「おちゃん、ちょっとぶりー」 「オッスオッス」 お殿様の軽いご挨拶も久しぶりの晩夏である。 私は岐阜城に戻ってから、精神の安定を図るべく少しお休みをもらった。 まず泥のように寝て、起きたらお風呂に入って(行水に近いけど)、ご飯と甘いお菓子で腹を満たす。後々に響きそうな怖い目にあった時は一回考えることをやめて自分を甘やかし、野生動物よろしく静かに休養するのがコツなのだ。 そのおかげで、戦場を思い出して悪夢を見ることももうあまりない。よろしい傾向だ。 「ありがとう、ゆっくり休めたよ。その間にヨーグルトできたから今度持ってくるね」 とりあえず人払いは済んでいるので適当に座る。 「あ、ヨーグルト久し振りだ。そういや俺知らないけどあれってどうやって作るの?」 「種があれば簡単だよ。牛乳を暖めてヨーグルトを少し移して、ほかの菌が入らないように注意しながら密閉して、あったかい場所で少しほっとくとできるの」 「へー」 「種も作れるんだけど、それがめんどくさくて今まで避けてたんだよね。なんか発酵食品ってそれだけで難しそうって偏見ない?」 「あるある。でもみんな味噌とかは普通に作ってるよね」 「ね。その上澄みが醤油だし、お酒も発酵でできるものだし、この時代も完全に無縁ってわけじゃないんだけど」 味噌の醸造を見学に行って、上澄みが醤油と知った時は驚いた。 「まあつまり、あそこまでして奪った酪はなかなかいい具合だったよ」 「ならよかったじゃん。かけるんなら俺ジャムがいいな」 「いいよ、コケモモの持ってくる」 奪ったからにはこれから大事に育ててあげようじゃないか。 こっそり着手してた天然酵母水も順調だから、近いうちにパンもできるだろうし。 「でもよかったよ」 「なにが?」 「おちゃんがまとまった休み欲しいなんて珍しいから、帰蝶がすごい心配してた。戦場で怪我したんじゃないかってミッチーにも聞きに行っててさ」 「ちょっとそれ早く言ってよ」 知ってたら先に挨拶してきたよ! いや主君を差し置いて奥方様にご挨拶っていうのも結構な不敬なんだけど。 「大丈夫だってちゃんと言っといたよ?」 「お、おう…」 でも帰蝶様絶対気にしてると思うんだけどなあ…。 (今更だけど、こんな人が世間様では第六天魔王って言われてるんだよなあ…) 改めて目の前で涼しい顔をしている総大将を見ると、訝しげに見返された。 彼の下知は確かに災禍をもたらした。今更あえて言うまでもないことだが、叡山にいた僧侶は手当たり次第撫で斬り、生き残りも全員死んだ。 織田信長の名を日本中に轟かせた凶行と、盛大な狼煙。 今となればよくわかる。 死神がすぐ側で哄笑を上げているような、人を狂わせるあの戦場の熱気…彼は同じ地獄を数多と作り出しながら、ここで何事もなかったように笑っている。 そしてこの時代に生きるどんな大名も武将も例外はない。 どんなに優しげであろうが沈毅であろうが、彼らは当たり前にあの空気と共にある。 「……。」 「どしたの」 「いや…やっぱり武将ってすごいんだなと思って」 「そうだね」 他人事みたいに。 そう思ったが、頷いてからサブロー君は珍しく考える素振りを見せ、やがてぽつりと呟いた。 「戦国時代だからね」 「…うん」 私やヤングさんは戦に出ないからまだいい。それにそこそこ大人だ。 だが、まだ男子高校生だった彼は、こうして戦国武将になるまでに何を見てきたのだろう。 松永さんも、話にだけ聞いた斎藤さんも…いや、松永さんに限っては戦国時代を最大限に楽しんでいるようだから例外でもいいかもしれない。何せこないだ帰還の報を聞いたようで、松永さんから「お前これでもう嫁の貰い手ねえな、おめでとうよ!」と現代文の手紙が届いたばかりだ。 一度目を通してから「か弱い女にちょっかいばっかりかけてるとバカになりますよ」と現代文で返しておいた。別に怒ってもいいや。 「それでさ、ヨーグルト作ってあげるからちょっとお願いがあるんだけど」 「んー?」 「これから織田家のみなさんに私のイメージアップを図ろうと思います」 協力して。 そう説くと微妙な目を向けられた。 「いいけど家臣のみんなはわりと奥さんと子供いるし、婚活なら秀長くんにしといた方が「なんでそこであの人の名前が出るの! あと結婚相手募集じゃないからね!」 誠に遺憾である! ただでさえ今回の蛮行が耳に入ったら秀長さん大喜びしそうで怖いのに。 「でもおちゃん結構いい歳「一旦そこは置いといてね! まず叡山の焼き討ちで、私の印象は今だだ下がりに下がってると思うんだ」 「まあね」 「あとこっち大声で言えない方。下知でも結局やったもんはやったんだし、大なり小なり恐怖感は出るじゃない? 罰当たるんじゃないかなーこえーよーって考えてる人は多いだろうなって」 「それねー、士気が下がるのはやっぱ困るけど、そこからどうすんの?」 「そこであの首を使います」 あれから結構時間をかけて使い道を考えた。 お城には性能のいい調理場がもう確保されているので、今は私の店の裏手に仏像の首が三つ転がっている(使用人の皆は怖がって近寄らない)のだが、まずは当初の予定通りあの首に穴をあけて釜戸に作り替える。 「元の時代でもお墓参りなら行ったよね」 「そうだね、あんまよく覚えてないけど」 そういうところのお供えもののご飯は“仏飯(ほとけまま)”と呼ばれて、仏様のお口に触れて徳が宿ったご飯とされる。 「へー…」 「聞きかじりだけどね」 ともかくまだ罪悪感を拭えない人向けに、仏像の釜戸で炊いた仏飯をそっと売ろうということだ。 そうすれば焼き討ちに進んで参加したキチ女という私の汚名もそれなりに濯げる。辛い人も楽になる。お値段はささやかにするつもりだけど当面首の使い道もできる。誰も損をしない。なんてすばらしい計画だ。 だからうちの裏手で売ってるよって情報じわじわ流してねと頼むと、いつもの通り二つ返事の了承が返ってきた。 金持ちで経費を惜しまず出してくれるのもサブロー君の魅力だが、こういう細かいことにも協力してくれるいい上司だ。 「あとさー」 「うん」 「イメージアップっていうか、ミッチーは今回のこと嬉しそうだったよ」 「うそ!」 あんな思いっきり面倒かけたのに? ひょっとしてマゾなんじゃないかとたいへん失礼な考えに及んだが、意に反して、上司から告げられた理由は嬉しいものだった。 「気が楽になったんだって、おちゃんが怒ってくれたから」 「……そっか」 そう思ってくれるなら、いい年こいた大人としてあるまじき行為をやらかした甲斐もあるというものだ。 キレて人殴るって割とダメだろう、社会人なんだから。 「あの人さ、すごくいい人だよね」 歴史を知らないといっても、仮にも織田信長にこんなこと言っていいのかはわからない。どんなにいい人に見えても、高確率で信長を殺す男で…史実ではそういう記述はないのに、頭巾で顔をひた隠しにしているのも胡散臭いポイントだろう。 (でも、まあ…もういいか) 偏見や思い込みは捨てて、自分の思考で対人関係を広げると、この間思い直したばかりだ。 私の目から見た明智さんは優しかった。 「うん、ミッチーは優しいし、仲良くしたいんならその辺からがいいんじゃない?」 「そうするよ」 まずは話の通じやすい人から。仏飯を通じて、今まで話せなかった人ともじわじわと。…そして向こうの対応次第ではあるが、今のところの警戒リストトップクラス、羽柴兄弟とももう少し話をしていくべきだ。 (よし、まず帰蝶様に顔見せして、あと明智さんとこにお菓子でも持って挨拶に行って、それから…) 「あ、言うの忘れてた」 「えっ」 「今回の焼き討ちの話、なんか秀長くんが心配してるって。近いうちにおちゃんに会いに来るみたい。秀吉くんに聞いた」 せめて心の準備ぐらいさせてくれないかなあの人! |