実技担当の先生方が揃って学園を留守にする事態となった、ある晩のこと。
   
どこから洩れたかは知らないが、そんな夜であれば暗殺者が忍び込むのも道理といえるものだろう。仮に私が同じ立場で殺して来いと言われたとしても、フルメンバーが揃った常の忍術学園よりは今を選びたい…しかしそれを聞いた学園長は、その考えはこちらの術に嵌まっているだけだと豪放に笑う。
言い出したら聞かぬ我儘放題の困った老人だと思えば、こんなときに百戦錬磨の忍の表情を見せるのだ。
まったくもって厄介な。
「つくづく、お主はくのいちにはなれんの」
「生憎、なろうともなれるとも思った試しはありませんよ。
 私は事務員、その上戦も知らない素人女です。あくまで表には立たず、できることをできる範囲で最大限にこなすのがつとめ…間違っていますか?」
問い掛ければ、それでよい、己れの力量を知るは大事なことだとまた笑い…その影が写り込んだ障子の向こうを透かすように見遣った。そちら側は今なお六年生達が警備に当たっているはずなのに、静まり返った静謐な空気は思わずぞっとするほどに冷たく澄んで、誰の気配も感じ取らせない。流石はプロに近いと言われる最上級生だとおかしなところで実感する。
そしてまた薄々と解ってきた。然程の敵ではないと云いながらも、しかし仮初めにも命を狙われる身である学園長が素人を呼びつけて、悠々と茶飲み話に興じる意味を。
何か伝えたいことがあるのだ。
他でもないわたしに。
「だがな、出しゃばるまいとするあまりに己れを見縊り、己れ自身の意識に絡め取られるのはよくある落とし穴よ」
「自分では、決して過小評価は下していないつもりですが」
「は、自惚れおって。「自分は周りが思うような者ではない」でなく「自分は自分が思うような者ではない」と考えてみるがいい。自分が自分で思う以上の能天気気質だということをさっぱり分かっておらん」
「…能、…」
「自分のことだけでなく、お主は周りのことも見えてはおらんよ」
「周り、ですか」
「忍びといえど万能ではない。お主にとっては自分が支えることなど思いも寄らぬ…それこそ鬼神のように思えて忘れそうになるやも知れんが、あれらも人間じゃからの。特に三十にも届かぬ若年ならば尚のこと」
「お若いと、どうなるんでしょう」
「境界が判然としなくなる。
 ほれ、いつだったか言っておったろう…「仕事もぉど」とかいうやつ、あれと素の己が曖昧になるのよ」
その言葉には、ああなるほどと得心がいった。向こうの時代で生活していた頃の私ならば、例えば帰宅して少し高めのヒールをルームシューズに履き替えるときであったり、仕事着を着替えるときであったり、隙なく施した化粧を落とすときであったり。
素の自分と仕事着の自分。
どちらも同じ人間でありながら意識としては決定的に違うものを切り替えるためのスイッチは、紛れなく私の中にもある。けれど教師であると同時に忍者でもあるあの人達だ。はたしてそう明瞭なスイッチがあるだろうか。
こちらがそれと気付かぬうちに、さらりと切り替えて笑っていそうだ。
そんな疑問を感じた瞬間投げ掛けられた言葉と意地の悪い笑みは、私の心拍数を倍ほどにも跳ね上げた。
   
「ことに影麿は精神面が弱いからの」
「!」
   
湯呑みを落としそうになった。
「が、学園長…! 困りますよ出し抜けに…お願いですから勘弁してくださいそういう心臓に悪いことは!」
「なんじゃ、隠しておったつもりか。気付いておらんわけがなかろうが、この戯け者」
「ええ隠してたつもりでした…つもりでしたが自分の未熟さを痛感しただけの結果に終わりました。今更ながら私は大バカです」
「たまに思うがお主、ここが忍者の学校なの忘れとらんか?」
「そうですね、少し忘れかけていた気がしま、…まさか当人にも筒抜けですか!」
「その辺は微妙じゃな。あ奴、基本的に人に興味がないからの」
「今一度確認しますけど、あの人忍者なんですよね」
「……ワシでもたまに言い切れなくなるな。
 で、まあ話を戻すがな。自分を見縊りすぎておるということよ。何をそうびくついているか知らんが、欲しがることをそう怖がるな。お主は少し勇み足をするくらいで丁度いいわい」
そう言われても!
第一少しでも踏み込みすぎたら二度と近付いてきてくれなさそうなイメージがあるし、普段から無表情で何考えてるかまるきり掴めないし、そんな訳だから何をどうすれば好いてくれるのか皆目見当がつかないし、正直言って頼られているのを実感できたことなんてゴキブリを空中で叩き落とした時ぐらいのものだ(余談だが「いい動きでしたね…」とぼそぼそ褒められた)(ちょっと嬉しかった)。
「あほ」
「…あのう、先ほどから戯けだ阿呆だ暴言が過ぎやしませんか。しかも一番頭弱そうな平仮名で…」
「暴言に値するから言うとる。良いか、どこぞかの書物にこんな諺があった。恋はいつでもハリケーン!」
「うわあああそれは持ってきちゃいけないネタです学園長!」
「やかましい! 段々腹が立ってきたわい、大体三十路にも届かん小娘の分際で考えすぎておたおたするなど十年早い! 女なら勢いとガッツで勝負してこんか!」
言うが早いが手に提灯と火種を押し付けられ、強引に庵から叩き出された。(ちょ、ちょっと外にはまだ暗殺者がいるんじゃないんですか学園長! ひどい! そして寒い!)
   
「なんだ、どうした騒がしい」
「あっ仙蔵君! いやそんなどうって言うほどのことじゃないんだけど、そう、そっちこそどうしたの? 確かい組は正門の方の警護じゃなかった?」
「何を慌ててるんだ気味の悪い…私は文次郎から伝言を預かってきたんだ。おい待て、戻るな。出てきたなら丁度いい」
「え、伝言って私宛て?」
「そうだ。先生方が暗殺者を片付けたようだが、湯の用意は出来ているかと」
「うん。それならもう最初にやってあるわよ」
「…それから、湯を使うのは井戸であらかた返り血を落とした後らしいから手拭いと着替えを持っていって欲しいそうだ」
「ん? 各自で持ってるんじゃ「いいから早くしろ」
………。
この仙蔵君、偽物なんじゃないだろうか。そっくりだけど。
私をここから遠ざけようとするあたり、私が武芸の嗜みもなければくのいちでもないということを知らない部外者のようにも思「言っておくが私は本物だ」
「心読まれた?」
「疑いが顔に出すぎだ。一年坊主でも読める。そこに思い至ったあたりはまあ褒めてやらんでもないが…私はお前がいようがいまいが、全く役に立たないことくらい知っているからな」
良かった。内容もさることながら、仮にも年上に向かってこの腹の立つ言い草はまぎれもなく本物だ。
それにしてもこっちの方がずっと年上なのに、一部の六年生ときたら敬語は使わないわ、こうも気易くお前お前と呼びつけるわ。なんなんだいったい。理不尽な。
「それはもちろん、お前の顔を見るとほっとするからだ」
「…あのさ。優しく微笑んで言われても気持ち悪いけど、そんな邪悪な笑顔で言われたって背筋が凍るわけで。私一体なんの因果でそんな怖い顔されなきゃいけないの。その上会話とさっぱり関連性が感じられない理由なのはなんでなの」
もしも今戯れに仙蔵君が『私の好物は処女の肝臓のステーキだ』とでも言おうものなら、うっかり信じてしまいそうで恐ろしい。
「しかたがなかろう、事実だ。付け加えるなら年上という感じがしない。
 …とはいえ間違うな、可愛いだ和むだ癒されるだと素っ頓狂な理由ではなく、強制的に力を抜かされてしまうものがあるだけの話だな」
「間違わないってば失礼な。私だって自分が癒しとか和みとかその手のもんだとは思ってないし、むしろ言われたらあまりの気色悪さに全身に鳥肌が立つ勢いよ」
「自分を弁えるのはいいことだ。だが、今一つ弁え切れていない」
「それ、さっき学園長にも言われた」
「ふむ、ならば私があまりやかましく言うことでもないな…よくよく考えることだ。だが、一つだけいいことを教えておいてやろう。
 先生は、自分で考える以上にお前を気に入っているぞ」
   
どの、なんぞと今更聞くのは馬鹿というものだろう。なんだか自分が情けなくなってきた。
「…筒抜けか…」
「あれでわからんと思うのなら、筒ではなくて間が抜けている」
「ちょ、誰がうまいことを言えと。
 それにしてもそんなこと教えてくれるなんて、いつもと違って優しいじゃないの。どういう風の吹き回し?」
「直接の担任だったことはないが、六年ずっと作法委員をやっている身だ。私もそれなりに幸せを祈ってはいる」
「ああ、要は私じゃなくて」
「向こうの、な。…しかし理由はたいがいそうだろう。お前はまだましだ。向こうは生来人間が好きでないせいもあって、この期を逃したら嫁の来手がなさそうだと噂されているくらいでな」
「ひっどいねそれも」
「なら、もてそうにでも見えるのか? 私の見たところお前はどれほど相手にべた惚れでも、目にそこまでひどいフィルターをかけるタイプとは思えないが」
「………反論の余地がなくて悲しいなあ」
当人がいないからといって二人して言いたい放題である。
   
「じゃあ、行ってくる。警護と伝言役はこれでお開き?」
「そんなようなものだ。あとは上級生でざっと見回りをして、終いだな」
「そう。じゃ、お疲れ」
「ああ」
   
* * *
   
「もう聞こえんから言っておくが、斜堂先生はおそらくそっちから押さないことには落ちんぞ。
 見たとおりけっこう面倒な人だからな。いつかふと元の場所へ帰ってしまう可能性もあるお前に対して、それでもなお想いを通そうという気があるかどうか。…つまりはお前の心次第なんだ。
 どれだけの気概を持っているか、見せてもらうとしよう」