結論から言う。
できた。
 
「…つかれた……」
とりあえず大急ぎで麦粉を入手し、カステラとクッキーを混ぜて二で割ったような食感を出した大麦のフィナンシエは野点の空と新緑の色によく映えた。
バターがないから油で代用して、アーモンドプードルの代わりにはきな粉を使った。肝心なところで砂糖が足りなかった時は厨房で悲鳴を上げたものの、農民上がりで土地勘のある使用人を選んで楓の樹液を集めてきてもらい、それを凝縮してメイプルシロップを作った。樹液そのままでは平成のサトウカエデに比べ風味と甘さが落ちるが、たっぷり煮詰めた甲斐あってそれほど気にはならないだろう。
メイプルシロップ風味、お茶に合わせた抹茶味、クルミや干し無花果を入れたものとバリエーションも揃えてある。茶会は今も盛況だと侍女の皆さんが教えてくれた。
それにしても何枚レシピを作ったかも覚えておらず、前日まで文机と厨房と窯の前を行き来し通し、ああでもないこうでもないと試作を繰り返した約一月はさすがに体力に響いた。疲れて眠い。
ただでさえ信長のお気に入りと言うことで、最近はあまり私をよろしく思わない人もぽつぽつ出てきている。城内で腑抜けた振る舞いはまずい。非常にまずい。
だがそれを踏まえた上で耐えられない。
(少しだけ…ほんのちょっと…)
座ったまま意識が飛んだのが、いつのことかは覚えていない。
 
 * * *
 
(…これが最近信長の贔屓にする職人か)
畏まって座ったまま首だけ傾け器用に寝る姿を眺めて、ゆきは呆れるとも疑問ともつかぬ溜息を漏らした。
普段のなりは格別珍しくもないどころか、十分触れられる距離に人が来てもまるきり気付かず寝こける様子はむしろ鈍い。
だが、腕の方は並々ならぬものがある。
珍しいというより見たことのない菓子を多く生み出し、今日茶会に供した菓子にしても、日の本よりもむしろ南蛮のかすていらに似ているようで…どことなくあの不思議な大名、信長と同じにおいすら感じさせる。
どのような加減でもって焼いたのか狐色の見た目の美しき菓子を、自身は「織田家のますますの発展を願い、恐れながら、金の延べ棒に味をつけましてござりまする」などと言っていた。
茶席はどっと沸いた。
皆さんもどうぞと後に侍女たちにも振る舞われたものを思い出すに、なるほど、絶賛されるのはわかる。
形といい色といい、金の延べ棒に似ていながら歯触りはさくりと軽く、しかも齧った者から歓声が上がるほどの甘さと香ばしさ。
「……。」
座ったままの座布団のほど近くには、小さな筆と帳面が置かれている。
(たかが菓子職人と侮ることはできぬ。噂では信長に人員を借りて、なにやらわけのわからぬことを初めておるようだからな)
聞いた話では人員をかき集めて森に繰り出し、楓の木や太い蔦を探して、液を集めて回っているとか。または牛や鶏を大量に飼い、労働力にするのではなく乳と卵を大量に入手しているとか。
そのような真似をして何になるかは知らずとも、信長が無駄なことに人や資金を出してやるとは考えられぬ。
ただでさえゆきは前々から不審に思っていた。
信長がなんとも意味のわからぬ話をするのはいつもの話だが、ただ困惑する周囲と違い、この妙な職人は眉ひとつ動かさずうなずいてみせる。それは人格こそ真反対であれど、松永久秀と通ずるものがある。
だけでなく、松永と話す時にもたびたび人払いをする、その事実にこそきっと何かがあるのだ。
自分たちでは計り知れぬ何かが。
そして今回。信長の無茶な下知をいとも易々とこなして見せたことも、この帳面に糸口が記されていはすまいか。
ゆきはそっと紙束に手を伸ばした。
 
「……。」
「……。」
伸ばした手にそっと帳面と筆を取り、まとめて脇の文机に除けて、まだ目覚めぬの背に羽織を掛けてやった。
(……ちっ)
 
「ねてる」
「つかれてる?」
細く開けた障子戸の向こうからこちらを伺う幼子二人が囁き交わす声が聞こえる。
隠れたつもりやもしれぬが、あまり隠れたことにはなっていない。
まったく肝心なところで邪魔立てをしてくれるがき二人である。ゆきが内心嘆息すると、もう姿を隠すつもりもなくなったのか、二人はぽてぽてとこちらへ寄ってきた。
これではまさか覗き見はできぬ。
「おどの、寝てる」
「そうじゃな」
「菓子たくさん作ったから?」
「うむ…少し寝かせておいてさしあげよう」
森家の子供達は城内でたまに見る。特にこの、坊丸・力丸と呼ばれていたふたりはちょこちょことその辺りをうろつき回っては、大人を冷やかして回っている。今日は茶会の下働きに来たらしい。
というのは建前で、なにかにつけ要領の好いこのがきども、大方手伝いをほぼ兄の蘭丸に任せて菓子でもねだりにきたのであろうが。
「またあれくれるかな、金色の」
「干しぶどうのもうまかった」
(やはり菓子が目当てか)
ゆきからしても、それを目的にするのはわからぬではない。
帰蝶の使いで店まで足を運ぶ度、如何な時間でも店にはわらわらと人が集って絶えぬ。それもそのはず、初夏から夏にかけて果物が多く出回るこの時期だけの限定と称して、が店頭で串に刺した果物を焼いていた。
特別手の込んだものですらない、ざく切りにして焼くだけではないかと思ったゆきは、しかしほんのおまけだと渡された一本を頬張ってみて驚嘆することとなる。
熱された果物は驚くほど濃厚な甘みを湛えていた。
確かに思い返せば、草木とは太陽の光で育つものだ。実も光熱を当てることによって熟し、甘みを増して柔くなる。それにしてもまさか果実を焼くなどと、あまりにも単純な発想で、斯くも効果的に甘味を引き出す者がいようとは。
子にはあの甘さはたまらないだろう。周囲をうろうろするのは当たり前と言えば当たり前であった。
「ああ…もう少ししたら茶会もお開きになるであろうしな」
「みんな菓子よろこんだ」
「おどのほめられる?」
「それは殿が決めることゆえ、私にはわからぬが…多分お褒めいただくのだろう」
「ほめられるって」
「すごかったもんな」
「すごい…?」
ゆきは思わず聞き返した。
帳面の中身を不意にされた以上は、がきどもから少しでも動向を探ってやらねば割に合わぬ。
「うん、すごい」
「たまごとか、牛の乳とかたくさん」
「さとうが足りないって」
「だから木から汁しぼるんだって」
「知らなかったな」
「つばきから油も作ってたな」
「……そうか」
二人は何を言っているのだ。
(あの金色の菓子が卵や牛の乳を材料にしていることは知っているが、砂糖が足りぬとしても樹液なぞ……っ!?)
よもや、急遽調達していた楓や蔦の樹液は砂糖の代用か。そういえば輸入物の砂糖が出回るはるか以前は、蔦の樹液から甘味料を取っただのなんだのとどこかで読んだような覚えもある。
「…油は…?」
「しらない」
「気がついたらできてた」
「な…油を、たった一人で?」
思わずの顔を横目に見た。
眉間に皺を寄せ、なにやら良くない夢でも見ているのか、もしくは寝ながら新しい菓子でも考えているのか、声ひとつ立てぬ寝姿である。
(この…この職人、本当に一体何者なのだ…!?)
人の見向きもしないもの、下手物と呼ばれるもの、食べなくはないが薬の範疇に入るもの。突拍子もない材料を集めて加工を施し、まるでそうするのが当然であるように不思議な手際で組み立てて、この世のものとも思えぬ味を生む。
この尋常ならざる知識はなんだ。
(ともすれば、謙信さまよりも……いや、そんな筈はない! あってたまるものか!)
 
ゆきは得体の知れぬ寒気が背筋を這い上がってくるのを感じ、着物の袖をぐっと握り締めた。
溺れかけた子が水辺の草を掴むように。