暗く、深く、日の射さない海底の監獄。冷たい石の廊下に硬質の靴音が反響しては消える。
こつこつと規則的な音の連なりは、まるで囚人達を睥睨するように。僅かな希望を抑えつけるように。何の感慨もなくただ続いていく。そこを職場とする者達にとってすれば、囚人達の悲鳴や怒号、懇願も何ほどではなく…単なる日常の一部分でしか有り得ない。故に、それに気を取られることなどないのだろう。
人を苦しめることをどうとも思っていなかった自分に、まさか今更人道を語る余地のあろうはずもないが。
かつてMr.3と呼ばれた男は、俯いたまま僅かに自嘲した。
(まさか、こんなに早く終わるとは)
一人で脱獄を謀ってみたはいいが、牢獄暮らしで体力の落ちた身では逃げられるはずもなく。上のフロアへと上がる前に猛獣に捕まり、獄卒達に何発か殴られ拷問部屋へ叩き込まれたばかりだった。
周囲を見回してぞっとした。
前の使用者のものだろう、未だ乾き切らない血の痕のついたペンチがすぐ側に転がって、その側には小さな血溜りができている。血の主がどうなったかなど自分にはどうでもいいことではあるが、おそらく無事ではいるまい。神経が焼け切れるような痛みの果てに正気をなくしたか、もしくはあの血の量からして、苦痛の果てに自分の舌を噛み切ったか。
なににせよ、捕まったからは確実にそう変わらない最期を遂げるのだ。
そんな思いが心中を過ぎったのと、細く開いた拷問部屋の扉から赤い爪がのぞくのはほぼ同時だった。血のそれとは明らかに違う。紫がかって妖しげな、監獄にあるまじき鮮やかな彩り。
瞬時にそこまで見て取れたのは、仮初めにもMr.3が美術家であったからか。もしくは。
   
「あなたね? 脱獄なんて企んじゃった、ん〜〜v 悪いコは」
逆光を背に負ったその女が、悪魔のように微笑んでいたからか。
   
長い前髪に隠されて目は見えないが、その容はいささかも損なわれておらず…かえって人の想像をかき立てる魅力にさえなっている。
爪と同じ色をした鞣し革のボンデージスーツに、翼を思わせるボリュームのマント。高く尖った踵のピンヒール。ウェーブがかかった長い金髪。腰にはインペルダウンの職員達が持つ、それぞれの体格に合わせたトライデント。…しかし、おそらく本当の得物は短く作られたそれではなく、右手で弄んでいる革の鞭だろう。
「たっぷりお仕置きしてあげる。いい悲鳴を、ん〜〜…期待してるわ」
赤く塗った唇を湿しながら、加虐の興奮を隠そうともせずに。迫力と凄味に満ちた、恐ろしいはずだというのに不可思議なほど引き込まれる表情で。
美しい悪魔がにやりと笑う。
醜の中にある美。美の中にある醜。
それは単に美しいだけ、愛らしいだけのものよりも、遥かに強く人の心を乱し惑わせる麻薬のような美であった。
   
彼女は食い入るように見つめるこちらへあからさまな嘲笑を投げ、後ろ手に扉を閉めた。
(!)
重い音に漸く我に返る。
(そうだった、拷問されるためにここに入れられたんだガネ!)
我に返ると同時、身体中から音を立てて血の気が引いていった。
なぜ今の今まで気付かなかったのか。長い金髪、挑発的なボンデージファッション、特有の口調。加えて鞭使い。そのすべてが聞き及んだ噂話にぴたりと合致する。
彼女こそ、悲鳴を床に咲く地獄の女王。
「獄卒長、サディ」
名を呟くと、赤い唇からふと笑みが消え失せ、その代わりに底冷えするほど冷たい声が零れ出た。
「お黙り」
   
室内の饐えた空気を切り裂いて、革の鞭が唸りをあげる。
床に膝をついた痩身の背をしたたかに打ち据えられ、たまらず上げた声に低い怒号が重なった。
「サディちゃんとお呼び!」
   
俯せに倒れたMr.3の特徴的な髪をぐいと掴み上げ、痛みと恐怖で歪んだ表情に舐めるような視線を這わせながら、地獄の華は甘く囁いた。
「ん〜〜…いい顔ね。たまんない…
 でも、まだ一回叩いただけ。絶望するには早いわよ? 今からたっぷり可愛がってあげる。インペルダウンから出て行けるなんて…ん〜〜v 考えられなくなるぐらいに」
妖艶でありながらとてつもなく冷酷な声。
恐る恐る視線を上げようとすると、間髪入れずもう一度鞭が撓う。細いヒールが肩甲骨をえぐるように背に食い込み、息が詰まる。
喉が裂けんばかりの絶叫に応えるように高らかな哄笑を響かせて、獄卒長は幾度となく男に鞭を振るい、踏み躙った。
「娼婦のようにお鳴きなさい! 愚かで哀れな脱獄者!」
三度、四度。五度。
そこから先は激しい痛みに加え、焼き鏝でも当てられたように傷口がひどく熱くなって…叫べば叫ぶだけ体力がなくなっていくと知りながら…しかも悲鳴はそのまま相手のモチベーションを上げるのだとさえ知っていながらも。
口から溢れる声が止められない。
かつて海賊達に語ったこともある通り、自分とて生きたまま固まりゆく人間の表情が好きだった。向けられる憤怒から、怨みから身を交わし、せめてもの抵抗を打ち砕く瞬間にはこの上ない高揚を覚えたものだった。
けれど、なんということだろう。
ほの白い肌を紅潮させて恍惚と悲鳴に酔いしれるその女は、ひとたび気を抜けば墜ちてしまいかねない、まさに天性。
長い前髪に隠された双眸は、それでもなおはっきりと加虐の悦びに煌めいているのが見て取れるようだ。
彼女の前では自分ごとき、紛れもない半端者ではないか。
   
   
* * *
   
   
そのまま何時間嬲られたか見当もつかない。
喉が裂けて血の味がする。赤以外の色が見えなくなるほど打たれ、血が滲んで、身体中が蚯蚓腫れに覆われびりびりと痛む。
踏みつけられた場所はひどく腫れあがっている。明日になれば青黒く見るに堪えない痣になるだろう。
痛みと熱さに生理的な涙が溢れて、視界が歪んだ。
「あ、ぐ…。も…もう」
もう許してくださいと続けたかったのか、もしくはもう死なせてくださいなのか。当の自分でさえ判断はつかなかった。
「あらあら。そんなに泣いて、ん〜〜…情けない。女の子みたいね?」
あからさまな嘲笑を浮かべていると言うのに、しかし顎を持ち上げる手は丁寧で優しく、かえって不安ばかりが掻き立てられる。
「おっしゃい…さあ、私の名前は?」
「サディ、ちゃん」
「そう。いいコね…」
形のいい指がつと伸ばされ、削いだように痩せた頬を爪が軽くなぞって離れていった。ほんの僅か…乞うがごとくにその赤を目で追ってしまったのは、果たして恐怖心のみが理由であったろうか。
それとも。
   
   
こつり、こつりと硬質の靴音が響き渡る。
芝居がかって優麗に。悪魔じみて淫奔に。彼女は軽い足取りで室内を横切り、部屋の扉に手を掛けた。
「ん〜〜v …あなたの反応、ちょっと素敵だったわ」
   
去り際のその一言は…ごく健全な状況なら喜ぶ科白かも知れないが…心と言わず体と言わず手酷く甚振られた後だ。
劣情を催すどころか震えが来た。
囚人が彼女に『気に入られる』となれば、即ち狩猟本能に基づく意味合いであり、つまり自分は雌猫の爪に玩ばれたあげく、食われもせずに捨てられる鼠なのだ。その程度は弁えている。
調子に乗って慈悲を期待するほど莫迦にはなり切れず、だからといって被虐に落ちることもできはしない。屈辱も恐怖も苦痛も願い下げだ。本心から、自分の性癖はどこにも抵触しないごくノーマルだ。
けれど、それでさえ。
自分を鞭打ち踏みつけて、嬉々と嗤った美しい悪魔に。あのしなやかな肢体に。艶を帯びた嬌声に。もう一度会ってみたくてたまらない。
そしてこの望みが叶うときは、また今日のように…いや、まず確実にこれ以上の苦痛を味わうことになるのだ。
どうにも救われない話ではないか。
(いっそ…痛みを快感と感じられたら、どれだけ楽か解らんガネ)
そうしたら、何を気にすることもなく甘美な苦痛に酔い痴れていられたろうに。
   
   
獄卒達に引きずり出されるまで、Mr.3は冷たい石の床にただ頭を預けて、未だ網膜に焼きついた不吉なモチーフを振り払おうときつく目を閉じていた。
彼女の耳元に揺れていたピアスはまるでこの状況を象徴しているようで、寒気がする。
   
串刺しになった蝋燭。