見張りを命じられた密偵を探していて妙なことを聞いた。
「神谷道場に?」
「ええ、入るの見ましたよ。あの頭は見間違いようもないでしょう」
そりゃそうだ。金髪だけでも目立つのに、その上あの逆さ箒。どんな遠目でも見分けがつく。
「あそこには抜…緋村さんがいることですし、近況報告でもしてるんじゃないですかね」
「…そんなかわいいタマかな」
張くんのことだから、今更になって抜刀斎覚悟と仇討ちを企むようなことはするまい。志々雄真実のことは好きだったにしても、彼は死人は死人と割り切れる“どらい”な面がある。
かといって、一度穫りそこねた新井赤空の逆刃刀をもう一回と狙ったところで、ほぼ丸腰だった緋村さんに捕縛されたのだから今行ったって勝てるわけはないだろうし、そんなことをして失敗すれば…いやむしろ失敗する可能性の方が高いのだ…このあたりでは格段に仕事がやりにくくなるだけに終わる。
彼は調書もろくに読めないバカだが、本質的にはそこまでバカではない。鼻は利くバカだ。
「でもまあ、神谷道場に行ったところでそれぐらいしかやることもないし、そうかもね。私も行ってみようかな」
今日は特に急ぎの用事でもない。
前に言いつけた任務のちょっとした変更があるくらいだ。署で待っていてもかまわなかったが、せっかくだから緋村さんにご挨拶でもしてこよう。
「あっ、で、でしたら手土産を用意させてもらえませんか。実は本官、抜刀斎こと緋村さんの“ふぁん”でして」
「そう? じゃあよろしく言っとくよ」
まったく大衆はどこまで行こうと“みーはー”かつ現金だ。
もしも緋村さんの斬った人数がもっと少なく、かつ本人があんな薄幸の美青年風じゃなければこうはならなかったろう。そのうえ少し前には人誅事件のあんな大騒ぎがあったというのに…だが、それにしてもこういう流れはなんだか微笑ましくて嫌いじゃない。
幕末の京都のように殺伐としているよりはずっといい。
 
 * * *
 
「あれっ」
「おろ?」
署から少し歩いたところで噂の元抜刀斎を見つけた。
「これは殿、久しいでござるな」
「ええ、前にお会いしたのは左之助君が旅に出ちゃった時でしたね」
彼とは何度か会ったことがある。その一回が長屋半壊事件だが、その直後になんとも大雑把極まる行き当たりばったりの旅に出てしまったことは記憶に新しい。ちょくちょく手紙は来るらしいがどうしているんだろう。
いやそんなことはいい。
「…ところで緋村さん、神谷道場にいらっしゃるんじゃなかったんですか?」
「いや、この時間なら道場には薫殿と弥彦がいるゆえ、拙者は夕餉の買い物に」
「え?」
神谷さんと門下生の少年二人しかいないところに、なら張くんはなにしに行ったんだ。
まさかお弟子さんに稽古をつけてやろうなんてまっとうなことは言わないだろうし、想像すらつかない。そもそもちゃんと師範代が一緒なのに、あの完全我流の張くんに手合わせをさせる必要もやはりないだろう。
実戦を旨とする古武術なら積極的に我流の剣士も相手にして、変則的な戦法への対応を取り入れるのもいいだろうが、神谷活心流とは剣を通じて心身を健全に保ち、人の道を説くことを目的とする流派。言っちゃなんだがあんな人斬りじゃ道もくそもない。ものの役にも立たないどころか太刀筋に変な癖がついてはことだ。
人それを本末転倒と呼ぶ。
閑話休題。私の目的とその話を説明して聞かせると、彼はさっと顔色を変えた。
「まさか…」
「えっ」
殿、急ぐでござるよ!」
言うが早いが緋村さんは踵を返して走り出した。
しかもたぶん私に気を遣って少し抑えてくれているんだと思うがそれでもおそろしく早い。さすが飛天御剣流!
「ちょ、ちょっと緋むッ、うわ早! 待って下さい! 一体何が!」
「説明は後でござる!」
 
走りながら考えた。
この様子はただごとではない。今の会話に危機を感じるような何があったんだ。
張くんに限って、まさか神谷さんに色目を使うなんてセンは薄い。
彼は軽そうに見えて擁護の余地もなく軽いのだが、女の目から見てもまあまあそれなりの自制は利かせている。女郎屋にでも繰り出せば相手をしてくれる綺麗な女が買えるのに、商売女でもない若い娘さん、しかも近辺では緋村さんといい仲だと噂される子に好き好んで手は出さないだろう。
かといってやはり逆刃刀を目的と仮定しても、現物はさきほど思った通り、今遙か先を走っている人の腰にある。本人がいないからと人質なんて取ったところで京都の二の舞になるだけだ。
 
他にもさまざまな可能性を考えながら、人の間をすり抜け路地を駆け抜けて、ともかく緋村さんの後について神谷道場に駆け込んだ。
「薫殿!」
「張くん! 余所様のお宅で何を!」
 
そこにあったのは、座敷に横様に倒れた箒だった。
 
「……。」
いや間違えた。よく見たら箒は派手な着物を着ている。張くんだ。
 
側で神谷さんが真っ青なままおろおろと視線をさまよわせているが、何がどうなったんだ。まさかこれは彼女がやったのか。
「剣心…ど、どうしよう」
「昼時のことゆえ、まさかと思ったが…遅かったでござるか」
なにが?
「お昼…?」
言われてみれば、びくびくと痙攣する張くんの手には半ばほど中身の入った煮物の器。側には一人分の膳があり、ご飯とお味噌汁がまだ湯気を立てている。
「ど、どういうことなのこれ、張くんしっかり、何があったの!」
思わず駆け寄って抱え起こすと、普段の元気はどこへ行ったのか、口からは蚊の鳴くような細い声がこぼれた。
「お…」
「お?」
「…オッサンの……足の、味、や…」
「はあ!?」
たかが煮物になにバカなこと言ってるの!
「えっ、お酢は味を引き締めるって剣心が」
「こ、これはすまぬことを…拙者がもう少し早く買い物を済ませていれば」
「いやちょっと待ってくださいよ、いくら何でもご飯って、煮物ひとつで大の男がそんな大袈裟に」
ちゃんと炊けたご飯に美味しそうな汁物で、見た目は特に異常もないじゃないか。
お味噌汁を手に取って一口。
「ああっ! 殿!」
「ほブッ…!」
 
私の舌は一瞬、あの乾いた風が吹く幕末の京の都に戻っていた。
あれは新撰組にお世話になる前のまだ浮浪児のころ。
鈍い痛みを覚えるほどの空腹に耐えかねて食って、たまらずに吐き出した骸街の湿った土の味を、出汁と豆腐と味噌という限られた材料があざやかに再現していた。
 
「ア…アホかワレは…ワイがこないなっとんのやで……見て分かれっちゅうねん…」
「お…おああ…」
人様が作った食事を本人の目の前で吐き出すわけにもいかず、断固拒否を訴える喉の奥に無理矢理送り込むと、たまらずに食道がのたうち胃の中身を戻しそうになった。
殿! 張! しっかりするでござる!」
 
人の忠告は聞くものだ。心底そう思った。
 
 * * *
 
平謝りする緋村さんと微妙に納得のいかなさそうな神谷さん、それから(いつのまにかしれっと自分の分のおにぎりを確保していたらしい)一番弟子の弥彦君に見送られて、まだ調子の戻らない腹を押さえながら私達は署への道をとぼとぼと歩いた。
いたなら止めてくれてもいいじゃないかと思ったが、彼が言うには「これでうっかり薫のメシ食おうなんて思わなくなるだろ」とのことで…正直子供にしてはなかなか容赦のない考え方だ。人間は痛くなければ覚えない。
なお、その言の後の神谷さんの怒りの面打ちは見なかったことにしておく。
「…えらい目合うたわ」
「…本当だよ。並大抵のものは顔色変えずに食べる自信があったのに」
「アホか、なくてええわそないなん。あれ平然と食うたらそら化けモン言うんや」
「やばい擁護できない」
年頃の娘さんの作ったものに対して言うべきことじゃないが、最後までまずいの一言を口に出さなかったあたり我ながら自制したと思っている。
張くんもよく耐えた。
「あれや」
「うん?」
「抜刀斎も大変やな」
「……。」
まあなんというか、大変そうだけど、おさんどんをしてる緋村さんはあれはあれで幸せなんじゃないだろうか。
緋村剣心という男に何があったのかは書類上でしか知らず、またこれから先も機会がないなら進んで知るつもりはない。
だが、もう十年以上も前の京の町で、私とさほど年も変わらなかったであろういとけない少年が、どれほど血と脂と腸にまみれながら、どれほど自分の心ごと斬りつけながら“人斬り”の修羅へと変貌していったのか。当時の狂った都を知る者には否が応でも想像がついてしまう。
やはり歴史の表舞台になんて関わったのが間違いの元なのだろう。
それを思えば、どうか彼がこの先も心穏やかに、神谷道場の入り婿として平和に暮らせるようにと願うばかりだ。
「……。」
「なんや」
私は無言で張くんを蹴飛ばした。
「あだっ!」
「あ、ごめん。つい」
「じゃっしゃボケ! 狙うて脛蹴ったやないか今! なんちゅう足癖悪い女や!」
志々雄一派が余計なことしたのをしみじみと思い出してつい足が出た。
 
「いやほんとごめんって。…あ、そうだ、張くん晩は空いてる?」
「あん? 予定? あらへんけど、どないしてん」
「口直しに何かおいしいもの食べに行こう、あと今日は呑もう」
「よっしゃ、ワイ牛鍋がええわ!」
 
世間様ではこのような行為を餌付けと呼ぶに違いなかった。