わたくしは猫である。名前はミケコさんだ。
…と、猫である以上自己紹介はこのようにするべきだと聞いている。訳はわからないながら響きが気に入ったので、こうして初めての自己紹介と相成った。
さて。あれだけではわかるまい、補足しよう。私はこの学園のというメスと共生関係を結んでいる身だ。自己紹介の作法もそこから聞いた。
以前雨を逃れて食堂の縁の下に逃げ込んだところを、面白いのかなんなのか知らないがいつでもきゃあきゃあと機嫌のいい小憎どもが覗き込んできて、ずぶ濡れだのこれじゃかわいそうだの余計なお世話を焼いてくれたことがある(我々は人間と違って、寒ければ誰にも咎められず暖かいところへ行けるのだ)(寒さをこらえてしたくもない仕事をするほうがよほどかわいそうであろう)。
その時一緒にこちらを覗き込んでいたのが、件のメスだった。
「三毛さん。そこの三毛さん。出てきて。よかったらゴハンをごちそうさせてよ」
なにが悲しいのか異種族の私にまでさん付けをする、それは変わった奴だった。人間は大概違う種族を自分達より下と見なして、乱暴な扱いをするか面倒くさい善意の押しつけをするかの両極端だというのに。
(…とまあ今でこそそんなところを振り返れる私であるが、恥を忍んで白状しよう。実を言うとこの時は空腹のあまり、細っこい手のなかにあったものが食えるのかそうでないかに気を取られていてあまり頭が回っていなかった)
「おばちゃんの料理だからね、ねこめしもおいしいよー。こっちおいでー」
だってご飯を炊くのも鰹節を買い付けてくるのもおばちゃん自身だからね。と、言ったその言葉にかぶせるように、ふくふくと太ったダルマのような小僧が口を挟んだ。
「うん、たまに食べるとおいしいよねーかつぶしごはん。ねえねえさん、ぼくにもちょっとだけ「ダメ」
「さん、しんべヱの扱いに慣れてきたよなあ」
「ね。初めは押されてあげちゃってたのにね」
「最近また太ってきたからねだられてもあげちゃだめ、ってこないだ山田先生に叱られたばっかりなのよ。だからダメ」
それに、このちょっとに騙されてお握りを三分の一ぐらい取られるのももう懲りたからね。周りには聞こえなかったようだが、メスの呟いたその内容を私は鋭敏に聞きとっていた。
なんということだろう。
話の内容をつなぎ合わせるに、どうやらこのメスは言われれば言われるまま人に獲物を分け与えてしまう性質であるようだ。その上決まったオスもいないという。…なんと哀れなことであろうか。
そんなことではいつか悪いオスに引っ掛かって自分の分の獲物まで貢がされてしまう…と、お互い言葉が理解できるなら説教のひとつもくれてやりたかったのだが、残念なことに人間は私達の言葉がわからない。忠告は心中に留めておいた。
ちょうどいい住処であったため少しばかりそこにいたが、メスは言われもしないのに私の食事を持ってきたり毛並みを梳いたり名前をつけたり(三毛猫がほとんどメスだけという事実を知ってか知らずか、三毛子さんというなんとも安直な呼び名であった)、ここでの印象を良くしようとあれこれ取り計らってみたり、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
その姿を見るにつけ、ああ、やはりこれはたちの悪いオスに引っ掛かるタイプだとつくづく呆れたものであった。そして同時に思った。これは私が何らかの手を講じてやらなくては、このメスは誰かに食い物にされて死んでしまいかねない。
普段ならば勝手にしろと一蹴するところだが、向こうのおせっかいとはいえ一応世話になってしまった身(猫族は人間が思うよりずっと義理堅いのだ)。
私は恩返しと、悪いことは言わないから自分だけのために獲物を取った方がいいという忠告の意味をふんだんに込めて、メスがある日こぼした一言を実行してやることにしたのである。
「ねえミケコさん、この学園の中にいるゴキブリとかネズミとか取ってきて貰うわけにはいかないかな」
どんとこい。
おおかたもっと栄養価の高いものを食べたいが、自分ではどんくさくて獲れないから私につかまえてくれと言っているのだろう。百年に一匹の狩り名人と言われるこの私に頼むとは、バカだバカだと思っていたが案外見る目があるではないか。
つまりはそういうわけだ。私は雨風を凌ぎたいときにここに来る。そうするとメスが獲物を持ってくる。そして私はその対価として、(大概表か事務室という部屋にいるので)この学園内に山ほど棲むネズミやゴキブリを半殺しにして持って行ってやるのだ。
あまりに大きいネズミが捕れたときは、ほかの小僧共に見つからないうちに食べてしまえるよう、わざわざ一口大に切り分けてやったりもした。普段の私からすればとんでもないサービスだ。
人気のないところでうとうとしていたので、目の前に落としてやった。
目を開けると同時に大声を上げた。
いい反応だ。そんなにまで喜ぶと私もやり甲斐がある。
いつしか私は、件のメス…いや、この際だ。と呼ぼう。を自分の子猫のように思っていたのである。
だから今は少し不満だ。
「最近ミケコさんが来ない…知りませんか影麿さん」
「この間あなたの前にネズミの死骸を落としていったとかいう、あの三毛猫ですか?」
「そうそう、彼女です。さすがにあれは驚いたなあ」
「…あの猫は、最近私を見ると毛を逆立てて威嚇してくるのですが」
「何やっちゃったんですか。三毛は気が強くて執念深いから、恨まれると厄介ですよ」
「なにもしていませんよ…」
私は声高に言ってやりたい。
お前がなにもしないからいけないのだと。
が選ぶならそれはそれで構わない。しかしなぜ寄りによってあんなのに惚れてしまったのか。あれはだめだ。どうにもだめだ。私の獲物を見るたび泣いて逃げ出すような情けないオスの、いったいどこがいいというのだ。。
目を覚ましてよく見てみろ。
あんな弱そうなやつ、外敵からと縄張りを…ゆくゆくは子を…守ることもできまい。それに身体は骨が浮くほど痩せこけて、見るからに貧弱だ。毛艶も悪い。きっと縄張り競争も弱いに違いない。
嘆かわしいことにゴキブリも捕れないのだぞ。最近はどんくさいお前ですら、私の指導で結構捕れるようになったのに。
バカでニブくてオスを見る目もないが、悪い奴ではない。それにこの一年あまり自分の子猫と等しく可愛がってきたのだから、不幸になってしまう前に私がどうにかしなければ。
…などと思っていたのに、これはどうしたことだ。
いつものようにに獲物を届けてやって、気持ちはわからないでもないがあのオスはどうかと思う、と(通じないのは承知で)いつものように少し説教もした。もやはりいつものように、へらへらと苦笑いをしながら獲物に止めをさして、後で食べるつもりらしく厳重に紙にくるみ込んだ。
そこまでは本当に馴染みの光景だったが、今日に限っては違った。
場に飛び込んできたなにかがを羽交い締めにし、首に鈍く光る牙のようなものを突き付けたのである。
よりも黒い布に身を包んでいて、頭を覆ったおかしな布から覗く毛も目も真っ黒だ。
「痛…なによ、この!」
「静かにしろ」
。。暴れてはだめだ。この黒いのは強い。腕力で来られたら私たちに勝ち目はない。
周りが騒がしいのに気付いて見回すと、布の色が妙にばらばらな小僧たちが集まってきていた。緑の布を纏った小僧たちが他を庇うように進み出て、宥めるように低い声で話し出す。
「その傷で逃げ出せるとは思わなかったぞ。なかなかやるではないか、ヒカゲシビレタケの残党」
「無駄口は叩くな」
「ふむ。…今更人質など、何が望みだ?」
「薬だ。切り傷の薬と、俺に盛った毒の解毒薬をよこせ。そうしたらこの女は離してやる」
「毒なんか盛ってませんよ」
「嘘を付け」
「ウソじゃありませんってば」
「ふざけるな。そうでないなら俺の症状はなんだ」
「ああ、それなら毒じゃなくてただの薬です。あなたの言うその切り傷に塗ったんですよ。…まあ、多少頭の働きは鈍くなりますけど…」
ふわふわした茶色の毛の小僧が言葉を切るか切らないかのその瞬間。黒いオスの背後で、棒状のなにかが空を裂いた。
それはあやまたずを捉えた逞しい肩に突き刺さり、小僧たちよりも遥かに屈強なはずの黒いオスはたまらずを放り出して、言葉にならない声をあげてのたうち回った(それは棒手裏剣と呼ばれる武器で、更には刺されたところに焼けるような痛みを与える細工がなされた改良型だと後で聞いた)。
「怪我はありませんか、さん!」
「平気、ちょっとビビっただけ!」
は黒いオスが地面に転がった間にうまく体勢を立て直し、距離を取りながら茶色の小僧の方へ声を投げ返した(余談であるが、逃げるついでに思い切り黒いオスの顔面を踏んだ)。
きつい目の小僧とつやつやした綺麗な毛並みの小僧が黒いオスに駆け寄り、手早く縛り上げた。
そして、私の目は捉えたのだ。
黒いオスの背後…ちょうど濃く藪が生い茂り見通しの悪い中、じっと潜んだ人影を。
攻撃を仕掛けたあと音も立てずに位置を変え、片手にあの棒のような武器を構えたまま、身動ぎもせず今なお獲物の動きを見据えている。またなにかおかしな真似をするようなら今度こそ息の根を止めてやると言わんばかりの、鋭く暗い眼光で。
弱そうで痩せこけた、あのオスだった。
* * *
「おや…どうしました、あなたも日陰ぼっこですか」
否定の意味を込めて声をかけたというのに、なにをどう取ったのか「そうですか…」などと明後日の方向に視線を反らしながら呟いた。一緒にしないでほしい。夏場ならともかくこんな寒い時期に、誰がわざわざ体温を下げたいと思うものか。私は詫びを言いに来たのだ。
人間の耳ではにゃーにゃーとしか聞こえないようだが、やむを得ないので踵のあたりを前足でてしてし叩きながら勝手に話す。
この前までは済まなかった。
お前はたまたま小さい獲物が捕れないだけで、あんなに強いオスを一撃で仕留めるだけの実力があったのだな。知らなかった。私はお前を見直した。もちろんも。さすが私の子だ、見る目がある。
しかし欲を言えば、ああいう大きな獲物はそう捕れるものじゃない。大物狙いもいいが小さなものをこつこつ捕ることも覚えなければ、結局や子を飢えさせてしまうぞ。
だから、これからはお前にも捕り方を伝授してやろうと思う。
大丈夫だ。そんな辛気臭い顔をするな。あんなに頼りなかったでさえ素早いゴキブリを取れるようになったのだから、あれだけの技量を持つお前にできない道理があるものか。
手始めに明日から虫もネズミもそのほかの動くものも、山ほど捕まえて持っていってやる。怖いかもしれないがまずは止めを刺せるようになれ。私はいくらでも付き合ってやるから、そこから始めよう。
がんばっていろんなものを捕れるようになって、に惚れ直してもらうんだ。カゲ。
* * *
建物の上で昇りゆく朝日を浴びながら大欠伸をする。
あんなに捕ったのは久しぶりだ。
しかも春が近づいてきているとはいえ、まだまだ寒いこの時期に。少し年は食ったが、私の狩りの腕もまだ捨てたものではないようだ。
ネズミにゴキブリにでかいミミズを何匹か。たくさんの夜行性の虫。それに驚くなかれ、この時期には冬眠中のヘビまで捕れたのだ。それらをすべて動けないよう半殺しにして、部屋で寝ているカゲの枕元に置いてきた。起きたらさぞ驚くだろう。と一緒に食べるといい。
ほどなくして聞こえてきた絹を裂くような声に、ああ見付けたらしい、喜んでいるなと思いながらゆっくりと顔を洗いはじめた。
私はいたく満足した。
いいことをした後は実に気分がさわやかだ。