女は三界に家無しと言われる。
幼少の頃は家に、嫁いでは夫に、老いては子に従う、それ故にどこにも身を落ち着ける場所がないものという、女の不安定な立場を表した言い回しだ。
今になってそんなつまらないことを思う。元々私の立場はどこに依るものでもない。故郷には家はあったがもう帰れない。嫁ぐあてもない。そうなれば物理的に子もできはしない。
幸い故郷からは何より役に立つものを持ち込んでいる。どこまでいけるか分からないなりに終生キャリアウーマンもいいだろう。
もちろんこの時代にそんな言葉はない。
だが、得てしてそう平穏には行かないのが世の常というものである。特に神も仏もないこの時代は。
 
「びっくりしたよ、ほんと。まさかここ来てプリン食べられるなんて思わなかったからさー」
「は、はあ…」
「この時代にもあるんだね、プリン。なんで皆作ってくれなかったんだろ」
「あの、信長さま…?」
「ん?」
湯飲み茶碗ほどの大きさの器を大事そうに手で包んで、煙草のように匙を口の端にくわえたままの…今まさに日の出の勢いを誇る織田軍の総大将…いやこれは皮肉だった、今は敗残の将であるところの織田信長は緊張感の一欠片もない顔を上げた。
「君が作ったんだよね?」
「はい。お気に召していただけましたか」
「うん、おいしい。ちょっと甘さ控えめなのも今風…ん? 今って今のことでいいのかな? 未来風?」
頭痛がしてきた。
同時に、気さくそうだから少し話して裏を探ろうかなどと考えていた自分がとてつもないバカに思えてきた。彼は天井知らずのアホか、そうでなければ超のつく大物の…
「信長さまは」
「どしたの?」
「タイムスリップですか?」
「うん」
 
まさかの同郷人。そしてまさかの一見カムアウト。
 
「……まさかね、こんなんなると思ってなかった」
「うんうん、俺も」
「電車で居眠りして目が覚めたら山の中で、どこまで乗り越したらこんなとこ来るんだって思って、それからいや無理があるだろって自分に突っ込んで、踵の高いヒールで半泣きで歩いて歩いてね」
「あー…女の人はおしゃれな靴履かなきゃならないし、山道は辛かっただろうね」
「こんなもん履いてられっかって途中で切れて、もうそのへんの石使って踵へし折っちゃった。でも大変だったのはそれからでさ、人がいると思ったら時代劇のモブみたいな着物着てるし、そもそもなんか聞くにもみんな逃げちゃうし、なんでよ! なんで南蛮人って言われたのよ!」
「ひょっとして髪染めてた?」
「うん。もうほとんど色抜けたけど」
「やっぱり。なんかねー、俺こっち来てわかったんだけどさ、日本人の顔って俺たちの時代までに結構変わってるっぽい」
「あっ、そうか、そういや開国以降諸外国の血もじわじわ混ざってきて、大和民族の顔やスタイルも変わりつつあるとか何とか…」
「その変わる前の時代に来ちゃってるわけだからさ、ぱっと見外人さんに見えたんじゃない?」
「なるほど」
織田信長ことサブロー君は真面目な顔で頷いた。
……私のあげたホットケーキを顔全体で頬張りながら。
あれからなんだかんだあって彼の今の住まいに招かれて、いいのかと疑問はあったがついて行ってみると、どうも織田家中の皆さんは彼の突飛な行動に慣れているようで(それはそうだろう、時代背景を意にも介さず外来語を使うような上司だ)思ったよりは抵抗なく通してもらった。
人払いをしてお互いの自己紹介を済ませてからは、私はもう出してもらったお茶が冷めきって常温になるまでひたすら誰にも言えなかった苦労をぶちまけて世の不条理を愚痴った。冷静になって思い返せば(元)高校生の男の子相手にたいそう取り乱して申し訳ない。
「それでお菓子作って売りながらあちこち回ったんだ。すごいよね、元はお菓子屋さんだって言っても大変だったでしょ」
「まあね、基本的な材料も器具もないから、満足に食べられるものができるまで何年もかかっちゃった」
牛乳、卵、麦あたりの材料ひとつとっても現代の安定した素材からはかけ離れているし、この時代はまともに買うこともままならない。基本的な器具もろくにない。
さらに時代的には当たり前の話だが、正確な計量器がないのは致命的だった。
現代のぴかぴかの厨房で高性能な機具を駆使して作っていた繊細な洋菓子はことごとく封印せざるを得ず、鍋と卵を買い求めて制作したのがさっき彼の絶賛したプリンもどきである。
本格的なそれではない。卵を振りまくって中身を攪拌し、笹の葉にくるんで鍋や焚火で蒸すだけのもので、しかも高いからあまり数は仕入れられないが、この時代には十分な新食感だ。そこそこ名前が広まった今も一番の売れ筋商品になった。カラメルをコンフェイト、金平糖で賄ったのもなつかしい思い出だ。
まあ正確無比な電子機器は望むべくもないが、その分求められるハードルも低いと思えばそこそこのモチベーションは保てる。
なにせ虫が入っていたと文句を付けられて、なら取り除いて食えと返せるのだ。これはこれですばらしい。
話がずれた。
とにかく様々なことはあったが飛んでからの数年間、私はこっちで手に入る器具と材料をかき集めて菓子を売って身を立て、話を聞き回っては情報収集に励み、漸く時代背景が見えてきた所だ。
…まさか織田信長が現代人だとは思わなかった。
尾張の大名が京まで、まあアホ将軍を擁立して天下を目指している最中だからいても不思議はないのだが、今は何をしに来ているのか。
そう聞くと、この時代…特に織田信長の物語にはまず確実に出てくる、浅井・朝倉両軍に挟まれた退却戦「金ヶ崎の退き口」から(とりあえず主君は)逃げ延びてきたばかりで、今は殿の羽柴軍を待ちつつ帰るルートを模索している最中だと彼は語った。
脳内に勢力図マップを展開しながら考えた。なるほど、浅井が敵に回った以上はもう近江全土が敵、岐阜に帰るならルートは慎重に選ぶ必要がある。
「じゃあそれが決まったら岐阜城に帰るんだね」
「そうなるねー、早く秀吉くん帰ってこないかなー」
「軽っ」
「だって当然帰ってくるでしょ、こんなとこで死なないよ。秀吉だもん」
「そりゃそうだけどさ…」
君より長生きする。
それどころか後の天下人だ。
第一さっきから考えていた疑問、彼は歴史をどこまで理解しているのだろう。確かによく馴染んでいるしさすが長く過ごしただけはあるのだが…つまり平成人のアドバンテージというか、日本史で習うような基本的な世界情勢や人物相関がまったくわかっていないようだ。
そもそも自分の部下が後の豊臣秀吉と知っているかどうかすら危うい。
「サブロー君、日本史って何点ぐらい取ってた? テストで」
「えー、いきなり言われても、もう高校生じゃなくなってずいぶん経つし…30点ぐらいだった…かなー?」
「低っ!」
嫌な予感がした。
「あのさ、信長なら本能寺の変は知ってるよね」
「そのぐらい調べたよ、あいださんでしょ」
「えっ」
「だからあいださん。本能寺で信長を殺す人」
「う、うん…?」
これはアカンやつだ。
これはアカンやつだ。
大事なことだから思わず二回言った。この子は一体どうやって高校受かったんだ。武将やれてるぐらいだしスポーツ特待生とかだったのかもしれない。
とりあえず彼なりに考えた結果、無意識に日本史に沿うように動いているようだし、そのへんは問題ないのかもしれないが…それにしても平成の義務教育の無力を見た気分だ。少し時代背景的なことは黙っていよう。
いくら勉強が嫌いでも、ドラマや漫画や小説で一度ぐらい触れると思うんだけど。
「でもなー、日本史の教科書どこいったんだろ」
「あ、教科書持ってたんだ、やったじゃん」
「うん。でも読み返して勉強しようと思ったのになくしちゃったんだよね」
なにしてんだ!
 
 * * *
 
「はー…ごちそうさま。もう一枚ない?」
「ない」
そもそもプリン一つじゃ足りないと言うから分けてあげたのだが、それは私の昼食の半分だ。
「材料あったら作れる?」
「そりゃここなら材料も設備もたくさんあるだろうし、サブロー君が材料費出してくれるんなら作る」
「そんなんでいいならいいよ」
…弁解させてほしい。高校生相手にホットケーキ一枚ぐらいで何をけちくさいと思わないでいただきたい。
材料が高いのがいけないのだ。牛乳ならまだしも安くすむが(この時代に牛はもっぱら労働力であるから、肉や乳を食べる考え自体がない)、卵は健康食品だ。高い。資金があったら自分で養鶏場でも作りたい。
「あー、久しぶりに食べたらもう口がホットケーキだ。ちょっと固かったけどこの時代でも作れるのかあ」
「そうだね、もっと安定した材料の供給口があればバリエーションも増えると思う。特に…ここ来る前の話なんだけどさ、堺で手に入れた輸入品の白砂糖。あれがあってよかった」
カステラやビスコイト、ボーロ、コンフェイト。南蛮菓子を作るには質のいい砂糖は欠かせない。これまた高いけど。
「あとはあれさえ手に入れば…」
「どれ?」
「バター」
「あっいいね、バター! ホットケーキにはバター欲しいね」
「でしょ!」
ホットケーキに乗せるだけの話ではない。バターがあれば作れるものの幅はぐんと広がる。
原理は簡単だから作れることは作れる。ただし人力では手間と労力の割に製造量はほんの少しで、現代人が遊びで作るならまだしも、この戦国の世で自費製作して材料に組み込むには無理があった。
そのようなことを話すと、今にも厨房に向かわんと襖に手をかけていたサブロー君はなんということもなさそうに言った。
「じゃあさー、岐阜に帰ってからってなるけどさ」
「うん」
「俺、スポンサーやろうか?」
「…え?」
「プリンとかチョコとかケーキとか、うち来て作ってよ」
 
突っ込みどころはいろいろあるけどまずこれだけは言わせてくれ。
「…チョコレートは無理だから」
「えー」