が意識を取り戻して最初に感じたのは、いつの間にか馴染みになった煙草の匂いだった。 「具合はどんなもんで?」 「…ん、ええ…少しましになったわ」 何度か瞬いて深く深呼吸をすると、目眩を引き起こすほどの頭痛は幸い大部分が収まっていた。 痛みを堪えて目を閉じているうち、いつの間にか座席に倒れ込むように眠って…いや、詰め込みすぎた情報の量と種類からすると、眠ったというより気絶したという方が正しいか。 まだ意識ははっきりしなかったが、とりあえず首を振るのはやめておいた。 「あれ? ジョージさんはどうしたの?」 車は動いていない。それもそのはずで、運転席は空だった。 周囲に人影は見当たらず、互いの呼気さえ聞こえそうなほど静まり返っている。時計を覗くと午前一時を回ったばかりで、昼間ならばどうなのかまでは解らなかったが、少なくとも町中からは離れているようだ。 「ああ、ジョージならここに借り物があるとかで一人で入って行っちまいやした。あたしゃ検査ってのをやるのがここなのかと思ったんですがね、どうも違うみてえで…部外者にいろいろ教える訳にゃいかねえから、待ってろって話でさあ」 「そう…」 言われてみれば停車しているすぐ側、阿紫花が指した先にはそれなりに広い敷地と大きな建物があった。 「も少し寝てなせえ、気疲れってのは案外バカにできやせんよ。 道中も何があるか分かったもんじゃねえ、肝心な時にへたばって動けなくなっちまったらあたしらも困るってもんです」 常のままの調子が、一時的に精神のすり減っている今は却って有り難い。 本人なりに気を遣っているのか、それとも単に狭い場所で吸うのが嫌なのか。後部ドアを開け、出入り口の段差に腰を掛けたまま、阿紫花は旨そうに煙を吐き出す。 は埒もないことを考えた。むしろこの男が取り乱したり我を忘れたりという場面の方が予想がつかない。…サハラ砂漠の殲滅戦、話に聞く死闘の現場でさえさして変わらぬ風だったのではないか。 「ありがと。それと、コートも」 「いいってことで。そんな薄着で震えてる別嬪さんを放って、テメェだけのうのうと厚着してちゃあ男が廃るってもんですぜ」 目の前の背には、常に羽織っていたはずのコートが見当たらない。 気付いたときにはくるみ込むように自分を覆っていたそれを、は厚意に甘えて少しの間着ておくことにした。日中はまだしも夜は寒い。 「……。」 闇の中に白く立ち上る紫煙を見るともなしに目で追いながら、とりとめもなく思考を巡らせる。 (おかしな人…本当に、何者なのかしら) 誘われて肌を重ねたことは何度もあるが、どうも本人を知れば知るほどうまくはぐらかされている気分になる。 前々からまさか堅気ではあるまいと思っていた。ただ、たまに寝物語の延長のような口調で語られる「あたしゃ殺し屋をやってましてね」が事実だとまでは。 女癖の悪さやよく見かける謎の大荷物もさることながら、極め付けはその痩躯に纏う鮮やかな刺青と、素人目にもあきらかな幾つもの銃創。まったく、「胡散臭い」に服を着せて歩かせればこうなるであろうという見本のような男だが。…しかし、その人好きのする雰囲気はどこか憎めないものを感じさせるのも確かだ。 (思う壷って気もするけどね) そう口元に笑みを浮かべたとき、まるで心中の声が聞こえたように、阿紫花の視線がふとこちらへ向いた。 「あ、少し聞きたいことがあるんだけど」 「なんですかい。分かるこたァ限度がありますがね」 「サハラ戦からどうしてこっちに来てくれたの? 目が覚めてからそんなに時間も経ってないっていう話だし、仕事じゃないんならそう無理しなくても」 「あらら、悲しいこって。ねーさんの目にゃあたしがそんな人でなしに見えるんで?」 「うーん、阿紫花さんは人でなしじゃないわよね。ろくでなしだけど」 「うわー…」 常々思っている事実を口に出すと、あからさまに愕然と頭を抱えられた。自分がそこまで言うと思っていなかったのか、態と大仰に振る舞っているだけか。そこまでは解らない。 「薄々わかっちゃいたんですが、ねーさん結構しれっときついこと言いやすねえ」 「私の口が悪いのは元からよ」 「ま、あたしゃそのほうが退屈しなくていいってもんです。…しかし、そりゃそうか。サハラの一件はケリが付いちまってるからなあ…そうすると、今回は… そうさなァ、ちょいと提案があるんですが」 「なに?」 おそらく灰皿代わりだろう。すぐ側に置いてあった空き缶の中に揉み消した煙草を落としてから、阿紫花はゆっくりと腰を上げ、内緒話でもするようにの耳元へ顔を寄せた。 一際強く、鼻腔を煙の匂いが擽る。 「この一件、“しろがね”のジョージならともかく、確かに石がどうのこうのなんざあたしゃ関わりのねえ話…せいぜいあんたとあたしの仲ってぐれえで、それじゃあ心許ねえでしょ」 狐を連想させる吊り目をにやりと細めたその笑みを、は何度か見た覚えがあった。 (あ、これは) 「どうです、殺し屋のご用命はありやせんか」 「…ねえ、やっぱりおもしろがってない?」 短い付き合いの中で分かったことのひとつだ。面白いことや気の利いたことを目前にすると、この男は決まって今のような不敵な笑みを見せる。 「殺し屋を雇う…私が、阿紫花さんをね…」 「へえ。はばかりながら、こちとらプロの端っくれでさあ。あんたの身のひとつぐれえしっかり守ってみせますぜ。悪ィ話じゃねえと思いますがね」 「私がそうしてって言ったら、相手を殺さないように手加減して止めるのもやってくれる?」 「ヒトを何だと思ってんです。雇い主の言うこたぁ、よっぽど無茶でねえ限りちゃんと聞きますって」 まあ軽井沢やサハラじゃそのよっぽどの無茶を聞くはめになっちまったけど、ありゃあノーカンで。 よくわからない一言を付け加えて、阿紫花はしかしどこか楽しげに笑声を立てる。 「んー…私の中にその柔らかい石があっても、そうでなくても、もうややこしいことになっちゃってるのは確かなのよね。殺しっていうより要は護衛か…人でも人形でも、滅多やたらに殺されちゃったらそりゃ困るけど…うん、そう言うんなら」 「そう来ねぇと。何つっても、危険があってからじゃ遅えでしょうよ。 …で、ねーさん」 掌を上に向けて親指と人差し指で丸を作ったハンドサイン。意味はわかったが、一瞬脳が意図を図りかねて固まる。 「お代はいかほどいただけるんで?」 「えっ」 はその日、生まれて初めて殺し屋の相場などというものを真剣に考えた。 |