「うおっ!」
「ぎゃあ!」
   
すぐそこにいた筈の文次郎君の姿がかき消えたと思ったら、一瞬後には(地上から見たらたぶん)私も消えた。
落とし穴だかタコ壺だかの区別はこの際問題ではない。落ちた。否、また落ちた。結構深い。「また」がつくほど落ちてばかりという事実にはそこはかとなく虚しさを感じなくもないが、今回は怒られない分だけまだましだ。なにせこの手のことを知ったらまず真っ先に不注意だなんだと文句をたれるであろう人間も落ちている。しかも私より(コンマ一秒くらい)先に。
そしてまた、こんなことばっかりやっていればいい加減対応策も取れるようになる。
装束の腰にくくりつけた手甲鉤の紐をほどいて手に装着し、よじよじと穴の壁面をよじ登った。うむ。備えあれば憂いなし。
「おーい、文次郎君! 大丈夫?」
「心配するか笑うかどっちかにしやがれ! バカタレィ!」
「いやーだってさ、こりゃおもしろいよ。いつもなら私が落ちたら不注意だのサインを見逃したお前が悪いだの悔しきゃ自分で上がってこいだの、そりゃもういろいろ文句をたれる文次郎君がまさかの犠牲だからね! ところで私今縄持ってるんだけど、これを木にくくりつけて穴の中に垂らしてもらうにあたってはどういう言葉が効果的だと思いますかーハハハハ!」
! てめえ!」
怒ってる怒ってる。
よし、先に木の幹にロープをくくってから、それをネタにもう少しからかってやろう。それからなら、まあどんなことを言うにしても助けてあげてもいいかな。さすがにそれ以上は大人げな、「ぬあっ!」
調子に乗ったことを考えていたらまた落ちた。
しかも今度は手甲鉤とロープから手を放してしまったため、道具は二つとも穴の外。そして肝心の深さは随分ある。…私の頭よりずっとある。
「……すいませーん誰かー! 誰か来てー! 出してー!」
「図に乗るだけ乗ってその上役にも立たねえのかお前!」
「だって普通考えないよこんな頻度の落とし穴! 歩き出して二歩目とか、誰よこんなの作ったヒマ人は!」
「言い訳すんじゃねえヘッポコ掃除婦! そもそも落ちるの何回目だ、未だに自力で出られもしねえのか!」
「一応備えはしてあったんだよ、今ちょっと二つとも穴の外に落っこちてるけど!」
「いざって時に役に立たねえ備えででかい口叩いてんじゃねえこの役立たず!」
「それとさっきから偉そうなこと言ってるけど、そういう文次郎君だって今穴の底だからね!? 忍びと掃除婦の二人が揃ってこの様、むしろ忍びのほうが情けなさは上だからね!?」
「るせえ!」
   
「楽しそうですね…」
   
どこをどう聞いたらそういう結論になるんですか、斜堂先生。
「いえ…普段あまりテンションを上げないさんが、いつになく楽しそうに喧嘩をしているものですから…」
少し聞いていたくなりまして、と頭上から続けられたはいいものの、いったいいつからいたんだろう。それ以前に誤解してもらっては困るのだが、別に私が喧嘩を吹っかけているわけではない。文次郎君が人の顔を見るたび、やれ忍術学園の職員として自覚が足りないだの易々と罠に引っ掛かるなんぞ精神がぶっ弛んでいる証拠だのだいたい動きがどんくさいから少し身体を絞れだの、余計なことばかり抜かすから。
特に最後の一つに至っては首を絞めてやりたくなった。これで片仮名二文字の決定的な一言でもあろうものなら、誰かに毒薬をもらいに行っていたはずだ。
閑話休題。とりあえず斜堂先生が下ろしてくれたロープを使ってなんとか上まで這い上がる。
「…すみません」
「なにがですか?」
「報告によれば、今学園中が落とし穴だらけだそうですが…それを掘ったいわゆるヒマ人はおそらくうちの綾部喜八郎くんですので、それを先に謝っておこうかと」
だいたい予想はしていたが、やっぱり喜八っちゃんか。
「道理で。それにしてもこのタコ焼き器みたいな頻度は何事なんです」
「昨夜学園長が随分と綾部君をからかったようで、おそらくその腹いせにやったのではないか、と言われています」
…腹いせでこれとはなんたる傍迷惑。厳禁コンビと組んでる時の仙蔵君といい喜八っちゃんといい、他ならぬ顧問の斜堂先生でさえこの前の狂乱っぷり…作法委員会は何がどうしてこんなに精神系が多いんだ。それに一体何をどうやって茶化したら、あのマイペースな喜八っちゃんの逆鱗に触れるんだ…
! 悠長に喋ってねえで早く出せ!」
あ。
「ごめん、素で忘れてた」
   
その言葉でまた文次郎君を怒らせたことは想像に難くないだろう。
   
* * *
   
「おーい綾部ー!」
「綾部喜八郎ー!」
「ここでしたか、綾部君…」
「すまんかった綾部喜八郎ー! ワシが悪かった!」
「喜八っちゃーん、学園長反省してるってー! まだ怒ってるー?」
「気が済むまで落とし穴掘ったから、もう怒ってませーん」
口々に呼び掛けると、大層暢気な声が返ってきた。それにしても自分で掘った穴にはまったとは、飄々として抜け目のない子かと思いきや案外間が抜けている。
ところでどうでも…よくはないが、あの大量の穴を埋めるのはひょっとしなくても用具委員会だろうか。ことによったら雑用も兼任の私まで駆り出されかねない…というより、あの量なら確実に声がかかるだろう。うっわあめんどくさい。そりゃあ言われればやらなくはないけど、苦手なんだ単純な力仕事。
…逃げようかな。誰かをかっ拐って。
「どうかしましたか?」
「駆け落ちしませんか、斜堂先生」
「は…!?」
「冗談です」
というより空がとっても青いから現実逃避です。
「おやまあ。どうやらいつかは最後に先生をひょいっと拐って逃げそうだと噂ですけど、なんだ。冗談ですか」
端正に整った顔の半分だけを穴から覗かせて、至極淡々と人を茶化す様子は、もういつもと変わらぬ無表情の「綾部喜八郎」そのもの。今は土にまみれてモグラのようだが、それでさえ顔立ちが綺麗だとどこかさまになるから不思議なものだ。
「…噂ってどこで」
「主に作法委員の間で」
「初耳なのですが」
「でしょうねえ、先生には初めて教えましたから」
「大体君達普段何話してるのよ。話題の予想がつかないにもほどがあるよ、作法って」
「今は専らさんトトカルチョやってます」
想像の斜め上を行く現実。
それはいったい何をやっているんだ。まさか私がいつ斜堂先生を落とすか賭け事にでもしてるのか。
「そういうのは肖像権の侵害って言うんじゃないの、綾波喜八郎くん」
   
まさかあんな些細なからかい文句一言で、頭から落とし穴に叩き込まれるとは予想だにしなかった。
甘く見ていた。一時怒りが鎮まったとはいえ、彼は作法委員会。この手の内向系はいつ何時どんな切っ掛けでキレるかわからないということを、この前斜堂先生の騒動で学んだばかりだろうに、まったくたいしたバカだ私は。
さーん、ところで参考までに聞きますけど、落ちたのこれで何回目ですかあ」
「…これは三回目だから…」
「早く引き上げなさい綾部君! …すみません。大丈夫ですかさん…私は顧問としてどんな顔をすればいいやら」
「…笑えばいいと思いますよ…」
お約束もいいところである。
「綾部! まったく…仮にも女にお前という奴は」
仮にもってのはなんですか、山田先生。
「女子供もヒロインも関係ないですー。わたしの逆鱗に触れた奴は、たとえ逆ハーの元祖かぐや姫だって落としてみせますもん」
U.N.…もとい、ヒロインは私なのか?
ちくしょう首と肩と背中と腰打った。痛い。口に土入った。不味い。それと頭に血が上る。
   
落とし穴の第一人者こと、名トラッパー綾部喜八郎。君ならかぐや姫の故郷…夜空の月だって落とせるようになるだろうよ。
ちょっと癪に障るから言葉に出してはやらないけど。