「あのう、さん」
「なんです?」
「この体勢は、一体どういう…」
「どうって、最初からこのつもりじゃなかったんですか?」
その口振りに、人の身体を浅ましい目でじろじろ見ておきながら今更何だ、とでも言いたげななにかを(本人の意図はともかく)感じ取って、思わず知らず斜堂は身震いした。
とはいえ、そう見えたのはあくまでこちらに後ろ暗いところがあるからだろう。彼女の視線にそれらしい侮蔑や嫌悪は宿っていない。いつもと言えばいつも通りの平静そのものの目は怪訝そうな色を持って、押し倒されて乗り掛かられたままの自分から片時も逸れずにいる。
(……それは、まあ…そういうことを考えなかったと言ったら嘘になりますけど)
互いにそれなりの歳で…そうでなくとも男の家に誘われてついて来たのだから、期待するなと言う方が無体な話ではある。勿論、あわよくばと思ってはいた。
「(でも、まさか押し倒されたいとは考えていませんでしたが)…あの、でも、その前に私から伝えるべきことが」
「今更でしょう」
「いえ…せめてこれは聞いてくれないと、立場というものが「そんなことを言うんなら、もっと早くにするべきでしたね。少なくとも、私が斜堂先生の立場を慮って待っていた間くらいには」
の口調はにべもない。
普段はこちらを思ってかあまり強引なことをしない彼女にしては珍しく、その手に込められた力はひどく強かった。いっそ違和感と言っていいほど、「らしく」ない。
「あんまりカマトトぶって人を焦らすものじゃありませんね。話がある、と家に呼んでくれたからには、私の気持ちに応える気がおありなんでしょう」
「ちょっ、さん!? な、なんですかその男みたいな言いか…た…」
違和感の正体に、斜堂は漸く気付いた。
腕力においては学園内でも最弱の域にいるだろう掃除婦だというのに、こちらを押さえる腕が妙に手慣れて逞しい。自分の家まで来た時に男装は解いていたはずが、肌を浅黒く見せる化粧も男ものの着物もそのままで…しかもこの暑い日に、身体の線を平らに見せるための晒も取っていないようだ。
(あれ…?)
いや、取っていないというより、着物の上からでもわかるほど自然なその体型は作ったものとは到底見えず。
斜堂が首を傾げたのを見計らったように、はこちらの目を覗き込んでにやりと笑う。不敵な笑みを浮かべた口の端から牙のような犬歯が零れる。
「なにを言ってるんですか、まったく。私は今も昔もずっと男で、これから名実ともに斜堂先生をいただくつもりじゃないですか。なに、この時代なら男色なんざ障害のうちでもないでしょう。
大丈夫ですよ、優しくします…
…斜堂先生」
ほとんど飛び上がりかねない勢いで斜堂が目を開けた先、今まさに自分を押さえつけていたのと殆ど同じ顔がこちらを覗き込んでいた。あまりの驚愕に心臓が止まりそうになったものの、しかしよくよく注視すればそれは確かに見慣れた(男なりせば稀代の智将となり得たろう、と囁かれることも少なくはないが)女の姿の、である。
驚いた彼女に夢見が悪かったのですと引き攣った笑顔で言い訳をしながら、眼前の身体の柔らかな曲線を確認するようについ見入ってしまい…幸いにも怒られはしなかったが妙な顔をされた。
(そ…そうでした。家にさんの気配と声があったから。だから…)
招いたのはこちらであなたは客人なのだから座っていてくださいと言う斜堂に、それでも彼女は食事の支度は自分がやりますと譲らなかった(果たしてこちらに気を遣ったのか、でなくば斜堂にはろくなものが作れまいと判断したのか。…きっと後者だ)。言うだけあって味のほどは大したものだったが、問題は酒量である。
呑み助に付き合うと量が過ぎる。片付けをする物音をぼんやりと聞きながら、いつの間にか居眠りをしていたらしい。
「でも意外ですね。自宅といっても斜堂先生が人前で寝るなんて」
「…忍びというのは、どんな状況下でも眠れなければ務まらないのですが」
自分をなんだと思っているのか。
「それはそうですけどこう、そこらへん分かってはいてもそういうタフな感じのアレが斜堂先生と結びつかな、…あああすみません言いすぎました。黙って落ち込むの勘弁してくださいよ。ああそうそう忘れてましたけどお話があるんでしたよね! 今お茶汲んできますから待っててください!」
自他共に認める陰気な横目でじっとりと見据えると、は数時間のうちに随分と慣れた様子で逃げていった。こんなときだけ妙に素早い女だ。
だが、一時的に視界から消えてくれたのはありがたい。今のうちに心を決めておける。
(準備というほどではありませんが、慣れていないことですからね…)
大概こうしたことにあまり縁のない方であるから、準備もせず冷水に飛び込むような真似をしようものなら足が攣るどころか心臓麻痺で死にかねない。
* * *
「聞きたいことや言いたいことは色々ありますが、まず…さんはずっと私の立場を慮って、肝心なところは言わずにいてくれましたよね」
「あ、そこ分かってはいたんですか。そうですよ」
「そうででもなければ、あれだけ行動的なあなたが今の今まで黙っているはずはないと思いまして」
の入れてきた茶を前に、いつか聞こうと思っていたことを問い質してみると、意外なほどあっさりと肯定が返ってきた。
「そりゃあ私のいた時代では、女から働きかけるのは…あんまり歓迎はされませんけど…それほど珍しいことでもないです。でもここじゃそうはいかないでしょう。私がアバズレだって言われるだけの話ならまだしも、斜堂先生が女に押し切られたヘタレだなんて言われたらこっちが怒りますよ」
自分の評判を鑑みるに、実にあり得る話だ。
(やはり。だからあれだけ…私にさえ分かるほど好意を示しながら、直接告げることは避けていたと)
「それに…あー…こういうこと言っちゃったらアレですけど斜堂先生はマインド弱いし、人と関わるのもあんまり好きじゃないでしょう。押すのはほどほどにしとかないとうっとうしがるだろうなあと思ったのも、まあ、その…一因です」
「…仰る通りです…」
図星もここまで正確だと反論する気が起きない。
「ただ言わせてもらえれば、私の精神面が弱いというよりさんが強いだけです」
「仮にも忍者がなに言ってるんですか、いくら何でもそんなはずないでしょう」
「ありますよ。…もしも学園との繋がりが絶たれた時に備えて、今のうちから生きる術を作っておこうとは…私から見れば羨ましいほど逞しいです」
しかも、今現在味方でいるからといってその忍術学園を後ろ盾にしようなどと、なかなかどうして一端の策略家の考えではないか。
忍術学園というのは、雰囲気こそ物騒だが内情は真っ当だ。馴染みのいざこざがあったとしても教員や上級生達についていれば(怪我くらいはするかも知れないが)死ぬ率も高くはなく、様々な知識を蓄えるにも体力作りをするにも打って付けで、給金もいい。…要は見た目の胡散臭さとは裏腹、開き直れば割のいい職場である。
そう来れば利用することや離れることはあまり考えられないのが人情だろうに。疑り深いのか周到と呼ぶべきか、この掃除婦ときたら。
「だから私は…今まであなたに、その行動力に対して、下らないと分かっていながら引け目を持っていたのです」
「それは初耳です」
苦笑するに、斜堂も僅かに自嘲の混じった笑みを返した。
「言っていませんでしたから。
だいたいさん。今こそ思いますが、あなたは様々な局面において非常に強靭で、狡猾です。…大体普段がそうですよ。否が応でも惹き付けられるような好意の眼差しで近寄ってきたと思えば、肝心なところではあなたなんかいなくても構わないと言わんばかりに笑って、するりと逃げて。始めは確かに追われていたはずが、いつの間にか追う立場になっていて。しかもそれに気付いたのは絡め捕られて抜き差しならなくなった後なんて、まったく、洒落にもなりはしません」
言いたくて仕方がなくて、けれど素人の策にはまるなどあまりにみっともないとずっと飲み込んでいたことが、漸く言えた。
追いながらにして追われる時、人は最も脆くなる。もしもそれを分かっていたのなら(というより、まさか意図していなかったわけもあるまい)、このくらいのことは言ってやらなければ気が治まらないではないか。
「すみません。自分でもいろいろ狡っからいなという自覚はありました」
「ええ。これもやっぱり私の本音です。ですが…それでも、
それでもあなたが好きなんです」
はたして自分に言えるのかとずっと怯えていたはずの言葉が、思いもかけないほど呆気なく口から滑り出た。
「私もです」
「…知ってますよ。言わせておいてなにを今更」
「そうでしょうねえ」
「誰あろう、知らせていたのはあなたですしね」
「普段からあれだけあからさまで、今更言うのもおかしいかなと思うんですけど…そこはせっかく言ってくれたんで」
口調こそさほど変わらないままであっても、眼前のは今までで一番嬉しそうに笑っている。
どうせならもう少し可愛いことを言ってみたらどうかと若干憎らしく思わないでもないが、そこは惚れた弱みというもの。という女がそんな殊勝な真似をするはずもなければ、
「本当に正直いろんなところで痺れを切らしかけて、ああもう私の側から勢いで押し切っちゃおうかなと……でも、せっかくだから何回でも言いましょうか。
大好きですよ、斜堂先生」
余裕げで揺らぎのないこの口調は、まったく彼女によく似合う。知らずのうちに自分を惑わせるほど。
男女の「らしさ」というものは腕力ではない。危機を回避するための眼力と、時と場所に対応し生き抜く生活力、そして強靭な精神力。その点を言うならば彼女は自分よりもずっと男らしい。…世間的に見て正か邪かはともあれ、自分にないものを持っているからこそ、引け目を持ちながらも惹かれたのだ。
(さんから見れば私もなにか、…それこそ彼女では持っていないものがあるのでしょうか)
「だいたい斜堂先生は人を行動的だなんだと言いますけどね、私に言わせればこの備えは基本です」
「そうでしょうか」
「そうですよ。自分の育った時代にいるだけならまだともかく、慣れない場所にぽんと一人で投げ出されたわけですし、稼ぐ当てはひとつでも多く持ちたいでしょう。もうこっちにいるって決めましたからね、まずその辺しっかりしないと」
「え!」
彼女は今なんと言った。
「ずっとここに…いてくれると…?」
「意向丸無視だった行きのことを考えれば、自分の意思が及ぶ限りは、が付きますけど。…なんですかその驚き具合。ひと時限りの行きずりだとか思ってました?」
「違ったのですか」
「ははは、いやですねもう。しばきますよ」
「すみません…」
乾いた笑い声にあからさまな殺気がにじみ出ていた。
「さんは冷静というか感情に左右されないというか…どんなに馴染んだものでも執着はしない、渡り鳥のような感じがするのです。それで」
「いざ帰れることになったら斜堂先生を見限って、はいさようならってあっさり消えちゃいそうなイメージですか。そんなにドライに見えますか…いや、そりゃそうか…。あー…心配しなくてもですねえ、あの」
珍しくは僅かに言い淀んだと思うと、
「ヘンな心配しなくても、あれは斜堂先生と暮らすことを視野に入れての備えですよ」
「………………………………………………………………………………はい?」
今度こそ斜堂は自分の耳を疑った。
「縁起でもないし、ちょっとこれ重いんじゃないかなーとも思って言えませんでしたけど、忍術学園の先生ならいつどんな事になるかわからないでしょう。そうでなくても斜堂先生は…ちょっと頼りな…エフン! エフ!
つまり自分の人生賭けてまで人を好きになった以上、いざとなったらその人を支えられるくらいの基盤が欲しくて…経済的にも精神的にも、まるきり下駄を預けきるような情けない女にはなりたくないってことです。だからこそ、矛盾した台詞だけどあえて言っちゃいましょうか。
斜堂先生は、黙って私についてくりゃいいんですよ」
今までで最も男らしい発言である。
「(わ、私には百年かかっても言えなさそうな台詞を、ぽんと)…ああ、もう…あなたって人は!
不束者ですが、…私でいいのなら」
それはもう、掛け値なしに痺れ切って惚れ直して。
先ほどまで見ていた夢に手が届きそうな予感に我知らず身震いをしながらも、しかしこの上なく幸せな心持で眼前のを抱き締めた。
* * *
「あれ? どうしたのきりちゃん、早いのね」
忍術学園新学期の、一日目のこと。
いつもなら一年は組のメンバーと一緒にあれこれ喋りながら登校してくるというのに、その天才アルバイターは、私が着いた時にはなぜか門前で満面の笑みを見せながら掃き掃除をしていた。
「いやあそれが、ここ最近さんがいるおかげで校内が綺麗だったでしょ? いなくなったらなったで不便だったみたいで、ご褒美を弾むから掃除しなさいって昨日学園長が呼びに来て! あへあへあへご褒美ご褒美あへあへ」
すっかり浮かれて目が小銭になってるところに水をさす仮定で大層気が引けるが、それはたぶんこの前の酒席で学園長が勢い任せに考案して大量の在庫に困っていたはずの…学園長生首フィギュア付きストラップでは、ないかと。思うよきりちゃん。
でも言わない。
「教えなくてもいいのですか?」
「いいでしょう、こういう場合は。子供は騙されて利口になるんです」
あとで仕事を手伝ってもらうから、その分お駄賃を弾むことにしよう。そんな意図でもってニヤニヤしながら傍らの人影に囁くと、やっと気付いたようだ。
目を見開いた様子が実に微笑ましい…が、今まで気付いていなかったから驚いたのか、それとも日陰にいたから単純に幽霊と間違えて怖かったのかは本人にしかわからない。でもたぶん後者だ。
「へえー…斜堂先生と一緒なんて、いったいどこで待ち伏せたんすか?」
「ねえきりちゃん、その前にトトってまだ有効?」
「え? そりゃあ斜堂先生を落とすまでの賭けだから、まだ………ん?
…まさかそれ質問の答え、とか」
「はいそのまさか。斜堂先生の家から二人で来ました。だから賭けの結果は夏休み期間中ってことでよろしく」
「ちょっとさん、なんでそんなわざわざ「私も斜堂先生も隠しごと下手ですから、黙ってたってきっと近いうちにばれますよ。だったらあっさり認めた方が。…大丈夫ですって、昨夜のこととか色々なソレまでは言いませんから」
「言われてたまりますかそんなこと!」
そういう次第で口止めをする気はさらさらなかったため、駆け出したきりちゃんを捕まえるでも弁明するでもなく放っておいたら、昼にはほとんど全員が知っていた。
いや別にいいんだけど、なにも瓦版にして金取って配らなくたってよかったんじゃないだろうか。
「……なんだか人と会う度に生温かい視線を向けられるようになったのですが…まさかあなた…」
「ほんとに余計なことは言ってませんってば!」