「消毒してください」
人の寝床に忍んで来ていきなりこの台詞だ。まさか夜這いをかけられているのかと思ったが、違うらしい。
「…消毒液を切らしたんなら、私は持ってないから医務室…っ」
医務室に行って貰ってきて、と言い終えるより早く腰と背に腕が巻き付いた。肩に顎が乗るほどきつく…まるで縋るように抱きつかれる。
「影麿さん?」
掛けた声にもいらえはない。痩身に纏った忍装束の匂いを認めて、ああそういうことかと漸く納得がいった。
香と白粉と、血の臭い。
どれほど好いた相手がいようとも、他の相手を抱けないようでは忍びと言えない。
今さっきどんな任務をこなしたのかは私の知るところではないが、大方辛いことがあったのだろう。いつもならば任務の後…それも他の女性を抱いた後などまず真っ先に湯を使って痕跡を消し去って、ここに来るのはそれからだ。忍びとしての仕事は、他者には決して気取らせないのがルールだから。
何かあったのだ。気付かれまいとするより…私のことを思うよりも先にこうしなくては治まらないようなことが。
「…すみません」
「謝らなくてもいいわ」
任務に行くのも人を殺すのも、今回のように意に染まない相手を抱くことでさえも、一介の事務員の私では変わってあげられないあなたの仕事で…辛いのは誰でもないあなたなのに。
それなのにどうして私が影麿さんを責められる筋合いがあるだろう。
「だって、もう気付いているでしょう。私。…私は、今まで」
「いいってば」
もちろん他の女性の匂いがすることを快く思うはずはないが、それでも馬鹿にしてもらっちゃ困る。決して精神面の強くないあなたがこうして落ち込んでいる時、無条件に受け入れて縋らせてもあげられないような狭量な女ではない。そもそもそんな女にあなたの相手は務まらない。
「ねえ、影麿さん。見縊らないで。私はあなたがどんな酷いことをしていても、どんなに汚くても構わない。それを全部呑み込めるぐらいの度量もなしに、忍びを好いたはずがないでしょう。
だから辛い時ぐらいは私に気を遣ったり謝ったりしないで、心行くまで泣けばいいの」
* * *
人を騙すという行為は、ある意味では殺すよりも重い罪だ。
斜堂影麿はそう思っている。そしてその点で言えば今回の任務は本当に酷いものだった。
天性の薄い気配は、人の警戒心を解くにあたって役に立つ。それも今回の標的のように…臆病で人見知りの、男慣れしていない娘であれば尚のこと。幽鬼を思わせる微かな気配と、仕事でなければそれこそ口に出すも躊躇うような気障な口説き文句を駆使してするりと内懐に入り込み、情報を引き出した手際は我ながら鮮やかにすぎて吐き気がした。
思い返す度嫌になる。
自分を信じ切った表情を、甘えるように身を寄せてきた仕草を、溢れるばかりの恋情を込めて偽りの名を呼ぶ声を。そうして、命を奪う間際の目の光を。
ほんの数年も前ならばこんなことで悩み患うことはなかった。大切なものなど生涯持つまいと思っていた。下手に人間としての情など持っては任務に障りが出ると…今にして思えば、そんなことを考えていたなどと若造もいいところではある。
どこまで情を殺そうとも、からくり仕掛けのような無慈悲に徹することなどできはしない。
忍びと言えど人間である以上、どこまで行っても惑うのだ。
況してや、心から好いた女に好かれるなどという至福を知ってしまえば尚更に。
(汚、い)
惚れた相手が有りながら臆面もなく、あなただけだの誰より愛らしいだの、そんな洒落者めいた言葉を吐いた口が汚らしい。
一片の心もないくせをして、さも愛おしげに触れて口付けて、抱くだけ抱いて心を蕩かせた、我が身の全てが厭わしい。
いかほど身体を洗おうが、頭から消毒液を被ろうが、決して消えぬ汚れが澱のように胃の腑にわだかまっている。
それを認識した時、斜堂の足はふらふらとの元へ向かっていた。彼女に申し訳ないと、こんな精神状態で会いに行ったところで困らせるだけだろうと、そう思いながらも足は止まらなかった。心も身体も、自分のすべてが、縋って泣ける場所を求めるように。
「消毒してください、さん」
音もなく忍び込んで呼びかけて、蒲団から起き上がったを有無を言わせず抱きすくめ…もとい、縋りついた。
忍術学園の事務員を努めるだけはある。その身体からはなんの匂いもしない。ぴたりと身を寄せるとようやく解るほどに微かな…ほの甘い女の匂いだけが鼻腔を満たして、ああ、これでは自分がどんなことをしてきたのか一目瞭然ではないか、と今更のように斜堂は自分を呪った。普段から香や化粧の匂いをさせない者は、相手の匂いを敏感に嗅ぎ分けるものであるから。
けれど謝罪の言葉を口に乗せるよりも先に、がゆっくりと手を伸ばした。
(え)
装束に顔を近づけて鼻を鳴らしはしたが、何も聞かれないままあやすように抱き締められる。
(どうして。…今さっきまで私のしていたことぐらい、あなたに解らないはずがないのに)
仕事柄か元のものか、なかなかに察しは早い女である。一を聞いて十を知る、とまでは行かないようだが、一を知ったなら五くらいまでは考えが及ぶ。その上でこうして…黙って抱いていてくれるというのは。
(許してくれるの、でしょうか…)
「…すみません」
「謝らなくてもいいわ」
軽く背を叩きながら、柔らかな声がそう返す。
(だって辛いのはあなたじゃないですか。私は忍びだけれど、辛いのも苦しいのもすべて承知でこの仕事を選んだけれど…あなたは事務員で。ただ私を好いてくれただけで。私の任務には何の関わりも持てない…どんな経緯でどんなことをしたのか、詳細を知ることも口を出すことも一切許されない立場で、それだから…辛いでしょうに)
故にこそ、あなたなんか最低だと…他の女の匂いなど纏いつかせてどの面を下げて来られたのだと罵られても、自分が反論できる筋合いはない。
「だって、もう気付いているでしょう。私。…私は、今まで」
「いいってば」
ほんの少し、の声が跳ね上がる。自分の背を抱く腕にもぐっと力が込められて…それはまるで、もう改めて告げなくても何もかもわかっているのだと言わんばかりに。
「ねえ、影麿さん。見縊らないで。私はあなたがどんな酷いことをしていても、どんなに汚くても構わない。それを全部呑み込めるぐらいの度量もなしに、忍びを好いたはずがないでしょう」
だから辛い時ぐらいは気を遣ったり謝ったりしないで、心行くまで泣けばいい。夜が明けるまでだって抱いていてあげる。
そう続けられた言葉が、ぎりぎりまで堪えていたものを…感情の堤防を突き崩す、たった一つの小石になった。
「、さん!」
それこそ文字通りにに縋って、自分よりもずっと細い肩に顔を埋めるような形で、斜堂は身も世もなく泣き付いた。骨が折れるのではないかとさえ思うほど、感情のままに力を込めて。
どうしてこんなことを言ってくれるのだ。
自分は許されるべきでなどない、そんな資格があろうはずがない。今回だけでなく…これまでだって任務の名の元に何度となく人を殺して、騙して、裏切って、見限って、様々なものを捨ててきている。
本当はもうとうの昔に理解している。身体も思考も黒と赤に染まりきっているくせをして、今更清潔でいたいなどと大した戯言。どろどろと血に塗れた汚らしい我と我が身を、何度呪ったかも数え切れないのに。
なのに。
どれほど汚くても構わない、などと。
忍びにとってこれ以上の殺し文句があるだろうか。
(…ああ。ああ、もう。…私)
「私、は…何も、教えられない、のに。どんな状況でどんなことをしたか、…なにも、言えないのに」
「それでもいいって言ってるの。私の知らないところであなたがどんなにひどいことをしたって、誰が許さなくたって、それも全部呑み込んで消毒してあげるから。
だから、泣いて。気が済むまでね」
そうして温かな唇をゆっくりと自分のそれへ重ねられて、陶然とする間もなしに、顔中に優しく口付けられて。
ああ、人の体温はこれほど心地好いものだったか、と。
いい年をして、斜堂は初めてそう思った。
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