目覚めて最初に視界に入ったのはダンジョンの天井でなく、テントの幕と支柱だった。
   
状況を把握するより先に頭頂部に手がいった。
しかし探ってもあの情けない猫の耳はどこにもない。それどころか殆ど猫の毛でしかなかった髪も、力を入れづらかった細い小さな身体も元の…人間の、成人男性のそれだ。顔の横にきちんと人間の丸い耳もついている。
「た…助かった…」
心底安堵した拍子に全身から力が抜ける。
破壊神に薬を差し出された時は極限まで不安になったものの、さすがに魔物の神と王。その情報網に間違いはなかったようだ。
「今回だけは、心から感謝してもいいかもしれんな」
呟いてまた笑った。
ああ、口調ももとのままだ。
   
(だが一体ここは…)
ベースキャンプならば表にいるはずだ。ギルド直属のレスキューはわざわざベッドに寝かせてくれるほど甘くはない。大抵乱暴に表へ放り出したのち、一瞥もくれず行ってしまう(いくらなんでも負傷者にあれはないだろうと他のハンターから苦情もあるらしいが、今のところ改善の兆しはなさそうだ)。
それ以前に、ギルドのベースキャンプに誰かが暮らす痕跡はない。
とりあえず側に置いてあった帽子を頭に乗せ、マントを着たあたりで甲高い声がした。
   
「起きた!」
   
目を向けると、利かん気の強そうな顔立ちの子供がテントの入り口を捲って顔を覗かせている。
「あ、おい」
少年は止める間も何かを聞く間もなく足早に駆け出すと、テントから飛び出し、(聴覚が人間に戻っていてよかったと思うほどの)大声で叫び散らした。
「おおいみんな! 勇者の兄ちゃん起きたよー!」
「…勇者?」
シャスカはつい首を捻った。状況からして自分のことなのだろうが、もう勇者ではない。そもそも勇者と名乗ったことさえあまり多くはない。
   
「なんだ、起きたって?」
「おお本当だ」
「三日も寝てたんだよ」
「よかったねえ勇者さま!」
「救世主さま!」
   
考える暇もあればこそ。老若男女を問わずわらわらと集まってきた顔ぶれが一様に浮かべた感謝の表情に、シャスカは思いきり眉を顰めた。
同時にハンターの土地勘が場所も割り出した。黒豹に似たあの忌々しい竜と交戦した樹海。
(…つまりここは、依頼元の集落か)
「ご無事でなによりです、勇者さま」
赤子を抱いた老婆が側に膝をついて、止せばいいものをさめざめと泣き出した。
「顔馴染みだって人が担いできて、説明してくれたんだよ。俺達を庇って呪いを受けたんだってな」
その人物に曰く、竜を討伐した時負った噛み傷から唾液が入り込み、シャスカの身に深刻な呪いを齎したのだとか。嘘をつけと怒鳴りたい気分ではあるが、その後の説明ができないのでそれも為らない。
「しかもその人が言うには、勇者さま。あんた竜を討伐してから、俺たちに呪いが及ばないように一人で消えるつもりだったって聞いてよ」
「だから手厚く看護してやってくれって」
「なかなかできることじゃありませんよねえ」
「有り難いこと…こんな私たちのために…」
「みんなで看病したんだよ」
「あの人が呪いを解いて下さったからいいけど、そうでなければお礼も言えなかったなんてね」
   
シャスカは心底思った。
私のためと言うなら、放置しておいてほしかった。
   
(誰が勇者で、救世主だ…私はただ仕事で来ただけで、来てみたらろくに支払えるものがないと言うから受け取らなかっただけで、帰りざまに魔物を討伐したのはただ寝覚めが悪かっただけだ!)
弱いもののためだの平和のためだの、そんなことを声高に語ったためしはない。それどころか魔界の神と王に頼りさえしたこの自分が、感謝され拝まれる筋合いなどどこにあるだろう。
いたたまれない余りに顔から火が出そうだ。
「…拝まないでくれ」
「またそんなことを」
「よしてくれ」
「謙虚なかただねえ」
「褒めないでくれ、頼むから」
「そうだ、あんたにって手紙が」
「え、ああ…それは済まな、
 ………。」
   
(感謝する、というのは取り消しだ。
 覚えていろ、破壊神!)
   
紙にはたった一言。
『お前、礼を言われるのが苦手だろう?』
   
破り捨ててやりたかったが、癪に障ることに手は動かなかった。
   
   
* * *
   
   
「今頃は感謝の言葉と視線に囲まれて悶絶している頃だろうかな。わざわざ背負っていって、勇敢だの慈悲深いだの褒め千切ってやった甲斐もあるというものだ」
「…よくお分かりで」
「あれはきっと年寄りに親切にした後『運動量を減らして骨密度を下げて足腰立たなくしてやろうと思ったんだ』とか言い訳するタイプだ」
「そうした習性はツンデレとかいうテンプレートに嵌められ萌えられてしまう近今、さぞ生きにくいタイプでしょうにゃ」
   
「「………。」」
   
同時に顔が引き攣る。
「おい、魔王…今気付いたがその頭のモフモフしたのはなんだ」
「え…あ、あ! ああああああああああああああああ!」
   
魔王の絶叫は魔界全域に轟いた。
   
「そ、そういえばあの時、牙が当たって、少し指が、切れ…」
「…唾液から感染したな。シャスカは赤みがかった茶系だったが、お前は真っ黒耳か…ほう…」
「呑気に言わんとってください! こ、こんにゃ有様では部下どころかムスメの前にも出られにゃいでしょう私!」
「まあいいんじゃないのか? 立たされ魔王とか簀巻き魔王とか呼ばれて威厳が地を這っている今、お前に猫耳ぐらい生えたところで「そんにゃこと言わにゃいで助けてくだされ破壊神さま!」
「薬の残りがあるから飲んでおけ」
「エッ!」
身体ごとドン引いて壁にへばり付き、ふるふると首を横に振る魔王へ、破壊神は無情に言葉を続けてみせる。
「薬が苦いからイヤとは子供かお前。飲みたくないならかまわんが、そしたら猫耳魔王というどうしようもないジャンルが生まれるな。ぞっとしないと言ったのはお前だ。ほら口を開けろ、往生際の悪い! そしてついでにその耳を思うさまモフらせろ!」
   
   
にゃああああああああ!
   
   
   
   
   
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「にゃ」るがくるが、たぶん兼業ハンターの方とか読めてただろうなーとふと思う。