暗がりに響く歌は心地が良かった。
高い割に不思議と耳に刺さらずよく馴染む声は、曲調によって様々に雰囲気を変えて場に満ちて、ひととき観客の耳をくすぐっては紫煙の香りのように消える。そのつかみ所のない歌声に惹かれ、もっと聞きたいとばかり通い詰める者も多いと聞いて、阿紫花英良はいたく納得したものだ。
(ま、今のあたしが他人事みてぇに言うなって話かね)
テーブルランプ一つを光源とした室内で、自分の胸を枕に件の歌姫を侍らせている今の状態では人のことは言えなかろう。
思わず喉で笑声を立てると、寝物語のようにゆったりと響く歌がふと途切れた。
「どうかした?」
「ん、どうもしやしませんぜ」
覗き込んでくる目は、照明の色を映して僅かにオレンジがかっている。
手持ちぶさたに長い黒髪を一房弄びながら、ぼんやりと考えた。彼女をこうした目で見るようになったのはいつのことだったか。…少なくとも、来店したばかりの頃はそうではなかった気がするのだが。
   
 * * *
   
ふらりとそのクラブに入ったことになんら意味はなかった。
繁華街の中でも駅から少し歩かなくてはならない距離で、その上大通りからも外れていてタクシーが掴まえにくい。立地的には決して恵まれたものではあるまい。
しかし、通されてみるとその割に客は多い。もうすぐショータイムだと客引きがいやに熱心に勧めるものだから、そうまで言うなら仕事も明けたことだ、少し時間潰しをさせてもらおうと…それだけのつもりだったのだが、ここに至って阿紫花は少し興味が湧いた。
客は男女取り交ぜて多人数…場所柄やサービスの種類に似合わず、不思議なほど猥雑なものを感じない陽気さがあった。
やがて舞台に上がってきた人影からふっと視線を反らしかけ…
直後、思わず瞬きと共に二度見することになった。
ライトの下で微笑むその顔は、もちろん装いも化粧もがらりと変わっているが、自分を店に引き込んだ客引きだ。
つい十数分前のことだ、間違えようもない。
   
店内の声に応えて軽く冗談交じりの挨拶を述べ、アップテンポのピアノに合わせて彼女が歌い出す。
高く柔らかな声で紡がれる歌詞は艶やかな民族調。長い裾を揺らす足の運びも軽やかに、気持ちのいいサバテアードがそれに重なる。傾けたスタンドマイクを相棒にワルツのターンよろしくくるりと回ると、店内の他の客から高い指笛が飛ぶ。
   
(…こいつは、また)
視線を持っていかれた。
高い技量も軽々と踊る姿もさることながら、阿紫花英良をして視線を剥がせなくなった要因は別のところにある。
最愛の恋人を前にしているような…誰に憚ることもなく恋人に自分の全てを打ち明け、曝け出して、丸ごと全てを受け入れられているかのような、幸福感に満ちた微笑み。
白いドレスも相俟って、まるで幸せな花嫁だ。
柄でもなくそんな風に感じたことを覚えている。
   
 * * *
   
最初は純粋に…と言うのもおかしな話だが、少なくとも下心ではなかったはずで、生来(殺し屋稼業にあるまじき)人間好きの阿紫花には割合よくある話だ。
しかし、あれはいつのことだったろう。
彼女の柔らかな高音が、甘やかに過ぎる響きをもって恋の歌を歌っていた夜なのは覚えている。
それを聴いたとき、閃きのように感じたのだ。
この声を寝取ってみたいと。
決まった恋人はいないと言っていた。実際それに嘘はないだろう。それだから本来寝取るもなにもないと自分でも思うのだが、不思議と肌を重ねる時には、誰かの女に無理矢理手を出しているような背徳の匂いが付き纏ってくる。
…それがそれで堪らないと思う辺り、自分も大概ろくな男ではない。
ものは試しと強く押したところ、仕掛けた阿紫花の方が驚くほど抵抗なく身を任せてきたと言うのに。
   
「……。」
眼前でゆっくりと発音のかたちに動く唇を見詰める。
(なんで、かねえ…)
引き寄せて深く口付けを交わして…そうしてしまえば、口ではあれこれと言いながらも歌を飲み込んで自分に応えるだろうことは解っているのだ。
それでも漠然と“誰かのものである”と感じさせる空気が、癖になりそうに心地よくありながら、同時にひどく面白くない。より強く自分のものにしたくなる。矛盾もここに極まれりだろう。
   
彼女は鎖に似ている。
聞くうちにいつしか柔らかく人を絡め取ってしまう、歌う鎖。
   
もしもその気があるのなら明日、身体ひとつで空港に…などとらしくもないことを言いかけて、阿紫花は喉の奥でくぐもった笑声を上げた。
   
   
   
   
   
―――
注釈:サバテアード 靴の踵を鳴らす足拍子。本来の発音は表記と違うんですがこっちの方が好きなんでごり押してます