人いきれにやや息が苦しい。酸素が薄いのだろう。
仕方ないことではあった。周囲は男女ともに全員が酔っているため体温が高く、しかも周囲を林に覆われた町はたいまつと蝋燭を贅沢に使って照らし出されている。夏の盛りは過ぎたが、未だ蒸し暑い暗闇がもっと暑い。
だが私の立場からすれば、そういう熱気があるに越したことはない。
それどころかもっともっと酔わせ前後不覚にさせて、脳髄がうだるほど暑くする必要がある。
「おおっ、酒に強いな。よしよしもっと飲め」
「よろしいのですか? わたくし酒を飲ませますともう一杯と言わずに一本ぐらい行きますのに」
隣から注がれた杯を一気に干すと、周りから野卑な歓声と口笛が飛ぶ。急性アルコール中毒は怖いのでこっそり水を飲んでおいた。長時間飲むならチェイサーは大事。任務だからやったけど、本当なら一気もいくない。
「いいぞ飲め飲め!」
「いよ! もっと歌え!」
「ちと細いがなかなか好き女じゃ!」
元の時代であまりお坊さんに縁がなかったので、剃髪頭がここまでずらっと揃うと壮観ではある。
ここは山麓の町の中。僧兵のみなさんは山の上での暮らしを不便がってほとんど引っ越してきたような状態になっているらしい。
私は…ただいま潜入中だ。
ことの起こりは、サブロー君が唐突に「今度の戦来る?」なんて切り出したところに遡る。
いつもならわざわざ聞いたりせずにさっと行って帰ってくるくらいだ。すぐに比叡山焼き討ちとぴんときた。
「おー、ついにやっちゃうのね」
「うん。前からちょっとは考えてたけど、ミッチーからも提案があってねー。もう盛大にやっちゃった方がいいよって」
「明智さんが…」
明智光秀の名前と焼き討ちという手段には少しどきりとしたが、今のところそれはいい。言わんとすることはもっともだ。
これ以上僧兵をのさばらせておくわけにもいかないし、腐っても宗教の総本山を草一本残さず焼き払う暴挙こそ、他の勢力…特に石山本願寺や、元は仏門の徒であった現将軍にも絶好の見せしめになる。
京からは狼煙がよく見えるだろう。
(…でもちょっと前のアレはどうすんだろ)
無駄と知りつつとりあえず聞くことにした。
「こないだ…って言っても半年以上前だけど、もう天下は狙いませんって土下座までしてきたんじゃなかったっけ」
確か年が明ける直前だ。
各地で一斉に蜂起しどんどん狭まってくる信長包囲網を破るにあたって、浅井・朝倉両軍と会談をして“我は二度と望み無し”と天下は諦めます宣言をかまして一年も経ってない。しかも起請文と土下座までつけて和睦してきたというのだから(そういえば日本史上ではそんなこともあったはずなのだが)さすがに私も驚いた。
「ああ、あれ? 俺じゃないよ」
「はい?」
「あー…。まあ、俺じゃないの。だから大丈夫」
「…なにが大丈夫なのよ…」
聞いたことないが、影武者でも使ったんだろうか。
だとしても信長として行って信長として約束を交わしたんなら、本人じゃないですと言うのは通らないだろうに…いや、いいか。どうせこの時代の同盟やら和睦やらなんてぺらっぺらなものだし、起請文に至っては(もっと後だけど)三枚起請なんて噺もあるくらいだ。ならいっそ全部法螺にしてしまうのも逆賊っぽくてむしろかっこいい。
土下座はタダだし。
「あとほら、あれは天下取りませんって言っただけで、比叡山焼きませんって言ってないもん。だから今の場合約束守ってるじゃん?」
「ひどい!」
私は思わず笑い出した。
いつものことだが彼はまったく胆が読めず、内心でどう思っているかまでは知れない。
それにしても、ここまで顔に出さずからっとしている姿はやっぱり大物だ。
「で、やっぱ行くの?」
「そうだね、なるべく足引っ張らないように策もあるけど言ったほうがいい?」
「うん、じゃあ近いうちに出るから怪しまれないように適当に男装してついてきて。あと総指揮はミッチーにするつもりだから、策があるならそっちに話通してね」
「かしこまりました、お殿様」
そのような次第で明智さんともいろいろ話した結果、私は遊女のふりをして忍者よろしく潜伏中である。
…やっぱり本能寺の一件を考えると怖くて微妙に避けていたが、ほぼ初めてきちんと話したキンカンさんはしきりにこちらを気遣ってくれて、すごくいい人だった。
彼曰く、作戦に組み込むことはこの際仕方がないとしても、未知の料理とは外交の切り札になり得るもので、畑違いのいくさ場で無理をして傷など負うことはまかりならぬということだ(本来ならむりやり帰らせた方が私のためだとも言った。強盗目当てについてきてすみません)。
故に私はあくまで場を盛り上げ、どんどん飲ませることに徹し、酒や料理に毒を盛るとか特別なことはしない。怪しまれずに盛るとかそんな器用なことは無理だし、薬を盛ったお酒をうっかり自分で飲んでぶっ倒れでもしたら洒落にもならないバカだ。
どのみち比叡山は墜ちる。
知っている身は、成功のほんの一端をお手伝いするだけだ。
ここで酔いつぶれたら元も子もないので、何回目かの一気コールにお応えした後にまたそっと水を飲んでおいた。
* * *
ぼんやりと朝霧の立ちこめる中、ある若い僧は丹念に掃き掃除を行っていた。
酒に強く話し振りも愉快な女郎が来たという話で、昨晩の酒盛りは殊の外豪勢なものとなった。場は散らかり放題になったが、後片付けひとつとっても、少し手を抜かばたちまち鉄拳が飛ぼう。
一年ほど前に延暦寺へ身を置いた覚えも新しく、ようよう下っ端の仕事を覚えたばかりではあれど、少年とすら呼べる年頃の僧は、胸中にはっきりと重苦しくとぐろを巻いた疑念を抱えていた。
(村でも良い噂は聞かなんだが、これほどとは…)
かの信仰の総本山、音にも聞く叡山がよもや空であろうとは。
考えるほどに溜息を押し止められぬ現実であった。
少し考えれば当たり前やもしれぬ。しかし、自らの心を磨き精進を重ね、女色を絶って生活に不便な山に籠もる…その覚悟をもって門戸を潜り、見たものがこれではあんまりではないか。
僧兵としていくさに出る、それ自体は仕方がない向きもあろう。自分が殴らなければ相手も殴りかかってこないと信するほど未熟ではない。だが余所の戦場に出張って人を殺して回り、かつ生臭も酒も女も大いに食らい、それでいながら仏の威光を楯に自分達は安寧であると笑う。
御仏の心は本当に我らに味方をしようか。
やんわりと視界を遮る残暑の霧に、またひとつ吐息が溶け…異変に気付いたのはその矢先だった。
軽快な鳥の鳴き声の混じる朝明けの静けさの中で、遠く馬の嘶く声がする。村の誰もがそれを気に留めずにいるうち、いくつもの馬蹄が地を蹴りつけてこちらへと向かってくる。
どこぞの戦場に出ていた僧兵とするには数が多すぎる。伸び上がって目を凝らし、若い僧は目を剥いた。
「なんじゃ…あれは…!」
全員が甲冑に身を包み、手にはたいまつに火矢、馬上槍。馬上の武者達の旗印にはいくつもの木瓜紋。
稲妻が如き速度で襲来した織田の軍勢は、鯨波を上げて村に雪崩れ込んだ。
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知ってる人が99%だと思いますが、キンカン=黄金の頭脳=明智さん、です |