「ひ、」
ぎゃー! おばけ! と続くはずだった言葉は、何者かに後ろから羽交い絞めにされ口を塞がれて行き場をなくした。
恐怖のあまり暴れながら見ると、さっきまで玄関脇にうずくまっていた血まみれの幽霊がいない。どこ行った! というかこの状況、まさか今口を塞いでいるのは強盗で、幽霊と見えたのは気を引くためにそれっぽく変装した共犯者じゃないのか!
「ま、待ってください…叫ばないでください」
辺りに何人いるかはわからないが、位置からいって私を押さえつけている男だろう。不意に耳元で暗い声がした。強盗が何をいけずうずうしい。
「信じていただけないとは思いますが、幽霊でも物取りでもありません。お願いですから静かにしていてください。今ここで騒ぎを起こしたくないだけなんで、黙っていてさえくださればすぐ離しますから」
さほど小さく発しているわけでもないのに驚くほど通らない、闇に溶けるような低い声。闇がたり、とはこれのことか。
それが断続的にこちらを宥め、突然申し訳ない、敵意はないと繰り返す。その言い分を丸ごと信じたわけでこそないが…結局最終的に声に従って頷いたのは、押さえる腕に本当に敵意が感じられなかったからだ。しっかりとこちらの力を封じながらも無用に力を込めず、私が痛くないよう細心の注意を払っているように思えた。
…不審人物かどうかはさておき、とりあえずこの男は強盗ではなさそうだ。
* * *
「綿埃で悲鳴上げるようじゃしょうがないわ。…寝てるうちに掃除しよ」
一人暮らしには広い家だ。いちいち掃除も面倒くさくなって使わないところはほったらかし、必要に応じて掃除して使うという妙齢の女としてあるまじき…いやいやとても合理的な状況になっている。…でも、それにしたって入るなり悲鳴を上げることはないだろう招かれざる客のくせに! 結構ザックリきたぞこの潔癖症!
(まあその潔癖症の不審者を家に上げて怪我を手当てして食事出してやった時点でちょっと一人暮らしの独身女性としてどうかと思うけど)
そしてまた、今から数百年もの昔から来たなんて言い分を信じてやるというのもどうか。
「でもなー…私に取り入ってなにか搾り取るなりなんなり、そういう目的ならもうちょっといい嘘があるはずよねえ」
少なくとも私だったら、人に借りを作って取り入ろうかという時にわざわざ違う時代からタイムスリップしてきましたなんて言いたくない。下手をしなくても黄色い救急車が来るだろう。なんというおそろしいハイリスクローリターン。
そんなわけだからある程度の警戒は解かないまま、話半分程度に信じてやろう。
「今のところはそれでいいわね、感謝しなさいよ」
その言葉を残して二階の客間を掃除に向かった私は、結局遥か後に言われるまで気付かなかった(てっきり寝ていると思っていたのだから仕方ない)。
家主が出て行った後、斜堂影麿と名乗ったその不審者がひっそりと身を起こしていたことを。
「…感謝しています…。あなたが思っているよりも、ずっと」
* * *
私を拾った女性は警戒心が強く頭もそこそこ回るけれど、そのくせどこか肝心なところが致命的に抜けた人だった。
「そりゃここに置くのは構わないけど…参ったなあ。大丈夫?」
「大丈夫、とは?」
「だって斜堂さんここに入るなり悲鳴上げたでしょ、そんな重度の潔癖症がこの家でまともに生活できるとはとてもじゃないけど思えない」
言っとくけど私掃除のペースは変えないわよ、と冷たく目を眇めてみせる。…そういうところがこの人は本当に甘いんです、本質がお人好しのくせに。昨夜ここで寝入った(と見せていた)時、私に気付かれないよう遅くまで二階を掃除していたでしょうに。
そんな見せかけだけの下手くそな警戒ではすぐにどこかの忍者に付け入られてしまいますよ、と忠告しておきたいところだけれど、どうも聞く限りこの時代には忍者も侍もいないらしい。驚いた。
しかし一方、この上なく納得してもいる。大きな戦のない時代に生まれ育って、命の危機に晒されることなく生きてきたからこそこう、なんというか。
(脇が甘い、んですよねえ)
だからこそ一見取りつくしまもなさそうに見えて、付け入る隙が多い。
「…掃除くらい、私が代わりに納得いくまでやりますよ」
「! …い、つまででも、いていいわよ」
ほら御覧なさい。
* * *
壁に手をついて腰を落として、中途半端な馬跳びの馬のような状態でちょっと待っているように言われた。
(なにこれ)
うちには天窓だなんてものがある。
これはこれで晴れた日の夕方には鮮やかな橙色の光が射し入って綺麗だ。お気に入りだが、なにせ掃除ができない。脚立を使っても届かないものをどうしろというのだ。
…しかし、忍者ならばどうか? 職業柄常人よりもずっと身が軽いと言っていた、ひょっとしたら上れるかもしれない。そんな浅はかな考えでもってほぼ駄目元で斜堂さんに頼んだところ、脚立はいらないのでこの恰好でちょっと待っていてくださいと返ってきた。盛大に首を捻った。
いったい天窓の掃除とこの姿勢となんの関係があるんだろう。そう口に出そうとした途端、とん、と背中を強めに叩かれたような衝撃があった。なにか足りないものでもあっただろうか。
振り向くと、さっきまでそこにいたはずの斜堂さんが忽然と消えていた。
「あれ?」
「…どこを見てるんです、勘の悪い」
もうそろそろ聞き慣れてきた暗い声音が、頭上から聞こえる。
驚いて見上げた目に映ったのは、私の背よりもはるかに高い場所…幅にして数十センチ程度のキャットウォークになんと言うこともなさそうに立っている斜堂さんの姿だった。
* * *
「痛い、痛いですって! 全く、ほんとにあなた乱暴なんですから…」
「人に髪洗ってもらってる立場でなんですかねその言い草は。もっかい言ったら排水溝につまった髪浴槽に投げ入れるわよ」
「冗談でもそういう脅しはよしてください! 入れなくなるじゃありませんか!」
「だから、そうされたくなければ滅多な事は言わない方がいいってこと。…それにしても斜堂さん髪長いのね」
「そうですか? 人並ですよ」
「あ、そうか。室町時代ってったら髷を結ってる時代か…道理で綺麗な髪、だと……」
ぐい
「痛ァ!」
「ごめん、つい」
「ついじゃありませんよ今根こそぎ掴んで引っ張ったでしょうあなたって人は! ハゲたらどうしてくれるんですか!」
「解ったわよ、そしたら責任とってお嫁にもらってあげるってば」
「………。(今だって似たような状態のくせに、よく言いますよ)」
* * *
夜が明るいなど、思ってもみなかった。
「昼間みたい、は言いすぎなんじゃない?」
「そんなことはありませんよ、本当に昼間のようです」
彼女にとってはこの白い明かりのない夜こそ、むしろ馴染みがないのだとか。…可笑しな話だ。何百年もの時が経つと人の意識もこうまで変わるものか。向こうの夜がもしも暗くなかったとしたら…これだけの光量があちこちに設置されてなどいようものなら、僅かな月明かりをすら嫌い新月の闇に紛れて任務を決行する自分達など遣りづらくて仕方がないだろうに。
「でもね、ここからちょっと街灯の間隔が長くなってて暗いのよ」
言うと不意に柔らかな手がこちらの左腕を取って、するりと身を寄せてくる。おや、と少々意外に思う間もなく、低く抑えられた声が鼓膜を震わせた。
「気を付けないと…こうしてないと、ね」
妖が出るとでも言うのだろうか?
幽霊と間違われた初対面のときにも思ったが、化ける祟るといった手合いには彼女は滅法弱いようだ。普段は見せないそのいかにも女性らしい物言いを少しばかり可愛らしいと感じながら、背を抱き寄せようと手を伸ばしたが…
台詞にはまだ続きがあった。
「こうやって連れの存在を強調してないと、斜堂さん絶対幽霊に間違われるわよ」
「………。」
こんなときによりにもよって、告げる言葉がそれですか…
* * *
「…この体勢はどういうことですか…」
「こんな深夜に婦女子の部屋に忍んで来るぐらいだから、どうされてもいいのかなあと思って。ほら言うでしょ、据え膳食わぬはなんとやら」
「な…乱暴者の男みたいな言い方はよしなさい。言い分が根本からおかしいでしょう…だいたいどうして男の私が女性に組み伏せられないといけないんです。逆じゃないですかどう考えても」
「だって斜堂さん可愛いんだもん。いい年した男の悲鳴がきゃーってどうよ」
それ以外にも問題はある。
いきなりきゃーと悲鳴が上がったので何かと思って飛び出してみたら、部屋の前に枕を抱えた涙目の斜堂さんがいて、震える声で「向こうにゴキブリがいたんです、ここで一緒に寝かせてください」ときた。真性の女より色っぽいってどうなんだ、喧嘩でも売ってるのかこの男。しかも開けたスペースに不安そうに潜り込んでひっついてきたんだからもうこんな可愛い人、意地悪のひとつもしたくなるさ。サド心をくすぐるのも仕方ないさ。
「か、可愛いってなんですか」
「だって、それに」
くく、と喉で笑う。
「よしんば逆があったとして、斜堂さんが私を組み伏せるなんて似合わないでしょ?」
後になって冷静に考えてみれば、この一言は地雷だった。
しっかり両手を押さえ付けられたまま、斜堂さんはそれは人の悪い笑みを浮かべて、
「そうとも、限りませんね」
気がついたら鮮やかに視界が裏返っていた。
「…あれ?」
言っておくが私は断じて力を抜いていなかった。だというのにいつの間にこんなことになって、なぜ天井を見上げているのか。それにさほど強く押さえられてもいないのに全く動けないのは一体どういうことなのか。
「力は抜かなくともあなたは所作が隙だらけなんです。人間、勝利を確信している時ほど反撃しやすいものですよ」
勝って兜の緒を締めよ、とはそういうことです。言うと、斜堂さんはにやりと笑ってみせる。
「あの…この後って」
「おや、あなた確か先ほど言いませんでしたか?
据え膳食わぬは…」
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