まっくら、だ。
来ておいて言うことではないが、やはり地下になど降りる者の気が知れない。闇も、閉所も大嫌いだ。暗がりの中はひどく恐ろしいなにかが潜んでいて、自分を捉えて食ってしまうような気になる。閉め切られた所は壁がじわじわと迫ってきて、仕舞いには圧死させられるような気になる。人間の本能だ。こんなダンジョンになど来なければ良かった。怖い。狭い。真っ暗だ。怖い。怖い。こわい。いやだ。来るんじゃなかった。出してくれ。ああ、あの岩陰。魔族とも違う得体のしれない不気味ななにかが潜んでいそうだ。いやきっと潜んでいる。きっとこの世のものとも思えない厭らしい虫が潜んでいる。ああ、この天井も壁も。迫ってくるのだ。きっとそうだ。じわじわとその面積を縮めて私の逃げ場を塞いで、挟み込んで、圧力をかけて。最後には全身の骨を砕かれて、陸に上げられた深海魚のように口から内臓をはみ出させて。ああ。ああ。こわい。死にたくない。死にたくない。いやだ。死ぬのはいやだ。出してくれ! ここから! ここから出せ! 出せ! 出せ!
「うぁ、あああ! あああああ! あああああぁぁぁああああああぁぁっ!」
男の絶叫が闇を引き裂いた。
* * *
まず目に入ったのはランプの灯りと、側に立つ者の笑み。
「おや、おはよう。いい夢を御覧だったようで何より」
見覚えはない。
黒髪に黒い目、黒い服。闇に溶け込みそうななりをしていて、浮かべた笑みもそれに相応しく、ひどく邪悪ななにかを感じさせる。…大体いい夢とは何事だ。起き抜けの絶叫はまだ自分の喉がありありと覚えている。
「!」
辺りを見回して、男は全身から血の気が引いた。
なぜ力尽きたはずの自分がまだダンジョンに、それも部屋の体が整っているならともかく、こんな狭苦しい通路に寝かされているのだ。
気に入りの白を基調とした貫頭衣と帽子、その下の茶色の髪はべっとりと血で汚れている。…そこは意識を無くす前のままだが、不思議なのは目の前の…自分の狼狽する様をただにやにやと見詰める、
黒尽くめの、
「貴様は」
周囲に満ちた色濃い死の気配に、うまく言葉が出ない。
嫌な仮定だが、否定要素が見当たらない。魔物でも魔王でもなく、また勇者でもない。その上で地下にいるのなら、これはかの噂に聞いた。
「破壊神、か…?」
肯定の代わりに、それは楽しげに声を立てて笑った。
「おや、光栄だ。私のことは御存じのようだな、勇者メンドサ」
今は勇者の中で案外知られているらしいから不思議はないか。言いながら、破壊神はまた笑う。
背に冷や汗が伝う。
思わず声が跳ね上がった。
「なにが面白い!」
こちらの怒声など気にも留めていない様子で、魔界の神は続けた。
「まあ、なんだ。私なんぞお前の知名度には適わないと思うがね…
いやいや、まったく羨ましくなるくらい評判が悪い。ファイトマネーで銀行をカンストさせた逸話はよく知っているぞ、新聞で読んだからな。いやあ、いたく感心した。廉潔であるべき僧侶のくせになかなか強欲なやつもいるもんだ」
「それがどうした…無駄話がしたいのか」
「来たら来たで、なんとも嫌らしいやり方で逃げ回ってくれたな」
破壊神の目がすっと細まり、刃物のような光を帯びる。
「そんなに暗いのが怖いんなら来なけりゃいい。でなかったらさっさとやられてしまえば、次に目が覚めるのは表のセーブポイントだ。それを真っ暗な中あちこち逃げ回っては魔物達を蹴散らして、危なくなったら他の仲間に送りつけて、生き延びてはまた逃げて…お前はここまでなにしに来た。嫌がらせか?」
そこで漸く気付いた。
破壊神は、笑みを浮かべながら怒っている。
「食うために殺すなら正当だ。恨みで殺すなら、それもわかる。目的を達成するための手段として殺すのは、憎いが、ぎりぎりで、わからなくもない。…しかしお前は目的も曖昧なまま、私の子供達をいたずらに殺して回った。
ちょっとばかり灸を据えてやりたくてな。ここに呼んだのはその為だ」
メンドサの視界に映る神は、種族としての意味合い以外にも、人の姿を取っていながら人ではない。
これは、彼の恐怖する闇そのものだ。
ことにその瞳。底が見えないほど深いくせにおそろしく狭く…そして吸い込まれそうに昏い。それが静かな怒りをもって、自分の奥を覗き込んでくる。
「っ! 来るな!」
側に転がっていた杖を引き寄せて咄嗟に発動させたのは、全てを凍てつかせる純白の吹雪。手の中から巻き起こしたブリザードが破壊神を捉えた。
瞬時にその姿は白く染め変えられる。
「しかし、あれだ」
…黒に戻るのも、一瞬だったが。
「宗教に携る者というのは本当に喧嘩っ早いな」
ぱきん。
澄んだ音が聞こえた時には、元の色を取り戻した神の足元に、いくつもの氷の欠片が散らばっていた。
「私もこれで神と呼ばれる身、人間の攻撃を受けつけるほどやわじゃあないが…どうする。お前が満足するまで魔法を仕掛けてみても構わんぞ?」
言われる前に魔力を練り上げ、叩きつけていた。
何度も何度も渾身のブリザードを食らわせる。余波で周囲の温度がぐんと下がり、足元も岩壁も天井も凍り付く。後ろにほんの僅か残っていた魔水などもう見る影もない。なのに。力を使い果たし、肩で息をするほど魔法を見舞って、それでも。
身体どころか髪の一本…衣服にさえ、霜の一片も降りていない。
(敵わない!)
「お前の異名は、王の中の王か。あいにく私は真っ白に燃え尽きても凍りついてもやらんが…今までどれだけの闇をそうやって染めてきた?」
一歩一歩、張り付けたように白々しい笑みを見せながらゆっくりと近付いてくるのは、こちらに恐怖を与えるためか。今更与えられるまでもなく、破壊神の存在など恐怖そのものでしかないというのに。
「そこまでするほど暗がりが怖いのなら」
破壊神が手を伸ばして軽く額を小突いた途端、消耗しきって力の入らなかった足は呆気なく限界を訴え、その場にくず折れた。
「精々、怖い思いをして帰るがいい」
必死に手足を動かし、這いずって狭い通路を逃げ回るが、元々寝かされていた場所も解らないのだ。どこをどう進めばいいというのか。
幾重にも分かれた地下通路に、引き攣るような呼吸音と硬質の靴音が響いては消える。
「ほらほら。そこは行き止まりだぞ。見えないか?」
狭いのが嫌いだと言っていたから、わざわざ通路しかないところに運んだくらいだ。血腥い表情を見せつけて魔の神が嗤う。
言う通り、簡単に行き止まりへ追い詰められた。
引っ切り無しに溢れ出て顎を伝う涙で、僧服の襟元が濡れている。もう正気を投げ捨てて、力一杯に叫んで泣き喚いて、狂ってしまいたいのに狂いきれない。勇者として鍛えられた精神力そのものが、皮肉なことに、壊れてこの恐怖から逃れることを許さなかった。
強い後悔の念が胸中を満たす。
深淵が、再び彼の目を覗いた。
真っ暗な、狭い、孔。
「あ…あああ、ああ」
息の掛かる位に距離を詰められ、視界一面に黒が広がる。
…それが口付けられたのだと解ったのは、ひどく苦い…薬臭いなにかを口移しに流し込まれ、飲み込んでしまった後だった。
意識が輪郭を失くす。酩酊したように頭がくらくら揺れる。
今ここで気絶してしまったらどうなる。どうもならない。死ぬだけだ。破壊神はひどく怒っている。きっともう復活できないよう丁寧に『殺される』のだ。内臓を抜かれ、四肢をばらばらにされて、魔物に食われる。なににしても、もう、生きていられない。復活など望めない。
いやだ、死にたくない。こわい。死にたくない。出してくれ。いやだ。死ぬのはいやだ。狭い。暗い。やはり来るべきではなかった。ダンジョンになど。怖い。こわい。いやだ。ああ。ああ。来るんじゃなかった! 死にたくない!
「たすけ…て…」
「助けてやるさ、あまり時間もないことだ。この程度で済ませてやったことを神に感謝するがいい。…お前も、僧侶のはしくれならば」
そしていつか、闇への恐怖が薄まったら…闘争の覚悟ができたら、殺し合いの作法がわかったなら、また来い。その時は、歓迎しよう。
勿論、二度と来ないのも自由だが。
気を失う直前、かすかに耳に残ったのはそんな言葉だった。
* * *
あまり優しいとは言えない手付きで地面に放り出されて、目が覚めた。
「起きたか」
「!」
聞き覚えはなくとも、男声だというだけで悲鳴を上げそうになったのが我ながらひどく情けなかった。よく見ればその人影は、破壊神とは似ても似つかないというのに(帽子とマントの影が特徴的な…いわゆる魔物ハンターという職種の者のようだった)。
見回してみるに、この場所もどう見積もってもダンジョンではない。森の中だ。おそらくは来る前…セーブポイントを置いた宿と、あの忌まわしい地下の中間点といったところか。
(…殺されなかった?)
「あ、ああ…貴方が、助けてくれたのか」
口から零れた声は、自分のものと思えないほど掠れて弱々しかった。
「助けたというほどのことじゃあない。わたしが地下に潜ろうとしたら、ぼろ雑巾のような姿の誰かが魔物達に放り出されていてな。よく見たらそれは人間で、お前だった。だからとりあえず、少しは魔物の少ないところまで引き摺ってきたんだ」
「魔物達に?」
意図はわからないが、ともかくあのどうしようもない状況下で、自分は死なずに済んだのだということだ。
一気に全身から力が抜けた。
(そうすると、この男は次にダンジョンに入る『勇者』か)
今にして思えば、あんな中に入って行こうなどというのは確かに『勇気ある者』と言われるに相応しいのではないだろうか。メンドサは心からそう思った。
「まあ、通りすがりのいらん節介だがな」
「そんなことはない、助かった。礼を言いたい、…ええと」
「シャスカだ」
「そうか。有難う…恩に着る、シャスカ」
ありがとう、などと。口にしたのは何年振りだろう。
生死の境目を見た者は人格が変わると古来から言われつけているが、まったく、その通りだ。
(明るい。それに、空が高くて広い)
それだけのことが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
(すぐにラムゥとアタールを探しに行こう。体力が戻ったら、すぐ。そうして、もうしばらくあの場所には行かないと伝えよう…)
自分はこれから、変わるのか、変わらないのか。ひょっとしたら月日と経験があの恐怖を癒してくれるかもしれなければ、何年たっても変わらないのかもしれない。けれど少なくとも脳髄に恐怖を穿たれた今の状態では、何回、何十回挑んでも勝てはしない。
そればかりはなににも増してはっきりと理解した。
「私はもう行くぞ」
「待て」
気付けば、踵を返したその背へ声を掛けていた。
怪訝そうに振り向いた男の肩口…おそらく魔物に咬まれたのだろう傷へと杖を向けた。ほんの僅かだけ回復した魔力をかき集めて、口早にヒールの呪文を詠唱する。
暖かな光が傷を覆った。
「これはご丁寧に」
「礼というにはささやかだが。あと、そう…気をつけた方がいい、あの魔王軍は極めて意地が悪い」
「魔物などそんなものだろう」
自信有り気に、シャスカは笑う。
「それから一つ。いらない世話とは思うが、忠言をしておきたい。
ここにいるからには腕利きなのだろうが、とはいえ、ハンターの戦い方は攻撃的に過ぎる。…防御を優先しろとまでは言わないが、僧侶の一人ぐらいは加えた方が効率は良くなるはずだ」
「そうか。それもそうだ」
矜持の高い魔物ハンターにしては、おかしなほど素直に忠言を聞き入れるものだ。
思った途端、言葉が続いた。
「この後もしも負けるようなら、考えておこう」
お互いそれ以上話すこともない。
今度こそシャスカが踵を返す。歩み去って行ったその背に、メンドサはぽつりと呟いた。
「負けるなどと、考えてもいない口振りだな。
ああいう奴なら、案外あの破壊神に相対しても臆さないかもしれないが」
魔の神に指摘された通り、強欲で…そのくせ臆病な私でも、人の神がまだ祈る資格をお与え下さるならば。
せめて善きお導きがあるよう、彼のために祈ってみよう。
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該当ステージ、画面の向こうから「何しに来たんだ!」と突っ込まない方はたぶんいないであろう閉暗所恐怖症の彼。
しかしお前はどんだけ僧侶が好きなんですかというね。しかし好きだね! ここは譲れんね!
出世のためならどこにでも旅に出たり、ファイトマネーで銀行をカンストさせる成金だったり、この世界の僧侶ってすげえ強欲ですけどなんなの。おかしいなー君ら聖職者じゃないのと問い質したくなることもしばしば。
(あと「異様なまでに生に執着する」とか、「水に対してトラウマを持つ」とかの記述も好きです。図鑑のスキル説明って萌えますねフヘヘ)
ところで私にとってのフシギなダンジョンは商人の方です。ストライプの。
たまに苦渋の決断でくさったパン食った記憶も懐かしい。そんで「金を稼ぎに入った」「青&白が基調の」メンドサ君を「魔物にほっぽり出させて」おります。