南無阿弥陀仏と。 一言がこれほど恐ろしく聞こえたことはかつてない。 その言葉は何人、何十人、何百人の口に乗り、有らん限りの憎悪を込めて繰り返され、夕闇を染める業火の中へ次々と溶けた。数え切れぬほどの繊維を合わせて太い綱を縒るように…または小さな生き物が寄り集まって成された群が巨大な生き物に見えるように、標的を同じくした一つの凶暴な呪詛となる。 本陣の中に引き立てられた生き残りの僧が一心に紡ぐそれを、明智光秀は意にも介した様子を見せずそっと微笑んでみせた。 「殿、耳を塞いでおられよ」 簡素な幕を一枚引いただけの場所では、視覚はともかく音声までを遮ることはできないが、だからといってあまり遠くへと離してはまたどこぞの暴漢に襲われぬとも言い切れない。 「本来なれば目的を果たした以上、殿のお側に戻すがいいと思うておるが…この上道中で何事かあってはならぬ。そなたは大殿からの大切な預かりものゆえ、不快であろうがどうか容赦を願いたい」 「そんな、明智さまのお心遣い、わたくしにはもう過分なほどで。重ね重ねありがたきことにござりまする」 無理矢理ついてきた身を丁寧に気遣われ、図々しい割にあんがい小心なはひどく恐縮した。 (誰よ明智さん怖いなんて言ったの…。私だ…) ひ弱な自分など、数発殴られただけで身が竦んだほどだ。実際にいくさに関わり、腐ったといえど神仏に仕える者を殺して回った男達は、どれほどまでに恐ろしいだろう。 (なのに、こんな時に笑ってくれるなんて) いかに心を沈める術を持ったとしても、自分も彼も人でしかないというのに。 死と狂気が溶け込んだ戦場の熱の中にあって、その人の心がひどくありがたかった。 (なにか…私ができることはないのかな。力じゃ何もできないから、もう少し…) 「さあ、帰りはもうすぐにござる。今少し顔を冷やしなされ」 頭巾の奥で明智の目が笑っていたのは束の間だった。 次の瞬間、場に響き渡ったひどく動物的な咆哮に、秀麗な眉が不快げに寄せられる。 「……失礼」 音もなく腰を上げた男の背には、あきらかな冷気が滲んでいるようだった。 * * * 「うぬらは鬼畜生じゃ!」 「仏に仕える者を殺すとは、神をも恐れぬ蛮行ぞ」 「今のうちに驕るがいい」 「我らの怨嗟は一人一人に染み付き、七代先までも消えはすまい…」 「殺したからとていい気になるでないわ、必ずや祟りが、…やめろ! 離せ!」 発する口こそ違えども、内容はどれもさほどの違いはない。 さきほどに向けた笑顔を一片残さず消し去って、数刻前“第六天魔王”の名を戴いた男が歩み寄ると、周囲は生きたまま引き立てられた僧が唱える何百の念仏で満ち、異様な気が充満していた。 明智がひどく冷酷なまなざしを炎の中へ向けると、不意に苛立ったような声がかけられた。 「明智どの」 「…ああ、長可どの。根切りには少し手間取っておるようじゃな」 「ふん、わしはなんともないがな。他の連中は恐れが先に出る。情けないことよ」 「仕方があるまい」 むしろそなたほど働ける者も希であろう。この戦が初陣というのに大したものぞ。 そのように告げると、森勝蔵長可は乱暴にそっぽを向いた。 口元が明らかに嬉しげであったことについては触れずにおく。血の気が多く揉め事を起こすこともままあれど、まったく若者らしい愚直なまでの気負いは、物静かな明智にとってなかなかに好もしいものだった。 見ていると、自分がこの年の頃には妻の相手すらしてやれず伏せってばかりであったことを思い出す。 …今も体の調子はさほど変わらぬような気はするが。 (父君の弔い合戦ということを差し引いても、まことよく動く。サブローは確か…うむ…ふとわぁく? が、軽いとか言うておったな。好いことじゃ) そうと考える間にもまたひとつごろりと落とした禿頭を、長可はろくに見もせず燃える炎の中に蹴り入れた。 自分の部下の鉄砲隊は間者働きのと組んで(女の手前ということもあるが)比較的よく動いたものの、やはり一般兵は僧を殺すことをひどく嫌がった。他に兵ならば山ほどいように、なぜ自分たちがこんなことをと思いもしただろう。 だが、それを推して殺したのだ。 一度やった以上もう後戻りは望めぬ。泣こうが喚こうが、無理矢理にでも進むしかない。 人肉の焼ける悪臭はただそこにいるだけでも胸がむかつく。 「悪逆の徒! 魔王の手先らが!」 耐えきれず涙を流しながら嘔吐するものが後を絶たず、その光景に調子づいたように念仏が高く力を増していく。 「己の罪業と我らの恨みの念を! 骨髄に染み渡らせながら、悔いて死ね!」 片腕のない一人の僧が絶叫した瞬間だった。 すいと横を何かが通り過ぎた。 「……なに?」 誰が止める暇も、否、認識することさえ能わぬほどごく自然な動作で、細身の影は男達の間を身軽にすり抜けた。ひどく乱れて所々焼けた髪を悪臭の炎に炙られながら、男の法衣を力任せに掴み上げると。 は一瞬のためらいも見せずその頬を殴り飛ばした。 あまりに唐突な打撃に男が為す術もなく地面に転がる。 「……殿?」 ようやっとひねり出した呼びかけなど聞いてもいない。 よほど全力で殴ったのだろう。職人の命とも言える手の皮が剥けて血が滲んだ拳を震わせて、ひたと法衣の群を睨みつけながら、は必死に焼けた土を踏み締めて眼前に立ちはだかった。 「魔王の手先と呼んだな」 その声に、いつもの穏やかで余裕げな色はない。 「そ、それがどうした」 「なら、それに相応しいようにしよう」 張り上げるでも叫ぶでもないその声音は、肉を切り裂く刃のように、ひどく鋭く聞くものの耳を打った。 こちらへ向き直ったの目は完全に据わっている。 「明智さま、僅かの間、人を貸して戴きとうございまする」 「…何を?」 「わたくしは料理人で、皆様に食事を振る舞うのが任務。なれど叡山のこの有様では、台所の設備ももう残らず焼けてしまったことでしょう」 「そうじゃが…」 「あれの頭を落として頬に穴を空けますれば、かまどに丁度ようございます」 僧兵どもは一斉に殺気立ち、味方の男どもすら耳を疑った。 「女! 己が何を言うておるかわかっておるのか!」 「ええ」 が親指でぐいと示した先にあったのは、いまや倒れて所々の欠けた、石造りの仏像であった。 (わしとて、確かにあれは早々にばらし、見せしめに資材として使うつもりではあったが…) しかし、これはどうした状況なのだ。まさか斯様な暴挙を自分より先に…しかもさきほどまで震え上がっていたはずのか弱い女人が言い出そうとは。 「……他のどなたでもなく、わたくしが命じるのです」 昏いまなざしが場を睥睨して笑う。 さしも黄金の頭脳と称される明智光秀も、すぐには事態が飲み込めずに呆けたが、次に血の滲んだ唇がその真意を明かしたとき、一気にの発言のすべてが繋がった。 「それゆえ、人を殺し生臭や酒を食らい、女色に耽る…僧とは名ばかりの兵を何人殺すよりも、罰が当たるべき最たるものはこのわたくしということになりましょう」 「殿、そなた…」 この不思議な職人は、己の体を使って、祟りや呪いごときに力はないとみなに示している。 「話していたら段々腹が立ってまいりました。 ええ、ええ、祟るならばやってみればよろしいのです。人間はそのようなものに殺されるほど弱くはありませぬ。まして覚悟も力も足りぬがゆえに今負けたものが、死んだ程度のことで逆転できるなどと、世の中のどこにそのようなうまい話がありますか。何者であろうが、むくろとなればもはやそれまで、何も考えられはいたしませぬ。 まして仏のために死ねば極楽へ行けるだなどと、そんな質の悪い先物取引で、」 かろうじて抑えていたの声が、ひときわ高く跳ね上がり、吼えた。 「そんな根性で侍をわかった風に語るな! くそ坊主ども!!」 (ああ、そうであったか。この女人は、殿は…) 織田家お抱えの職人として畏まっている時の、大人しく澄ました表情をかなぐり捨てて、身も世もなく吼えてまで。 (我らのために憤ってくれたか) 真横を見るといつの間に来たものか、珍しいことに長可がぽかんとして突っ立っていた。 「…長可どの」 「……。」 「口が開いておる」 「なに」 「嘘じゃ」 隣からかなり露骨な舌打ちが聞こえた。 明智十兵衛光秀は思う。 同じような表情であっただろう自分の口元は、頭巾で隠れていてよかった。 |