いつの間に眠っていたのだろう。
暖かいを通り越して暑くさえなってきた時期だが、今日に限ってはさほど湿度も高くなく、よく晴れた気持ちのいい陽気。しかも森の中で濃い緑の匂いにくるまれていては、いくら勇者といえどうたた寝くらいする。
元はと言えば薬草を採りに来たのだが、少しばかり眠ってしまっても支障は出ない。今日はどのみち一人なのだ。
ドレンは小さく欠伸をしながら、ずり落ちかけた帽子を直した。
その途端。
   
「よくお休みで」
   
「うわああああ!」
唐突に横合いから掛けられた声が鼓動を跳ね上げ、急激に意識を引き戻した。
相棒のシャスカではなく、聞き覚えのあるようなないような男声。ということは赤の他人…しかも男が、やはり成人男性の自分の寝姿など延々見ていたのだろうかと的の外れた考えが浮かび、そんな場合ではないが背筋が寒くなる。慌て者たる所以である。
次いで勢いよく声の方へ振り向いたドレンは、信じられない顔を見た。
木の幹に背を預けたままにやにやと笑うのは、関わりは少ないがよく見知った人物だ。…正確には、見知った神だが。
「あなたは…破壊神!?」
「おや、有り難い。さして面識もないのに覚えていてくれたか」
あからさまな皮肉である。
直接戦った訳ではなくとも、魔物達の産みの親。自分達からすれば忘れる方が難しい。
「改めて名乗ろう、勇者ドレン。私は破壊神、魔王軍の諸悪の根元だ。どうぞお見知り置きを」
言い方も言い方なら、胸に手を当てて一礼する仕草さえ、優雅であるのにどこか人を小馬鹿にした素振りだ。
「何の用です? シャスカなら今日は別行動ですよ、一人で竜を狩りに行きました」
「しばらく見ていたが、そうだろうな」
「なら、どうして」
自分の寝こける姿が面白かったなどと、まさかそこまでくだらない理由ではなかろうが。
「それなんだが。いや、とりあえず最初に悪かったと言っておくか」
「は…?」
「今日は天気がいいからな、魔王とムスメ、あと魔王軍から適当に見繕って遊びに出て来たんだ」
「魔王や破壊神がアウトドア…」
「似合わないのはわかっているが、言うな。それでだ、酒の入ったネクラス部隊が調子に乗って空に舞い上がってララバイの合唱を始めてだ…それが存外に大声でこの辺一帯の動物がぶっ倒れて眠り出すわ、鳥が枝から落ちてくるわ。しまいに通りすがりの人間までばたばたひっくり返っていったあたりで、さすがに力ずくで止めさせた」
「なるほど、私はその巻き添えですか」
「ステータス異常の万能薬を作ろうと森に入ったら、お前が突っ伏して寝ていた。起こしてもよかったが、黙って見てたほうが驚くと思ってな」
「………。」
予想以上にくだらない理由だった。
「ああ、それからもう一つ謝ることがある。お前の側にあった握り飯、あれ眠り薬を混ぜてネクラス達の口にねじ込んだんだった。逆に眠らせでもしないと黙らんからなあいつら」
「構いませんよ…どっちみちもう食欲がなくなりました」
「なんなら魔王軍の宴会に混じって何か食べて帰るか?」
「総大将のあなたが言っていいことじゃないでしょう!」
「冗談だ。私は構わなくても下が納得するまい」
「……!」
穏やかに見えても邪教の神。人間の神の使徒たる僧侶に向かって悪趣味な冗談を言うものだ。
手の中の仕込み杖で殴り倒してやりたくなったが、相手は片手でツルハシを振るい岩を砕く破壊神。そんなものに腕力で挑むほどドレンは馬鹿ではなかった。…あの軟弱魔王であれば、まあ、素手の格闘でも互角ぐらいいけるかもしれないが。
ツルハシを持たなければ魔物を生み出すことはできないと聞くが、単純に腕力だけを見てもその危険度は相当だと踏んでいる。なめてかかっていい相手ではない。
「さあ、気は済んだから戻るかな。あまり待たせると魔王がうるさい」
それだから、視界から消えてくれるのは有り難いはずだというのに。
「は、破壊神!」
「ん?」
一体どうして自分は、脅威の権化たるこの神を呼び止めてしまったのか。
   
「なんだ」
「あ…いや、あの、」
引き留めておきながら何を言いたいのか解らなくなって、ドレンはあたふたと口籠もり、目の前で怪訝そうな顔をする破壊神から視線を逸らした。
呼んでみただけ♪…などと言っては壊滅的な空気になる。
何か。
「前から、その…聞いてみたいことがあったんですが」
困惑したあげく口から滑り出てきたのはそんな一言だった。
「なんだ、言ってみろ。今日は機嫌がいいから大概のことは答えてやるぞ」
踵を返しかけていた破壊神が愉しげな笑みを浮かべてこちらへ向き直り、ゆっくりと歩み寄ってくる。
   
黒髪に黒い目。黒い服。死体を思わせるほどに血の気のない、白いだけの肌。
まるで無彩色で構成されたようなモノクロームの神の頭上から木漏れ日が注がれ、その身に金の彩りを添える。
非現実感に息が詰まりそうだ。
   
「あなたは」
「私が?」
「あなたは、どうして魔王に義理を立てるんです。
 破壊神と呼ばれてはいても、あなたは決して道理を知らない訳ではないのに。肩を持つわけではなく、シャスカの言うように地上は地上、地下は地下で、世界征服などと欲をかかず平穏に暮らすことは望まなかったと? …勝者に向かって言うことではないですが…魔物達を愛するあなたが強行軍を以てしても征服を果たした理由は、魔王が望んだからだと、本当にそれだけなんですか」
慌てていたのが嘘のような勢いで、ずっと前から胸の内につかえていたものを、ドレンは一息に吐き出した。
冷笑されるか、怒りでもって叱責されるか、もしくはその膂力を有した手で首を引き千切られるか。
背を冷や汗が伝い、身体が強張る。思わず生唾を飲み込む。
しかし、予想に反して破壊神は柔らかく笑った。
「理由か…」
「ええ」
「ならばお前は、私のことをよく知らんらしい」
「…え?」
「まず言っておこう。私はあの馬鹿に義理を立てた覚えはない」
「ば、馬鹿ってそんな、いくらなんでも」
さすがに言い過ぎではないのか。
だが自分が弁明してはなんだか可笑しなことになる。微妙な顔をするドレンをよそに、破壊神は飄然と続けた。
「あれはまったくもって馬鹿だ。元々名家の長男として生まれ、手厚い庇護の下でぬくぬくと育ち、気がついたら魔界の王になっていたそうでな」
「…それが何か」
チヌラレタ過去があるとか、心臓を引き裂かれるような悲惨な記憶に捕らわれた復讐鬼であるだとか…あの魔王にそんなものは端から見ていなかったが。
   
「だからな、本来なら圧倒的なまでの地上の軍勢に喧嘩を売る必要はないはずだろう」
まさか、そんなことを言われるとは思いも寄らなかった。
   
「しかしあの馬鹿は、それをやった。本当なら権力に任せて自分と、家族と、その周囲だけを守ってのうのうと暮らすことだってできる身…いや、普通はそうするだろう。
 なのに魔力を使い果たしてまで、説明書もろくに読まん困った神を呼び出し…もう退路が残っていないのだとしても…煽てたり宥めたりぺこぺこ頭を下げたりして、掘り方のノウハウや魔物の扱いを教え込んで。その上更に簀巻きにされたり、水やコケ浸しのダンジョンに立たされたり。そんな真似をするやつが馬鹿でない道理はあるまい?」
静かに語る神の目は、注がれる陽光と同じほど穏やかに凪いでいた。
「それで尚魔界の民を思ってやり遂げようとする大馬鹿に、私は王たる気概を見た。言うなれば絆されてしまったんだ。そうだな、お前の相棒の言い方を借りるとしたら、あの軟弱魔王は私の同志と呼ぶべきかな。
 理由と言うなら、そのくらいだ。…ご満足いただけたかね?」
暫し言葉が見つからず、ドレンはその場に立ち竦んだ。
満足どころの話ではなかった。貫頭衣に織り込まれた神の紋章を、指が虚しいほどの力で引っ掻く。濃く気持ちのいい緑の匂いも、暖かな太陽光も、なにも感じない。
その胸を占めるのは、神の使徒たる者が持ってはならない感情。
   
胃の腑が焼けそうな嫉妬に、目眩がした。
   
   
「どうした?」
答えようと口を開いたら泣き叫んでしまいそうで、ドレンは必死に歯を噛みしめた。
邪教の神たるこの破壊神は、魔界の王の願いに手を差し伸べ、応えたというのに。魔界の民に限りないほどの愛を注いで、慈しむというのに。
自分達人の子の神は、なぜ一度たりとも助けてくれない。
世界各国を回ってきたドレンも、シャスカも、ほかの勇者達も、神が人を助けた事例など知らない。
魔物に蹂躙され助けを求める善良なる者にも、喊声を上げて立ち向かう勇者にも、自分達の神は応えない。ただ蒼穹の高みに座して聞き続けるだけなのに。
なのに。それなのに。
魔族ばかりが!
   
   
伏せた顔を上げ、刃物のような眼光で神を射抜く。
色をなくすほど強く握った拳をもって、今度こそドレンは首を傾げる破壊神の横っ面を思いきり殴り飛ばした。
   
…はずだった。
   
   
「神に仕える者が衝動的な暴力とは、感心できんな」
破壊神は一歩も動いていない。
子供に殴られた大人のようなものだ。わざわざ避けるまでもないとばかり微動だにせず立っていて、決してそこまで非力ではないはずなのに、全体重をかけて殴りつけた自分の手だけが酷く痛む。
「…あ、」
自分が一体何をしたのか、認識すると同時に全身から血の気が引いた。なんと馬鹿なことを。圧倒的な実力差のある相手に向かって、ついさっき手を止めた意味がなくなるほど明確に、これ以上なくあからさまに、殺気と攻撃を叩きつけて。ああ。なんと馬鹿な。
これではもう自分は生きてはいられまい。
恐怖にきつく目を閉じたドレンの手を、しかし虫に食われたほども感じてはいないのか、破壊神は柔らかく握って押し戻すだけだった。
もう片手が、ずれた帽子をそっと直す気配がする。
「まあ、なんだ…落ちつけ。殺したりしないから。力ずくでゴメンナサイと言わせてもいいんだが、子供じゃあるまいし、それもな」
(子供…の、ようなものだ、私など)
この力が直接侵攻に向かなかった理由はわからないが、それをされていなかったことは果たして幸運なのか、不運なのか。ある意味では、最初に圧倒的なまでの力を示され隷属を迫られた方が、最強の毒薬とも称される希望を含まずにいられるだけまだましであったかも知れない。
無力感に打ちひしがれて、握られたままだった手がだらりと落ちる。考える余裕もないままに口から言葉が零れる。
「…んで、どうして、あなたが…そんな」
「お前は『どうして』ばかりだな」
「どうしてあなたが、そんなことを! あなたは破壊神なのに。魔界の神なのに…私達の神は、護ってもくださらないのに!」
   
その叫びに返ってきたのは、先ほどまでの表情とは打って変わった嗜虐的な笑みだった。
「ああ、ああ、なるほど…訳がわからなかったが要はお前、悔しいのか。
 そうだろう。お前達の言う邪教の神と、魔王と、その黒い軍に叩き伏せられて、それでもなにもしてくれない神の薄情さがさぞ恨めしいだろうな」
嗤って言葉を紡ぐ神の目は、まるで月光のように清澄で冷たかった。
   
   
「案外かわいいじゃないか。
 ドレン。哀れな人の子。その悲しみに免じていいことを教えてやろう」
ずいと前に進み出てくる。数歩後ずさると、それに合わせてまた距離を詰められる。
   
「そんな非情な神は見限って、闇に堕ちてしまえば楽になれるぞ」
繰り返すうちに、背が木の幹に触れて退路がなくなる。
   
「どうだ…私とともに崩れてみないか?」
僅かに背を屈め、喉元を舐め上げるように視線を這わせる破壊神の声は、吐き気がするほど甘い。
   
「私の使徒になるならたっぷり可愛がってやろう。これでも神のはしくれ、慈悲も加護もその手に余るほど注いでやる。快楽をお望みなら毎晩でも鳴かせてやる」
   
聞き入れてはならないと思いながら、どうしても引き寄せられる。
それはまさしく悪魔の声だ。
   
   
「それともいっそのこと、今ここで、」
無理やりに引きずり落とされる方が好みか?
囁いて、顔を寄せられる。
頭の未だ冷静な部分は落ちてはならないと必死に喚き立てるが、恐怖と蠱惑に弛緩した体は、いとも容易く抵抗をはぎ取られた。仮初めにもそれは神と呼ばれる身。僧侶ではあっても30年も生きていない若造が勝負になるはずもなく。
後ろに木がなければとうにへたり込んでいるだろう痩身は、もう震えてさえいない。
自分達の神を信じていたい。なのに厳然たる真実はどうしても信じさせてくれない。打ちのめされて弱った心に、禍々しい声が囁く。
こっちへおいで。
可哀相な、迷える人の子。私はお前を見殺しになどしないよ。私の手を取るのなら、いつでも縋らせてあげるよ。
実に単純で使い古された洗脳の手段。
しかしそれを行使するのは人間でなく神なのだから、食らう身からすれば、さぞ凶悪な威力だろう。…だが経緯は何にせよ、魔の神の前で心のごく柔らかいところを晒してしまったのは間違いでしかない。
(魔は人の弱みに付け入る…隙を見せれば牙をつき立てられると、僧院では真っ先に教えるべきことではないのかな…まあ、場合によるか)
口から歯を覗かせてほくそ笑む破壊神はそんなことを考えていたが、ドレンが知る由はなかった。
口付けようとしたその矢先。
   
狙いすましたようなタイミングで、携帯電話の無機質な着信音が場を破った。
「…ふん」
興が冷めたのか、先ほどまで確かに神が纏っていた得も言われぬ空気は雲散霧消した。右手はドレンの首を押さえて、左手だけで器用に電話を開き耳に当てる。
「もしもし…なんだムスメか。え、もう薬は作って配布済み…あ。ああ悪かった。ちょっと興味をそそるものを見つけて…いやいや、こっちの話だ。なに? 出なかったら魔王が捜索隊を組むところだった? 大袈裟なやつだ…まあ、今帰る。10分くらい待ってろ」
通話を終えてぱちりと電話をたたみ、服の内ポケットに仕舞い込む。
「済まんな、魔王軍を待たせているのをすっかり忘れていた。残念ながらお開きだ」
本気で残念そうに、ドレンの首から手が離れた。
「その気になったら、いつでもダンジョンに来るといい。もちろんシャスカと共に魔王を捕獲しに来るんでも、全軍力をもって歓迎しよう。
 じゃあな」
最後に一度頬に口付けて、破壊神は振り向きもせず木立の中へと消えていった。
   
   
木の幹に預けた背が滑り落ちる。今更になって震えが来た。
座り込んだドレンは貫頭衣の上から常に身につけた神の印を探り、布越しに強く握り締めた。
(…神よ。我らが神よ。どうかこの小さき者を、お護りください)
   
でなくば、きっと落ちてしまう。
いくつもの雰囲気をもって人心を惑わし、こちらの口へたっぷりと蜜の詰まった林檎を押し当ててくる、かの邪教の神に。
当初は首を捻ったが、今ならばシャスカが魅入られた訳も解ろうというもの。
あれは毒蛇だ。目を逸らすことも出来ない鮮やかな体色と、鮮烈な毒。
   
血の気の引いた身体の中にあって、口付けられた頬だけが燃えるように熱い。
逃げる場所など、どこにもなかった。
   
   
   
   
   
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ナニガシかの宗教的な意図は 一 切 ありません。本当です。