「いい? さっきも言った通り字は…特に毛筆には「うまく見せるコツ」があるの。そのいくつかのポイントを押さえておけば、いかに安藤先生でもそうそう文句はつけられないはずよ。
…そう、特にここのハネなんて惜しいところね。もう少し豪快ならよりうまく見えるわけ」
「線を組み立てて意味を為すわけだから、私としては絵を描くことにも通じると思ってるけど。見たものを感じるように描くから…あえて言えば抽象画かな。そう考えてみると苦手意識も少し変わってこない?」
「まあなんだかんだ言ったけど、君達の本領は自由形にあると思うわけよ。本番ではお題や形式に囚われずに、好きな言葉や自分の強く思うことを思うままに書きなさい。そうすれば結果はどうあれ納得はいくから!」
『はーい!』
* * *
クラス対抗書き初め大会にて上位を飾った言葉たちを前に、土井半助は喜ぶべきか怒るべきか今一つ判断がつかず微妙極まる顔で立ち尽くしていた。真横にはろ組の教科担任斜堂影麿が、やはり似たような表情で頻りに首を捻りながら突っ立っている。
気持ちは痛いほどわかる。いったいこれはどうした事態なのだと自分も問いたい。
「………。」
「………。」
なるほど。題に囚われない自由形式とはいえ、上位をほぼ一年…それも一年の中でも達筆の多いい組でなくこの二クラスが占めたこと自体は文句なくすばらしい。そして字は上手い。ことに加藤団蔵に至っては上位にこそいないが、ミミズの盆踊りを写生したかと見紛う普段とは比べ物にならないレベルだ。なんと遠目に見ても読めるではないか。
何があったか知らないが大層喜ばしい。
しかし、この題は何事だ。
「ビリから二番」
「五秒でみかん」
「悪筆克服」
「真冬の肝試し」
「墓地と北風」
「蛞蝓五十匹」
「命より銭」
「闇夜に人魂」
「字は…うまいんですけどねえ」
暫し呆然としていたらしき安藤夏之丞が僅かに一言呟いて、ふらふらと自分のクラスに戻っていった。まだいまいち調子が戻っていないようだ。
聞いていないとは知りつつ返事をしてみる。
「ええ…それ自体は…」
しかしこれは誰に教わったのだろうか。
まさか自分達以外の先生方ではあるまい(それならそれでもう少しましな題を貰ったはずである)。上級生はそもそも野戦実習が明けたばかりで、そんなことに気力を割ける者もいなさそうだ。となると、可能性が高いのは事務員…それも誤字や脱字が日常茶飯事の小松田秀作ではなく…
「…さん?」
「なんでしょう」
いつの間にか会場にやって来て、この上なく満足げな笑顔で作品を眺めているに、彼はよもやと思いつつ問い質してみた。
「ええそうですよ、手解きしたのは私です。書き初め大会も間近だけれど自分達はお世辞にも字がうまくないからぜひ講義をお願いしますと、ろ組とは組の子達が頼みにきまして」
「はあ…それはありがとうございます。しかしそこから何がどうなってこんなことになってしまったんですか…」
常より二割増しくらいは陰気な声で、斜堂がぼそぼそと呟く。
「いえね、私考えてみたんですけど」
「はあ」
「行事本来の意味を外れ、上っ面の綺麗な言葉や格言をそのままなぞることになんの意味があると言うんでしょう。他者からすればどんなにくだらなく見えても、本人達にしてみれば心からの願いや好きな言葉を書いたに違いないはずです。自分の思うことや誓うこと…今年一年の志を全力で書き留めることに「書き初め」という行事の本質があるのなら、まさにこれこそ嘘偽りなくあの子達の本気の思い…それをたかが字面云々ごときで、誰に貶められる筋合いがありましょう。決められたお題なんか飾りです! 偉い人にはそれがわからんのです!」
「総括すると綺麗な字面のお題がつまらないから、きっとおもしろい言葉を書くと踏んで彼らに手解きをしたと…」
「うわあ、随分お茶を濁したのによくお分かりになりましたね、斜堂先生」
「…お見通しです」
「ははは…まあ、そんなことじゃないかとは思いました」
とはいえ結局のところ自分達は教師であるから、なんだかんだと言っても自分のクラスから入賞者が出るということはやはり喜ばしいのだ。土井はひとつ大きく息をつくと、改めて教え子達の奮闘の成果を見渡してみた。
ああ、なるほど。
言われてみれば、これもこれでおもしろいじゃないか。