頭が奇妙に冴えていた。
全身を覆う倦怠感も、熱も鼻水も喉の痛みも、きれいに消えた。昨夜までは少し身体を動かすだけで関節がぎしぎし悲鳴を上げたというのに、今朝はむしろ常態より動きやすい。
額を冷やしていたタオルと水の入った洗面器、それから大量に寝汗をかいて着替えた寝間着が部屋の隅に放置されていなければ、元から風邪など引いていなかったのだと錯覚しかねないほど。
いくら何でも一晩でこれはない。
「…破壊神さま!」
寝台から上半身だけを起こしていた魔王は、ふと頭を過ぎった考えに跳ね起きた。手早く全身の汗を拭い、身繕いを済ませ、走り出さん勢いで破壊神の自室へ向かう。
異様に軽快に動く身体が、いっそ憎らしくもあった。
* * *
「ふん、夏風邪はバカしか引かんと言うな」
(仰る通りです、はい)
地下は涼しいが夏場なら大丈夫だと、ろくに身体を暖めもしなかった自分は相当馬鹿だ。
まあ、水中に放置されていたのも原因だが。…さらに破壊神がその後『新しい戦術を試してみたい』と、魔水浸しの魔王の部屋へ剣士や僧侶や錬金術師を山ほど呼びつけ、(やはり勇者達も暑かったのか)次々巻き起こるブリザードに寒がる魔王を意にも介さず連戦を強いたのも原因だg
(………。ちょ、これ破壊神さまのせいじゃないですか! 改めて思い返して魔王ビックリですぞ!)
言ってやりたいがろくに声が出ない。
怨みがましい横目に力を込めて、傍らの椅子に座った破壊神をじっとりと睨めつけたが、そんな程度で堪えるはずもなかった。主は喉の奥で笑って、寝込んだせいで乱れに乱れた深紫の髪を戯れのような手付きで撫でつけ、呟く。
「まあ、なんだ。これに懲りたら年甲斐もなくノースリーブはやめたらどうだ。ムスメにもさんざんダサいと言われてるだろ」
(だから問題はそこじゃありません!)
破壊神の笑みは変わらない。現実は無情である。
「後で聞いてやるから、ねてろ」
(…ひらがなな辺り…なんだかんだ言ってほんとお好きですよね。しょうた)
思うとおりにツッコめないのでは仕方がない。文句は後々じっくり言うことにして、魔王は重い瞼を坐した。
そして夢の中で、とても奇妙な声を聞いた。
魔界の王の知識を持ってしても、それがどういった言葉かはわからない。人でも魔でもなく、また血反吐を吐くまで学んだ神族言語とも違うようだ。
意味はわからないが、心地いい。
歌詞のない歌にも、古代の呪文にも似た、意味が解るような解らないような…独特の抑揚をもって紡がれる声。
ほんのひととき宙を揺蕩い、耳へ滑り込んでくる。柔らかく全身に染み入り、あたたかな湯のように魔王の体中の痛苦を溶かし、吸い上げ、拭い去っては引いていく。
寄せては返す細波か、または体内を巡る血の脈動か。
緩やかで規則正しい、生の祝福のリズム。
(…どこかで、聞いたような…)
けれど、夢でも現でも幻でも、そんなものはどうでもいい。
この声に包まれていれば、光溢れた聖なる神殿も天使の剣も、何一つ恐るるには足らない。
そう感じた。
* * *
そして明け方に目が覚めたら、症状と一緒に、枕元にいたはずの破壊神が消えていた。
(間違いない、あれは、破壊神さまだ)
いつぞや怪我をした時に聞いた。破壊神はその力の形から、癒しの呪文は使えない…そもそも覚える必要がない。
質感こそ人のそれだが、神の肌は何も通さない。刃物でも魔法でも火器でも、思いきり首を絞めたとしても。いつかのような絨毯爆撃でも。魔力を取り戻した魔王がもしも渾身の力を込めて魔法を叩き込んだとしても、おそらく平然としているだろう。…さらに聞くと、魔法による状態異常や病気でさえ破壊神の前では無効化されるという。
掠り傷さえ負わないというのはどうも想像がつかないが、実に羨ましいパラメータではある。
「それだから必要はなかった。友人ならいっそ禍々しいくらいの回復魔法を使えるんだがな…習っておけばよかった」
「ご友人…が、いらっしゃるんですな、破壊神さまでも」
「『不誠実な金を使ってでも友人は作るべし』だ。それより『でも』の理由を聞こうか」
「あっいえいえいえいえ…てっきりトモダチ少ないタイプかと」
「ふん、まあ…当たらずも遠からず、悲しいかなこの友情は私の片思いだ」
それは友情と呼んでいいのだろうか。
しれっといらない事実をカミングアウトしつつ、主は続けた。自分でも一つだけ相手の傷を癒せる魔法を使える。だがあまり使いたくはない。
「内傷、外傷、病気に状態異常、なんでも治せるが、その代わり」
魔法を向けて癒した相手の痛苦は、全て術者が請け負ってしまう。その場合は破壊神の防御もまったく意味は為さないと。
「破壊神さま…Mの気はないと言っていらしたのに、どうしてそんな不便な魔法を」
「昔死ぬほど暇だった時、なんだっていいから読む物が欲しくて買った魔道書に載っててな。つい覚えてしまった」
「………。」
眉唾ものだ、と魔王は思う。
破壊神のことだ、なんの気なしに魔法を覚えるなどということは…気紛れであるから案外やりそうな気もするが…それだって、あまり、ない。
(こういう時のためだ!)
一風変わった神だ。普段は邪悪そのものの笑みを纏っているくせに変に律義で、ふと人間じみて道理をわきまえた、穏やかな顔を見せる。自分の手違いで誰かを病気にしたり、傷を負わせたりしてしまった時のためなのだと今ならわかる。
主に負担をかけるまいと声を落としながら、部屋の戸を叩いて訪う。
「破壊神さま」
返答はない。
「破壊神さま、いらっしゃるんでしょう。開けてくだされ」
呻くような声が聞こえた。
「入りますぞ!」
同意もなく破壊神の自室に押し入るなど、無礼というにも余りある振る舞いではあろう。
ここで入るなと言われたら一応開けないつもりではいたが、しかしそれに返ってきたのは、ひどく掠れた肯定の声だった。
「…わかった、入れ」
戸を押し開けると、破壊神は案の定肩まで布団を掛け、自分で用意したのか額に氷嚢を乗せて、寝台に横になっていた。
「もうバレたか」
「あいにく魔王は記憶力には自信がございますからな。この魔法のことだって覚えておりましたぞ、ええしっかりと」
軽い舌打ちと咳が聞こえる。
掠れて咳交じりの声の…さぞ痛むであろう喉を撫でながら主は懸命に身を起こし、常よりずっと鈍って迫力のなくなった眼光で魔王を睨みつけた。
「気の利かん、奴だな。覚えていたんだったら私の意向を汲んで、黙ってセイリョクテキに政務に取り組めばいいんだ。
…大元は、私の不注意だろうが」
「あー確かに破壊神さまのせいではありますよ、ありますけどね! でも原因はどうあれ破壊神さまに代わっていただくぐらいなら、自分で引いてた方がずっとマシです! 政務は根性でこなします!」
「上が根性論で病気をどうこう言ったらいかんな。下の者が休み難くなる」
「揚げ足取らんでください!」
血色の悪い手が大儀そうに持ち上がって頬に触れる。言い尽くせぬ思いを流し込まんとするように、魔王はしっかりとそれを捉えて押し戴いた。
まったく、本当に、ろくなことをしない神だ。
罹った感じからいえばそう軽いものではない…それだから病気などというものに縁のない破壊神にとっては、なおさら不快感もひどいだろうに。
(ああ、でも、つまり)
自分にはたかだか風邪でも、病魔に慣れていない神の身体ではどういう作用を起こすか解らないとか。いくら破壊神の防御が優れていようと、身体の中からではどうにもならないのではあるまいか、とか。そもそも風邪といっても歴とした病気。万一がないなどと誰が言い切れるだろうとか。
後付けでどんな理屈を捏ねようが、結局言いたいことは一つ。
「知ってますよ、破壊神さまがそういう方だってことぐらい。でもですね、もうこの際同意は求めません。破壊神さまのお気持ちなんか丸無視して決めつけさせていただきますぞ。ダメと言ったらダメです。
…魔王の大事な破壊神さまが苦しむなんて、嫌ですからな…」
この一つきりだ。
「非論理的な魔界の王もいたもんだ。だが、まあ…もう、しない。
悪かったな」
素直な破壊神さまはなにか裏がありそうだなーと勘ぐってしまうこの魔王めは、ヒネくれているでしょうか。
もう少しでそう聞くところではあったが、やめた。
「『イイエ』。許しません。…でも魔王に大人しく看病されて、早く治ったら許して差し上げますぞ?」
「はいはい」
「ハイは一回です」
「ところで魔王、一つ聞きたい」
「はい?」
「おかしなもんだな、この状態異常は誰かこう…人に会いたくなる作用でもあるのか」
「…あ、あります! ありますとも!」
「何を笑ってる」
「いえいえ…そうですか、そうでしたか…破壊神さまはなんとも人間めいた神様だと思いましたが、なるほど、そういうとこもおありなんですなァ!」
「なんだろう。意味はよく解らんが、とても不快だということだけは解った」
「まあまあ、もう朝ですし、食欲ないと思いますが何か一口でも食べてくだされ。オカユ持って来ましょうか…あ、リンゴのほうがよろしいですかな?」
(世界はそれを『人恋しい』と呼ぶのですよ! 破壊神さま!)