闇夜に咲くくちなしの花にも似た白い面差しが、街灯の弱い光の中に浮かび上がって見える。 肩に男物のコートを羽織って、足下から忍び寄るような夜気さえ気に止めぬまま、は暫時ひどく真剣な顔で考え込んでいた。 …言われた内容を鑑みるに、ごく当然の反応ではあろう。 (そりゃあ今のご時世、ヤクザ稼業だってそうそう殺しなんざあ縁はねえから、相場も分かるわきゃねえやな) 考えてから、阿紫花は僅かに自嘲の笑みを浮かべた。 今日日のヤクザはリベラルである。銀幕の中のような義理人情や切った張ったにはあまり縁がない。殺しに関わる仕事は、大概“黒賀の人形使い”辺りを代表格とするなんでもありの荒事の専門業…もしくは希に個々人で活動しているフリーランサーの手に任せるのが慣例で、しかも(笑わしてくれやがる、とつい悪態を吐いてしまったが)まるで穢れを嫌うように、自分達とは一定の距離を置く。 要は、殺し屋稼業とは今時“その筋”の中でさえあからさまに浮いているのだ。 堅気そのものという顔をしたこの歌手が自分達の相場を知っていたなら、むしろその方が阿紫花はよほど驚いたろう。 「参ったな、私今お金持ってないのよ。口座には高額入れてないし、部屋まで帰らないとタンス貯金は持って来られないし…当面ある全部は…」 革の鞄を探って財布を取り出し、その上に手から外した時計と指輪、髪飾りを重ねる。 「そこそこ高いものはこれぐらいかー…手付っていうことで残りは後払いにしてくれれば、必ず払うけど…だめ?」 差し出されたその手元と、自分を正面から見詰める真剣な表情を阿紫花は無言で見返してから… 一瞬ののち、弾かれたようにけたたましく笑い出した。 「ちょ、ちょっと、阿紫花さん? なに、どうしたのよ」 こちらの挙動を不思議そうに見守る仕草はどうにも“どこかの誰か”と重なって、さらなる笑いがこみ上げて来た。自分はこの反応を知っている。 そう思うと、一旦収まったはずの笑いの波はなかなか引かずにぶり返してくる。 「く、くく、ははは…さ、才賀の坊やとよく似てら…」 「えっ、誰?」 「ああ、いやいや…すいやせんね。軽井沢の時の雇用主の話で…ったく、カタギの反応ってのァほんと思いも寄らねえから面白えなあ…くく… だけどねーさん、てめえで言うのもなんですがね、まさかその筋じゃ音に聞こえた黒賀の人形使いをたかだか数十万で雇えるわけはねえってもんでしょうよ」 にべもなくそう告げると、は案の定哀しげに眉根を寄せる。 以前聞いたことのある身の上話によれば、元々それなりの家柄のお嬢様だったような気もするのだが、そこは敢えて指摘せずにおいた。阿紫花自身、今の興味は金の話ではない。 「やっぱり足りない? その、前の雇用主って人はどうだったの?」 「へえ、値段ですかい。ほんの十億円ほど」 「嘘!?」 さすがに声がひっくり返った。 大企業である“サイガ”の名は当然知っているだろう。それ故まさか本当に…と思う気持ちと、いくら何でも過ぎた冗談だと疑う気持ちが脳内でせめぎ合っているようで、彼女は再度頭を抱えて唸った。 は口こそ悪いが、基本的に素直な女である。 「ウソだと思いますかい? まあ普通思いますやね…ところがそいつがマジもマジ、今まで受けた中でも最高額のとんでもねえヤマだってんだから人生わかんねえもんで…いや、話がズレちまった。まあさすがにそれが基準ってわけじゃありやせんよ。逆に考えてもみなせえ。 それだけ入ってきた以上、今のあたしゃ金には不自由してねえってことですぜ」 「え」 の目がふっと細くなった。ほんの数分前に意地の悪いことを言ったせいか、またからかわれて遊ばれては敵わない、今度はなんだ…と言わんばかりの表情で。 (まったく、このねーさんはいじり甲斐があっていいやな) とはいえ、自分はまさにそこに付け込んでいるのだが。 「さっきも言った通り、サハラじゃあやっと命拾いしたばっかりなんですがね」 「ええ、あと少し歯車が狂ってたら今頃生きてここにいなかった…って言ってたっけ。すごいことになってたのね」 「そうそう。ありゃまったくこの世の地獄って有様で…」 言いながら滑るように後部座席に腰を下ろし、返す手で自分のコートにくるまった肢体を捕まえて、身を寄せる。 月光も盲いるほどに白い首筋を黒革の手袋に包まれた指でそっと撫でると、さすがに要求されることは予想がついたのか僅かに息を呑む気配がした。 「…直接的に言いやしょうかい。その地獄から帰って間もねえ今は、あたしゃゼニカネなんぞより女が欲しいんでさあ。それこそ数億積んだって惜しかねえってぐらいに」 そんな矢先、目の前にこれだけすこぶるつきのご馳走がありゃあ欲しいと思うでしょうよ。 耳朶を噛むように囁くと、溜息混じりの笑い声が聞こえた。 「つまり体で払う方法があるって、それを言いたかったの?」 「へえ。どうです、悪ィ話じゃねえでしょう?」 視線のピントも合わない至近距離で幾度か瞬く黒い眼差しは、ようやく得心がいったと言いたげな苦笑いを孕んで柔らかい。こちらの言わんとする了見がわからないほど馬鹿ではあるまいと思ったが…果たして、は今度こそはっきりと声を立てて笑った。 「ちょっと、どうもこうも…ふふ…あははは! 阿紫花さん、それじゃいつものことで雇用契約になってないじゃないの…バカな人ね! もう!」 「けけけ、何とでもお言いなせえ! バカでもなけりゃあこんな稼業は務まりゃしませんや。 それにいつも通りだなんて、一っ言も言った覚えはねえでしょうが…餓えてるときのあたしァ、そりゃもうしつっこいんですぜ?」 なめてかかって気絶しちまっても知りやせんよ? などと腰を抱く手をどさくさに下に滑らせると、微笑みながら鋭い音を立てて叩き落とされた。 派手なのは音だけで、痛みは全く感じさせない。…そこは流石に芸人のあしらいであった。 「ねえ、でもその自動人形って、本当にそんなに怖いの?」 「もうそれほど強いのはいねえって話ですがね…そいつらの厄介なのは、人を襲って生き血を飲むって習性のほうなんで」 「人の血? うわあ…」 顔を引き攣らせたに、一つ言っていない…むしろ精神衛生上言ったところで何も得にはなるまいと口止めをされた事実を、阿紫花は改めて腹の奥に飲み込んだ。 “立地条件からいって、件の黒服の自動人形は店の周囲…即ち、人が消えても大騒ぎされることのない繁華街近辺で人間の血を調達していたと思われる” (釘を刺されるまでもねえやなァ…誰が言えるってんでえ、こんなこと) 阿紫花英良は日頃の素行こそ悪かったが、その職業上一般人よりも目敏く、空気も読めた。 「まあまあ、怖いのはお察ししますがね、黙って任せてくれりゃあいいんでさあ」 「ええ、じゃあ…条件は呑むから、お願いできる?」 「もちろん承りやしょう。仕事はちゃんとやりますぜ。 なあに、元っから畳の上で極楽往生を望める渡世でもあるめえし、一天地六の賽の目次第ってのもなかなか乙なもんじゃありやせんかね」 僅かに胸中に蟠る後ろめたさを吹き消して、阿紫花はからからと笑声を立てた。 |