くいと指で手招かれた。
グラスから年代物のウイスキーを一口含み、それだけで全身を酔わせるような豊かな香りを口移しに渡す。
「いい子だ」
髪を梳く手付きはまるで愛玩動物を撫でるよう。
私にとっては、口内に残った少しの量を飲み下すだけで脳髄まで痺れそうだが、目の前で愉快そうに微笑む旦那さまの緑の目はほぼ温度が変わらない。
いつもと同じビジネスシーンのそれだ。
「お前は酒に弱いな」
「…旦那さまがお強いのです」
男女の差がどうこうと言うより、単純に踏んできた場数が違うのだ。
だがそうと告げると、あまり優しいとは言い難いお方が、もっと意地の悪い笑みを見せた。
「なに、酔ってなどいられんよ」
「段々とお前が酔って、その頬が赤くなるのを見るのが好いのだからな」
極彩色の織物に色硝子のランプ。
ウルダハ風のスパイスティーの香りの中に、甘い水煙草の煙が混ざっては溶ける。
異国から来たばかりの慣れない人は長居したら頭がくらくらするだろうが、ウルダハ富裕層においては、そのすべてが富の証左である。
「旦那さま、湯浴みの用意が」
「ああ」
清涼な湯を張って、浴室を暖めて、その日の香油を選ぶのは私の特権。
ご自分の香りがどうこうにはあまりこだわりを見せないが、私に男ものの香りを纏わせ、周囲にまるで俺の女だというように誇示するのを好まれる。
そんな趣味のお悪いところがたまらない。
「今夜は麝香でよろしいですか」
「そうだな、お前にもよく似合う」
お洋服を畳み、帽子を預かり、解いた御髪をよく梳いて。
一日のお疲れを洗濯していただくこの時間を、私は殊の外愛している。
ウルダハの夜会とは過酷なものだ。
ドレスや靴や装身具のセンスはすなわち、冒険者稼業における装備品の善し悪しに等しい。わずかな気の緩みが社会的な死への序曲にもなりうる、華やかで緩慢な戦場。
この場合の私に架せられたクエストは、ほんのわずかでも人の目を引き、心を奪い、決して体は許さぬまま主の待つ道へ誘導すること。
テレジ・アデレジという男は、この都市における女の効能をいやというほどご存じだ。
デューンフォーク族の多いウルダハでは、体に投与する毒など効くかどうかわからない。
それゆえ資質のありそうな女を金で買い取り、さらに目がくらむような財を投じて磨き抜いて、ウルダハでも屈指のトップレディに仕立て上げた。
体でなく心に食い込み支配する毒の花として。
もともと田舎臭い冒険者で、冴えない男の借金のかたに売られた身の上が、今は砂蠍衆のお側に侍り、この体を椅子代わりに差し出しているのはつまりそういう理由である。
「準備はできているようだな。今夜も素晴らしい毒婦ぶり、実に好い女だ」
「ありがとうございます、旦那さま」
この緑の眼差しに見つめられているかぎり、私はどこまででも踊れると確信している。
出陣の準備を万端に整えた、夜が始まる五秒前。
「いかがでしょう」
高いヒールと脚にまとわりつくスカートを捌いて、完璧な足取りで前へ出る。
旦那さまは満足げに頷いた。
このお方が仕立てるドレスは常に肌にぴったりと纏いついて、少しでもボディラインが崩れたら着られないようになっている。
もしくは深いスリット入りか、普通に見せかけて際どいところまで生地が透けているか…どれもこれも、男の目を引くならこれ以上はないというようなものばかり。
趣味の悪さと人心の掌握術はおそらくウルダハいちであろう。
「素晴らしい」
それでもこの一言をいただくためだけに、どんな節制も鍛錬もやりとげてしまえるのだから、やはり私もおかしくされてしまったのだ。
旦那さまの側で空気のように夢を吸っているうちに。
「今夜の晩餐会が終わったら、新しく仕立てたあれを着てきなさい。
夜通しでも可愛がってやろう」
「…はい」
こういう時の紳士らしいお声と、正反対の下品な流し目に、今夜は寝かせてもらえないだろうとはしたない期待を押さえきれない。
旦那さまに不満はないが、まったく、こんな時ばかりは自分がララフェル族でないことがうらめしくなる。
同族であればもっと楽しんでいただけるものを。
「おいで」
ララフェルの小さな手指に髪を一房掬われ、口付けられる。
自分のものだと公の場で誇示するそれとはまた違う、蜜のように甘い仕草で。
このお方にはおそらく生涯囚われ続けるのだろうと、私は慄えた。
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