その冠に魔力を込めたのは、ほんの条件反射のようなものだった。
常ならばか細い悲鳴と共に崩れ落ちていくレディが、その時は優しく微笑んでいたからか。それが割合長く破壊神の身の回りの世話をしていたからか。…もしくは珍しいことに、その瞬間破壊神が軽く息を飲んだからか。
理由など、きっとなんだって構わなかった。
   
クリスタルレディのほっそりとした肢体が、あざやかな翡翠色に煌めく髪が、三つ叉の槍が、目の前で輪郭をなくしていく。
そのすべてが砂のように崩れるのを見たとき、魔王は愛用の杖から咄嗟に力を送り込んでいた。本来ならば持ち主と共に砕け、土に還るはずの冠は、レディが直前まで立っていた飛び石の上で悲鳴代わりのような硬音を上げ、落ちる。
破壊神は意外そうに目を丸くしてそれを見つめ、やがて腰を屈め金色の冠を拾い上げると、こちらへ視線を向けた。
なんとなく魔王は背筋を伸ばした。
別段後ろ暗いことをしたわけでもないが、破壊神の目がいつになく神妙であったからかもしれない。
「…おまえか?」
「はい」
冠に視線を落としながら呟いた次の瞬間には、もう目の中から珍しい色は消えてなくなっていた。
   
「差し出がましいことを致しましたかな」
「まったくだ。前から思っていたが、お前は結構ロマンティックの気があるな」
「ちょ、ロマンティックをそんな持病みたいに言わんでください」
破壊神はいつものように人の悪い笑みで、掲げたその冠を戴冠式さながらに仰々しい仕草で魔王の頭へと乗せてみせる。…深紫に金色が映えてなかなか綺麗だと言われたところで、自分はどういう反応を求められているのだろう。
「…天命だ。今日が初めてという訳でもあるまい」
神の名に似合わぬ消え入りそうな声を、魔族の鋭敏な聴覚が拾い上げた。
破壊神は元より、保有する魔力の桁が違う高位の魔族、弱くともそれなりにしぶとい人間達と比べれば、魔物達の寿命は一際短い。確かに今日が初めてではなく、そういったことをいちいち気にしていてはコケ一匹間引けもしないだろう。
ましてや寿命で消えゆく命を無理やり長引かせるなど、神も魔王も本意ではない。
そう思うからこそレディ本体でなく冠に魔力を込めたのだが、破壊神の反応を見る限り、少なくとも余計なお世話ではなかったようだ。
とりとめもないことを考えていると、頭からふと重みが消えた。
「大きさも重さも丁度いいな、文鎮にでもするか」
「ああ、この間落として割ったとか言ってましたな」
大事にしてくださってレディも喜びましょう。言いたかったが、主が望むのはおそらくそういった言葉でもなさそうだ。
喋らなければ何のためにいるのかわからないと自分で言ったことさえあった魔王も、この時ばかりは口を噤んだ。
   
   
* * *
   
   
二度目にそれを見たのは数週間後の、破壊神の自室だった。
借りた本を返しに机に近寄ると、なにか書き物をしていたらしい痕跡と共に、紙の上に見覚えのある冠が乗っている。
(おや、これは)
まだ取ってあったのかと注視して、今は文鎮となったそれが曇りなく磨かれていることに気付く。
「それか?」
「ええ」
「案外使い勝手がよくてな、どうも捨てる気にならん」
破壊神の横顔は、いつか見たような微妙に図りづらいそれだ。
(使い勝手が悪くとも捨てたりなさらない方なのは、もう魔界全域が存じておりますよ。破壊神さまはまったくデレを隠す気があるのかないのかわかりませんな)
…などと言おうものなら顔面にハイドロライドを五連発ほど食らいかねないが。
「まあなんだ…あれも、もう三日ほど前まで生きていればな」
「はあ…三日ですか?」
「いや、何でもない」
「なにか御入り用でしたかな?」
「何でもない」
破壊神が表情を消したのが見えたので、気にはなったが追求はしないでおいた。下手なところを突っ込むとそれこそハイドロライドが来そうだ。しかもおそらくは魔王の書斎か寝室か、より一層心身にダメージの強い場所で。
神は壁に吊したカレンダーを見ながら、『らしくもないことだ』などと呟いている。
(あ!)
破壊神が何を思っているか、何を言っているのか。
不意に全てが繋がった。
「それでは破壊神さま、私はこれで」
「ああ」
   
   
長い廊下を歩きながら、魔王はいつぞや交わした破壊神との会話を思い返す。
『なあ、魔王。娘がいるというのも割といいものかもしれんな』
『どうなさいました、急に。そりゃあいいですとも。実に可愛いものですよ!』
『ああ、うん、そうか。そうだな』
主はその日大層機嫌が良く、自分はふと聞いたのだ。
『いいことでもありましたか、破壊神さま』
『ん? …いやなに、大したことでもないが…私の身の回りの世話をしてくれるレディがいるだろう』
あのクリスタルレディは破壊神を殊更慕っているようだからと側に付けたのは、間違いなく魔王自身だった。
『あいつが言ったんだ』
   
―身の程知らずをお許しくださいね。
 わたくし、破壊神さまを本当のお父さまのように思っておりますのよ。
   
『あれは参った。神ともあろう私が、嬉しくてな』
破壊神が魔物達を子供達と呼び愛おしんでいることなど、もう知らぬ者はいるまい。魔界の常識のようにさえなりつつあった。そしてまた、愛されている側の魔物達も破壊神をこよなく慕い、信頼に報いるべく戦いに命を張る。実にいい関係であると魔王も思っている。
しかし正面からそんなふうに言われたのは初めてだと、神はあの時本当に嬉しそうに笑っていた。
(三日前といえば、六月の第三日曜日…父の日か)
   
その日に、あのレディに、笑いかけて欲しかったのだろうか。
破壊神さまありがとうと、皆にそう呼ばれるのが不満なのではないと魔王も解っている。
それでも、もう一度だけ。
自分が娘に「魔王様」でなく「パパ」と呼ばれるように。
お父さまと呼んで欲しかったのではないか。
   
(……まあ、想像なんだがな)
それにしたって悪いものではなかろう。魔王は僅かに笑みを浮かべた。
いつか破壊神と自分とムスメと、それから魔王軍を山ほど連れて、どこかに遊びに出るとしようか。
   
   
* * *
   
   
吹き込む夜風が黒い髪を揺らした。
自室の窓を閉めた破壊神は、なんとなしに手に取った金色の冠を頭に乗せてみる。
確かな重みのあるそれは金ではない。主をなくせば大概砕けるのが定めの、ただの魔分の欠片だ。微妙に割り切れない気分になるのが不思議で、自分の手で砕いて土くれに変えてしまおうかと何度か考えたが、それもできず。
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
聞く者のない呟きは夏場の濃い闇に溶け、消えた。
生前どれだけ自分を慕っていようが、生き物はいずれ死んで意識を失くし、土へと還る。この世界から去りゆく命にいちいち思いを馳せるなど、神のすることではない。
そう思いながら、しかし今夜も冠を壊すことはしないまま、破壊神はそれを静かに机へ戻した。
   
悪くはなかった。
慕われるのはもちろん大歓迎だ。純然たる好意を…敬愛を向けられるのは嬉しい。けれど自分はどこまで行っても破壊神で、血を同じくする彼らの同族ではないのだとふとしたところで思う、そんなときに。
「お父さまのように、か。
 ………ならば、もう少し生きていればよかったろうに。親不孝め」
   
寝台に潜り込み、明りを消してから、破壊神はもうひとつ言いたかったことを思い出した。少しの間迷ったが、結局ここに聞くものがいないなら同じこと。
全てはつまらない一人ごとなのだ。
   
   
もう一度魔分から生まれ出てきたなら、また私に仕えるがいい。
お前も、魔王も、そのムスメも、他の魔物も、私は心から愛しているとも。
それだから。
   
   
「今までご苦労だったな。…ゆっくりおやすみ。娘よ」
   
   
   
   
   
   
   
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レディ系の「実は女性形の植物」って設定が好きだ