのに。
自分に恋い焦がれるが故。
強く舌を噛んで(しゃべりたいけれどしゃべってはいけない時は大概そうする、と以前彼女から聞いたことがある)なんとか笑おうとした…どう見ても自嘲や自虐と呼ばれる類のその表情が、無性に。
今までで最も愛おしく感じられるのは、いったいどうしたことだろう。
「さん」
呼びかけると、着物の襟を掴んだ手だけがびくりと震えた。
「…思うのですが。
相手が泣いたり落ち込んだりする表情が好きで、それだけで多少のことが気にならないほど満たされると言うのなら…根が暗くて鬱になりやすい私とは、それこそ最高の相性ではないでしょうか」
告げた言葉に、思い切り見開かれた目がこちらを凝視した。ああ、ともすればこれは初めて彼女を泣かせることになるだろうかと、そんな考えがふと脳裏を過ぎる。
この際構うものか。
「好きですよ。…やっぱり、別れたくありません」
は泣きはしなかった。
そうまで懸命に堪える必要があるのかどうかは彼女にしか分からないが、きつく歯噛みをして幾度か首を振り、
それから、ゆっくりと斜堂に身を寄せた。
「…馬鹿な人」
「自覚はあります」
「そんなにいじめられたいの?」
「あなたが望むなら」
「私、考えてるほど甘い女じゃないわよ」
「ひょっとして別れたいのですか…?」
「それはいや」
「矛盾ですよ」
「ごめんなさい、意外だったから」
「謝らなければならないのは、私でしょう」
「なんで」
「言い訳をして竦んでいる暇があるなら、もっと早くこうするべきでした」
意味を図りかねてが顔を上げるよりも早く、斜堂は細い頤に手をやって持ち上げ、有無を言わせず唇を重ねた。
つい先刻、自分がそうされたように。
勿論まだ抵抗はある。
人の唇や口内の感触は吸い付くようで、生暖かくて、柔らかくぬるついていてひどく不快だ。
手が、身体が震えて、気を抜くと歯の根さえも合わなくなりそうだ。
けれど、だったらなんだというのだ。
これほどまでに好いた女なのだ。触れることに抵抗があるのなら、それが無くなるまで離すものか。
半ば自棄になったような結論ではあったけれど、しかし頭は奇妙なまでに冴えて。普段ならばこんなことは…考えはするかもしれないが、せいぜい実行する前に固まりついてしまうだろうにと、噛み付くように荒い口付けを交わしながら斜堂は思った。
それからどれだけ経ったかは判然としない。
を抱く腕も身体もいい加減震えが治まって、自分の内にあった恐怖と寒気が少しずつ…しかし確かに凪いで。そっと唇を離すと、至近距離で視線がかち合った。
「…やればできるものですね」
「やっぱり無理です、って言われると思ってたわ」
「正直、私も不安でした」
「それならそれでいいのよ。だってそういう時の影麿さん、とっても可愛く落ち込んでくれるもの」
「かわ、…」
「いや?」
本当のところを言えば、あまり歓迎したくはない形容であるが。
しかし。
「……嫌では、ありません。そう言われるのは好きではありませんが…嫌とまでは。それに…いつかあなたに、心から頼もしいと思ってもらえるようになればいい話です」
ですから、それまではお手柔らかに頼みますよ。
そう付け加えると、はこれまでで一番嬉しげに微笑んで、頷いた。
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