熱せられた大気と人の血肉の焼ける臭い。ごうごうと一帯を取り囲んだ炎の目も眩むような輝き。悲鳴と怒号。命乞いの声。 織田軍勢の襲撃を受けた比叡山延暦寺はまさに地獄の様相を呈していた。 その混乱に、引き攣れたような女の声が被さった。 「ああ…お坊さんたち! よかった、沢山いた!」 「なんじゃ! このような時に!」 元の顔立ちはそう悪いものではないが、濃い化粧は汗と涙で乱れ、きつく焚きしめられた香は周囲の臭いと相俟って吐き気すら覚えるものになっている。 まるでそれだけが縋るよすがであるように荷物の包みを胸に抱えながら、女は必死に僧兵の腕に縋りついた。 「い、いま、偉いお坊さんだって人が来て! そっちの林が、手薄だから逃げろって!」 「なに…」 「それはまことか、誰だと言うておった!」 「知らない! 忘れちまったよ! お願いだよ、あたしも一緒に連れてっとくれよ!」 甲高い声を上げて必死に媚び、訴える女の腕を、一団は素気なく振り払った。 「うるさい! そんな訴えをする暇があるなら他の者も呼んでこい!」 「そうじゃ、さすれば誰か守ってくれよう。わしらにそんな余裕はないのじゃ!」 「離せっ! 勝手に死ねい!」 「い、いやだァ! 死にたくない! 連れてってよ、お願いだから!」 頬を殴られ突き倒されて、泣きながら腕を伸ばす女に構わず、甲冑を脱いだ男たちの背は林の中へ消えていった。 「……。」 ややあって。 「ごめんね」 女…の呟き声をかき消すほどの、幾つもの銃声と男の悲鳴が奥から響き渡った。 「…でもさ、御仏に仕える僧侶が弱い者の訴えを踏みつけるのはいけないよ」 上げた顔はまだ汗の筋が残り、周囲に立ちこめる黒煙で涙も止まっていないが、先刻とはまるで別人の落ち着き払った目をしていた。 比叡山焼き討ちの戦に際して、が事前に言い渡された使命は二つある。 ひとつ。前日には宴のような勢いを起こしてなるべく大人数に鯨飲させ、当日の判断力を大幅に削ぎ落とすこと。 ふたつ。目的のものを入手した後はなるべく広範囲を駆け回り、前もって明智鉄砲隊の潜伏する場所まで僧兵を誘い込むこと。 示したのは、二人並べば横のものを鬱陶しく思うほどに狭い林道だ。多人数が我先にと通れば当然塊になる。そこへ、道の両端へ陣取った鉄砲隊が斜線を交差させる形で撃てば、相手の勢はほぼ殲滅せし得る。 明智十兵衛光秀の得意とするこの戦法を“殺し間”といった。 (本当に言ったとおりだ…やっぱり明智さんすごいな) 死にたくないと縋りついて醜く泣き喚けば、前日しこたま酒を入れた頭は間者の線を疑うこともせず振り払って逃げるであろうと明智は説いた。 実際その通りになった。 ここまでの何ヶ所かで同じことをやったものの、殆ど疑われた試しはなく、また守ってやると言い出すような気骨のある僧もいはしなかった。…おそらく明智はこの作戦を提唱するにあたってそれすら織り込み済みで、なるべく自分の肩に荷がかからぬようにと計らってくれたのではないか。 力ない女子を守ろうともせぬような男なら、それほどは心も痛まぬであろうと。 (まあ、深く考えるのは終わった後でいい!) 地面に放り出してあった包みを再度胸に抱え、林に潜んだ鉄砲隊からの移動の合図を確認する。 殺し間は強力だがあくまでも両翼からの奇襲であり、たとえ死体を隠したとしても土が広範囲に渡って赤く染まる。一度実行すればもうそこでは使えぬ策だ。 踵を返して次へ向かおうとするの髪を、誰かがひどく強い力で掴んだ。 「痛っ!」 「女…」 恐らく元は僧兵であったのかも知れぬ男は、武具もなければ法衣も乱れに乱れている。は懸命にもがいたが、振り払うどころか、身をよじる度にぶちぶちと男の手の中で髪が数本引きちぎられた。 「ちょっ! やめて、離してよ、痛い!」 「無理だ…」 「何を「もうおしまいだ…織田軍に殺される、最期に一人でも多く女犯ってやるんだ…!」 喚き散らしながらこちらへ向いた顔は一目で正気を失っていると知れた。 武器を持たない以上、肌蹴た法衣のそこここに飛び散った返り血は織田兵のものではあるまい。おそらく言うとおり、来るまでの道で何人も女犯を侵し…それだけでなく、殺してきたのではないか。 恐怖で固まった体を力ずくで血泥に押し倒され、は蛇に睨まれた蛙のように竦んだ。 (まずい…こんな、どうする…どう…しよう…) この時代へ飛んで数年。とて織田家に拾われるまでの間に人を殺したことがないではなく、落ち武者狩りで食い物を奪ったことはある。しかしそのどれも、部隊から落ち延び遠からず死が待つばかりの者を獲物としていたが故に、あまりにも経験が足りず、最も肝心なことを知識としてしか知らなかった。 戦場は人が狂う場所であると。 (だから明智さんは自分の隊をつけてくれたんだ!) そこまでしてもらってなお油断をした。明智隊と決して離れるべきではなかったのだ。 ほんの僅かな隙に、話の通じる余地のない狂った兵とかち合おうとは。 「い、いやだ! いや…うあ゙ッ!」 殴打されて腫れた頬をもう一度殴られ、着物を引き裂かれ、痛みと恐怖と屈辱の中で今にも乾いた女陰に進入されようという時に。 「……えっ」 閉じてやるものかと見開き睨みつけた目に、泥と汗で汚れた頬に、いやに赤く、生温かいものが滴り落ちる感触がする。 自分の体に乗りかかった男の体がぐらりと傾ぎ、吐き出す血が視界を赤く染めた。 その胸からは刃こぼれのした槍が突き出している。 「だ、だれ…」 藻掻きながらなおも手を伸ばす男を反射的に蹴りつける。前をかき合わせながら誰何すると、どうと横様に倒れた男の背後には、まだそばかすの残る頬をした、ひどく若い…幼いとすら呼べそうな年頃の僧侶が立っていた。 息を荒らげ、双眼から止めどなく涙を零し、頻りにひいひいとしゃくりを上げて、しかし若い僧はを励ますように無理に笑って手を差し出した。 「た、助けが、遅くなって、すまなんだ」 人を殺めたことなどなかったのか、握った手はひどく震えていた。 「いいえ、そんな…で、でも、……なぜ…?」 「女人が襲われておったから」 ようよう引き抜いた血まみれの槍に縋って、僧は震える足を踏みしめ直した。 「叡山は…悔しいが、こんなところぞ。だが、わしまで、己かわいさにおなごを見捨てるなぞ、ようできん」 「……。」 「あんたは早よう逃げろ。わしは…拙僧は、ひとりでも多く、おなごや子供を助けるんじゃ!」 「あ、待って!」 思わず差し出したの手をすり抜けるように、まだ力が入らないであろう足を動かして、若い僧は炎の中へ駆け出していった。 「…行っちゃった」 つい先刻暴力的な腕に捕まり、殴られたよりもよほど強く、彼の言葉はを打ちのめした。 (なにを…私はのうのうと、落ち武者狩りの感覚で) 関係のない誰かが起こした戦のおこぼれを拾うような調子で、荷担するなどとよくも言えたものだ。 人の住む場所へ攻め入るとは、兵だけにとどまらず、あのような善良で勇敢な民を共に踏みにじることに他ならぬというのに。 比叡山はどうせ焼けると他人事のような顔をして。 (わたしも、行かなきゃ…明智隊と、長可くんが、待ってる) 頭のひどく冷静な、生存本能と連結した部分がそう告げる。 倒れたままの死体から刀をはぎ取り、鉄砲隊の後を追うべく業火の中を透かし見た時。 「殿」 けして静謐とは言いがたい戦場のなかで、だが張り上げずとも不思議にすうと通る声がを呼んだ。 「明智さま…」 病がちだと言い、どれほど暑くとも人前では取らぬ頭巾の奥で。 玲瓏な月のような二つの瞳がじっとこちらを伺っている。 「あい済まぬ。姿が見えぬと鉄砲隊から知らせを受けて、すぐに探したが…」 するりと馬上から降り、の背に自分の陣羽織を掛けてやりながら、微かに眉を下げた。 「これは、女人の顔をなんと惨い…。すぐに水と布を用意させるゆえ、今よりは陣で休み、一時も隊から離れぬようになされ」 「そう…ですね、そのようにいたしまする」 心に巣食った引け目ゆえであろうか。 明智十兵衛光秀の視線は、あの若き僧の走り出ていった先へちらりと向いたように、には思えた。 |