苦笑いの形に歪められた口で礼を言われた。
ありがとう、助かりましたと。
それにふと引っかかるものを感じて、あくまで彼女からは見えないよう僅かにかぶりを振った。いったいなにを考えているのだ。
(…嬉しかった、と言ってもらえば満足したのでしょうかね)
馬鹿か。自分は。
「別に、ね。大木先生に他意がないことぐらい分かってますから、そう真剣に嫌でもないんですけど…さすがにあれは参りました。まったく人の髪をこうぼさぼさに乱して何がおもしろいんだか…」
倉庫へ向かうまでの道すがらに引っかき回された髪を大まかに手櫛で整えて、はそう零した。
分からないでもない。生徒たちにするような親愛表現ではあろうけれど、その程度のことは一目瞭然であるが、
「…未婚の女性にする行為でも、ないでしょうね…」
「まあ一概にこうとも決めませんけど、相手が私でまだまし…いや、相手見て絡んだのか…タチの悪い酔っ払いですよ本当。斜堂先生とそう年も変わらないっていうのに、まったくあの落ち着きのない大人は」
言葉こそ怒った風だが、口調は困り者の一年生を見守るそれにも似て…そうした話し方を聞いていると、斜堂は改めて彼女が忍びの道と本当に縁遠い人間なのだと思う。いかにこの学園に慣れたとは言えど、さほどの付き合いもない部外者を(いくら元教師とは聞いていても)これほど頭から好意的な解釈をしようとは。
けれど、思うほど単純でもない。妙に危うく見えつつも、だからと侮ってかかればおかしなところで痛烈な反撃や皮肉を受ける。それこそ大木雅之助が、鼻骨を折ってやると言わんばかりの頭突きを見舞われたのも頷けるというものだ。
柔軟と言おうか奔放と言おうか、若しくは変幻自在と言うのだろうか。天衣無縫と呼ぶべきか。
(まったくもって、掴みにくい人ですよ)
それでいながら普段は普段で、自分はたいしたものじゃありませんよとへらりと笑ってみせる。未来人とは皆そのように摩訶不思議な、剛か柔か不明瞭な空気を纏っているのかとつい聞きたくなる調子で。
要は、割合にくせものなのだ。
それこそ自分でさえも、うっかり気を抜けば惑わされてしまいそうな…
(! …な、ば、馬鹿馬鹿しい)
やはり最近の自分はどこかおかしい。
斜堂はとり付かれかけた考えを振り払うように、ほんの少し歩調を早めた。
「どうかしました?」
「……いえ…寒いですね、急ぎましょうか」
* * *
という女は、どこをどう贔屓目に見ても腕力はないに等しい。
そのことは重々承知であるからには炭を取りに行く方を任せ、倉庫の奥から一気に火鉢を引っ張り出して、斜堂は一つ息をついた。
…存外重い。これでは彼女に任せるわけにもいくまい。おかしな具合に力を掛けたあげく自分の足にでも落として、保健委員の仕事が増えるだけのような気さえして…さらに言うなら「あの」保健委員達のことであるから、またいらない不運を呼び寄せて自分たちまで怪我を被る落ちまで予測がついてしまう。
「斜堂先生、炭取ってきましたよ」
「こっちも出せました。…相当使っていなかったようですが」
言いながら、冷え切った指を擦り合わせた。
「寒いですね。私が住んでいた時代も結構寒いと思ってましたけど、こっちほどは…やっぱり影響あったのかな、地球温暖化」
「なんです、それ」
「あー。えーと…大雑把に言えばこの国でもよその国でも気温が上がって、生態系がおかしくなったり、寒い国の氷が溶けていろいろ大変なことになったりする現象、だったかな…」
「本当に大雑把ですね」
「い、いやいやこれを詳しく話そうと思ったらまずこの世界の成り立ちから説明しなくちゃいけないんで…。まあそれはともかく、そういうわけで私の住んでたところはわりと暖かかったみたいなんです。まあ体温高いから、結構寒いの平気ですけどね」
夏にはもれなく地獄を見るんですけど、と苦笑いで告げて、斜堂の方へ向き直る。
「体温が高いというのは想像できませんね…私は、低いですから」
「斜堂先生が体温高かったらそれこそ驚きですよ…
…どれ」
「!」
全く不意に、出し抜けに。
の手がするりと伸ばされて、自分の血色の悪い手を強く握った。
斜堂は元来触れられることも嫌う性質であるから、本当ならば咄嗟に振り払うくらいのことはするところだ。しかし引きかけた手から力を抜いてまったくの無抵抗でされるままになっていたのは、
彼女の手から伝わる、あまりに快い熱のせいだった。
「あら本当だ…いつもこうじゃ辛いでしょうに」
少し考える様子を見せたと思うと、手首へ親指の腹を強めに押し当てる。何を意図しているか瞬時に理解して、斜堂は思わず目を半眼に細めて念を押した。
「……生きてますよ。失礼な」
「あ。…あー…ですよね。ええ。すみません」
そんな風に言いながら、今度はさりげなく彼女の視線は足元に落ちる。
「…足も、ありますからね」
重ね重ね失礼である。
そんな問答をしながら、けれど自分の熱を分け与えるように柔らかく手を握られたまま姿勢を崩すことができないとは、一体どういうことなのだ。
自問するが、答えは一つしか出ない。
(そんな…馬鹿な。こんな、つかめないひとに…)
今もそうだ。動作はさほど俊敏でもないのに、次にどう出るのか予測がつきにくい。人の隙を突くのがひどく巧みで…それが厄介だ。仮初にも忍びである自分の隙をつくなどと(しかもそれを悟らせずに、だ)、このど素人に出来るようなことではないというのに。
こんなおかしな女に惚れてなどいるものか。
たとえ、離すことを惜しむほどその手が心地好くとも。
「さんは、本当に暖かいですね」
「仮病を使う時なんかわりと便利ですよ。あと冬場はよく冷え症の女の子に抱き付かれました、私も寒いっていうのに。
なんなら斜堂先生も、このまま抱きしめてあっためて差し上げましょうか?」
(…!)
冗談だ。
わかっている。わかってはいるのだ。彼女は眼前でけらけら笑っているのだから、なにも本気で言っていようはずもない。
「遠慮しておきます。そんな真似をされては、私など溶けてしまいますよ…」
「ははは、雪女じゃあるまいし。ああでも私、先生が雪女の仲間って言われたら信じるかもしれません」
「…おや…そういえば、昔話ならここで私が妖怪に変身するシーンですね…?」
「よ、よしてくださいよそんなこと言うの…こっちが言い出しといてなんですけど、斜堂先生はこういうときのご自分の迫力をもうちょっと自覚なさるべきですって絶対…」
言いながらするりと手が離れる。
「あ」
思わず知らず零れた声に、今度こそ斜堂は己の口と耳を疑った。
「先に炭持っていきますね。それから改めてその火鉢の埃を拭き取るもの、持ってきますよ」
言葉だけを残してが出て行った後。今度こそ本格的に体中から力が抜けた斜堂は、耐えられなくなってその場に崩れ落ちた。
再び擦り合わせた手にはまだあの体温が残っている。それこそ本当に手から腕、肩、身体全体から脳に至るまで溶かしつくしてしまおうというようでもあり、もうお前は自覚せざるを得ないのだと宣告されたようですらあった。
「…あんなひと、と思うようなら…もう、遅いのでしょうか」
認めてしまうしかないのでしょうか。
呟いた言葉は自分以外誰の耳にも届かず、凝ったように深い闇に溶け、消えた。
* * *
長い廊下を歩ききって角を曲がって、もう声は届かないだろうと確信して、更には辺りを入念に見回して。
は炭の入った籠をその場に下ろすと、静かに力一杯ガッツポーズを決めた。
(やった…嫌がられたらどうしようかと思った! 賭けに出た甲斐あった!)
いくらこちらが惚れていようとも相手は「あの」斜堂であるから、今の今まで必要以上に近寄ったりしないよう注意をしていた。それがまさか、あんなふうに触れても嫌な顔をしないでいようとは。神経質で潔癖症のあの男が、だ。
あまりのことに叫び出したくなる。顔が笑うのを抑えきれない。
その上に。
「あんな冗談言ってくれるなんて…」
溶けてしまいそう、だなどと。
なんという嬉しいことを言ってくれるのか。
「…少しは慣れてくれたのかな」
炭の籠を抱えあげながら、我知らず零れる笑みも抑え切らないまま。はゆっくりと宴会場へ足を向けた。