夏の濃い闇を切り開くように、数え切れぬほどの光を積んだ舟が悠然と水面を進む。
「いつ見ても美しいのう…おは始めてか?」
「ええ、奥方様」
用意したお菓子を主君に勧めることすらわずかに忘れて、私は思わず生返事をした。
平成の世から五百年も離れてネオンひとつもない時代、これほど大量の光を見られるとは思わなかった。逆に言えば、灯を点し夜を照らすだけのことをこれだけ豪華に大規模に演出するに至るのは、やはり時代か。
別にこの時代の方がいいと言っているわけではない。楽しいと感じられる娯楽は時代ごとに性質を変えていくということだ。
…帰れるものなら今すぐでも帰りたいし。
「おちゃんは旅の人だったよね、尾張には来たことなかったんだ」
“”は私の名前である。本名とは違う。
わりと適当に決めたが気に入っている。
「そうでございますねえ。いずれはと思うておりましたが、長く京に仮住まいを置きましたもので、なかなか動けませなんだ」
やっぱり京の菓子は上品でおいしい。
あの店の味をどうしても盗んでおきたい、こちらの店の菓子は群を抜いて美しい、そこの店はとかく歯触りに拘ったものを出す…なんてやっていたらいつの間にかタイミングをなくした。
尾張は「あの」信長がいるからいずれ来てみたいとは思ったが、まさかこうなるとは。
(そういえばこっち来てから、戦国史上有名な人にもわりと会ってるよなあ)
横でぼりぼりとクッキー食べてるお殿様がその筆頭。本能寺の変の明智光秀。遙か後のお市の方の旦那さん柴田勝家。物静かな切れ者丹羽長秀。そして草履取りから着々とのし上がる途中の羽柴秀吉。日本史クラスタだったら垂涎ものの面子だろう。ただし私はほとんど創作物による知識しかない。
そういえば徳川家康にも会った。
会ったけど…その…日本史の授業で先生がウケを取るために語った「三方原の戦いの時、徳川家康は武田軍に追われる恐怖のあまり大便を漏らした」とか「着替えずに店に入って餅を食った」とか「追っ手が来たから逃げようとしたら、茶店の婆さんが銭を払えと追っかけてきた」だとか、まあなんというか確実におなごには聞かれたくないであろう話ばっかり思い出していた。
(後の)本人は死にもの狂いだっただろうに後世ではごらんの有様だよ!
しかもそれを聞いて、日本史の教科書の肖像写真の額に「うんこ」と書いたなんて口が裂けても教えられない。申し訳なさすぎて顔が見られず、気がついたらろくに人相覚えてなかった。次会ったときどうしよう。
他にもこの時代では男色が普通の趣味だったとか、(日本史上の)信長という人は相当な男好きで…前田利家(サブロー君は犬千代と幼名で呼んでいた)、彼がその…大変……性的な意味で寵愛されていたとか…
もうこんな対人関係に響くようなろくでもない無駄話ばかり覚えてるならいっそ全部忘れればよかったのだ。
(……ちょっとむこう行こうっと)
深く考えると目眩がしそうだ。
そこから話が余所事に移ったのをしおに、私は少し他の人の様子を見ようと数歩下がった。
* * *
そういえば泳げるようになったのはこっちに来てからだった。
食べ物に困った時川に罠を張って魚を捕まえ、生は寄生虫が怖いので焼いたらあきらかに表面だけが焦げて中が生だった。今になればいい思い出だ。だって焚き火したことなかったんだもの。
なんで今そんなことを思い出したかというと。
「まだ三つ四つだったわしを、兄上はこの川に蹴り落としたではありませぬか」
横の人がこんなこと言ってるのが聞こえるからだ。
鬼か。
「温厚なわしがそのような乱暴をするわけなかろう、見ろ、お前がくだらぬ冗談を言うせいで侍女どのが怖がっておる」
「ほら、やはり兄上がお忘れです。先日会うたはずのこの女性のことも覚えておられぬほどですから」
「そうであったか…?」
えっ。
あきらかに私を示して(表面は)なごやかな会話をしているが…羽柴秀吉さんには会った。でも誰だっけもう片方。
いや、秀長と呼ばれていた名前と、金ヶ崎から京に帰還してきた時のことは記憶にある。塩を効かせた握り飯とお茶を配って回った時、ぼろぼろの死に体同然で「いやあ、このような美しいおなごに優しゅうされれば疲れも幾分かましになろうと言うものですな」なんておどけて笑っていた。あの状況下ですごいナンパ根性だと思ったのでそこはしっかり覚えていた。
ついでに兄上と呼んでいるくらいだ、実弟か異母弟かはともかく、普通に考えれば弟だろう。
しかし創作物が元の私の知識では秀吉太閤に弟がいたことすらろくに知らなかったので、歴史上のことまでは記憶にない。
だからといってあなたは後世なんて名前になって、歴史上何をするんだなんて聞きようもないし…
……サブロー君ならあっさり聞きそうだが考え付かなかったことにした。
「え、ええ…羽柴秀吉さま、秀長さまのご兄弟にござりまするね」
「そのお顔、さてはわしのことだけ忘れて、今しがた思い出されましたな?」
秀長さん、申し訳ない。わりと図星でした。しかも元より知らないとか方向性がもっとひどいんです。
「ははは、無理もござらぬ。それがしは羽柴の無駄に長い方、で秀長とお覚えくだされ」
「まあ、おもしろいお方。わたくしは岐阜城下で菓子屋を営んでおります、と申しまする」
なるべくお上品に受け答えはしつつ、こっちとしては羽柴家への態度を未だ図りかねているのが現状である。
当たり前だが、肚の底が知れないのはサブロー君だけではない。
特に、誰が題材にしても終始一貫してキャラがぶれない(日本史上の)信長と違って、秀吉さんの解釈は人によってバラエティ豊かだ。善人悪人お人好し知略家、あの本能寺の黒幕説もある。まったく、どう接したものか。
(農民から天下人にのし上がる人たらしか…)
確かに二人とも人当たりがいい。聞いた話では身も軽く頭も回るようだ。何より信長と張るほどの行動力。時期が時期だから墨俣の一夜城は見られなかったが、この先色んな意味で目が離せないだろう。
「殿の話はよう聞きますな。城下におそろしく腕の立つ、食すものの舌をとろかすような菓子を作る職人が現れたとか」
「そんな。お殿様にご贔屓にしていただけるだけでもこの上ない光栄ですのに、そのように煽ててはつけ上がりまするよ」
まったく、兄弟揃って人をたらし込むのが巧いことだ。
弟さんもやたらいい人そうに見えるというか、いかにも明るく軽く調子が良い。特に何人口説き落としたか、このなんとも女慣れのした言動。やっぱり本人には口が裂けても言えないが、こういうタイプは二次元でも三次元でも裏があるパターンが多い…いや、現実にそう珍しくないからこそ、それを誇張したキャラクターとして作られるのだろう。
「そうそう」
「はい」
「お目に止まるのみならず、殿のお言葉の意味もおわかりになられるとか…?」
「そう、で…ございますねえ…薄々ですけれど」
聞いた瞬間、脳内の要注意リストに加えたばかりの羽柴兄弟の名が赤字になった。
サブロー君が時々使う横文字や平成生まれ特有の言い回しは、皆さんもういい加減気にも止めていないと思ったのだ。
誰かが気にしたとしても態々解説するなんて間抜けはしていないし、彼と対外的に話すシーンではほぼイエスマンを通して、余計なことも話さない。多少おかしな点があってもスルーされると踏んだが…一体どこで怪しまれた。
「ですが、あまり買い被られては困ってしまいますわ…わたくしなど無学ですゆえ、信長さまがあのように仰るならああなのではないかと見当をつけることしか」
「なるほど、左様でござったか」
(これは躱そうとしてるの解ってる…くっそ、むかつくなこの人)
推測が正しければ、秀長さんはこの場でどう言っても考えは違えまい。
最初からうっすらとした疑念を晴らす気など毛頭ないまま、私があれこれ言い訳をするのを楽しんでいるように見える。
「……では」
「ほう?」
こういう感じの人に敵愾心を見せては思うつぼだ。
「秀長さまだけにお教え致しましょう」
私はへらりと笑顔を作った。
「実は、とあるお国の山中深くには物の怪の住む森があり、毎年その森には身分の高低を問わず無作為にヒトの子を招き、人知を越えた教育を施す仕来りがあるのです。そのようにして、時代ごとに、この世ならぬ知識や作法を身につけた子が一定の数生まれるのでございます」
「…その不思議なお子が、殿やあなたと?」
「信じられますこと?」
この適当なホラ話が効果があったかは不明だ。図るつもりもないし警戒を解くつもりもない。
だがとりあえず、秀長さんはぱっと笑顔を作って話を切り上げた。
「はっはっは、物の怪の寺子屋とは夢のあるお伽噺ですな!」
「そうでございましょう!」
嘘を信じさせるこつはそこに少し真実を混ぜることだと言う。まあこの時代にない知識なのは間違いないし、いっそかぐや姫よろしく月から来たとか言ってみようか。
今度試そう。駄法螺が必要な局面がきっとまた来るだろう。
「才あるだけでなく話も愉快とは、殿は良いおなごですな。わしの好みにござるぞ」
「まあ、本当に調子の良い。本気になんて致しませぬから」
…まだ目を付けられているようだから。
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