実技担当教師が揃って学園を空けていた夜に、その不運な暗殺者達は現れた。 教科担当というのだから、大方実戦には不向きな半端者であろうと彼等が思っていたことは想像に難くなく…そしてその驕りは苦無に全身を深々と穿たれ、俊敏な蛇のごとき縄に首を締め上げられ、肩口から脇腹にかけて鮮やかな袈裟懸けに切り裂かれた自身の命で購うこととなった。 土井半助は静かに息をついて、足元の二つの躯を見下ろした。 胸から膝元にかけて返り血で濡れた己の衣服もどうにかする必要があるが、一先ずはこれだ。 時刻は九つを回ったほどで、下級生が出歩くこともなかろうし…そしてまた見てしまったとしても、忍術学園の特性上仕方のないことではあるだろう。今は無邪気なたまごに過ぎない一年生たちとて、いつかは人を殺す術を体得し、実践することになる。 それを無用なほどに避けるのは手前勝手な感傷に過ぎないといくら頭で理解していても、ふと何らかの拍子に教え子たちの顔を思い返すたび、彼等が一年のうちくらいはと思わざるを得ないのだ。 昼間体育委員たちが掘ったのだろう。手近にあった塹壕に死骸を放り込み、目立たぬように土を掛けた。わざわざ掘り返すような間抜けもいるまい。 (さて、…向こうはどうなったか) 数の上ではもういなかったはずだが、安藤や松千代に任せて来た方はどうだろう。この程度の手合いならば万一もなかろうが見に行くべきか。踵を返そうとして、ふと足が止まった。 凝ったような冷たい闇の中に、青白い顔が浮かび上がる。 周囲に人魂を従え…もとい、手燭を持って滑るような足取りで進み出てきた人影は、一年ろ組の教科担任斜堂影麿であった。先ほど確かに一人を捕えていたというのにそれらしい痕跡も見せず、ただその身に色濃く纏いつく血の匂いだけが彼の為したことを物語っていた。 「聞き出せましたか」 「ええ…狙いは学園長の暗殺、人数は矢張り六人。そのうち三人は安藤先生と松千代先生が始末なさっています…ですから私の方と合わせて、それで最後ですね」 詳しいことは学園で。 そう呟くと、斜堂は興味をなくしたのかふいと死骸から目線を反らし背を向けた。 今の彼にとってすれば、そんなものより湯を使いたくて仕方がないのだろう。残忍なまでの手管を用いて相手から情報を引き出す卓越した尋問、拷問術の使い手でありながら、この男は同時に並外れた潔癖症でも通っている。恐らく血に塗れた自分の傍にいることすら厭わしいに違いない。 空は雲に覆われ、星影もない。さくさくと草を踏みながら、夜道を照らすにはあまりに心許ない小さな手燭の火を目で追った。 (そういえばあの人は、こうなった時の斜堂先生を知っているのか…) * * * 学園へ帰り着くと、あまり使われることのない古びた井戸の側で安藤と松千代が待っていた。 自分ほどでこそないが、そちらからも血の匂いがする。黒でなければどれだけ酷い有り様になったろうかと思う土井の傍ら、斜堂が嫌悪感を露にして溜息混じりの言葉を吐き出した。 「今回使われた刺客の数は六人…全体の人数は十八人。放ったのはサクラタケ城。今夜の襲撃が失敗に終わった場合、二日後に人数を増やして再突入の手筈ということです」 「確かですかな」 「…私の尋問に不安がありますか」 これだ。 忍務の後…それも血を見るような仕事の後に気が立つものは少なくない。 斜堂もその口だ。普段よりも色濃く重い、潰されそうなほどに陰鬱な気配を纏っている。ずば抜けた尋問の腕を持ちながら早々に最前線の現場を去って学園へ来たことも、ひどく扱いづらいこの気質が故ではないかと踏んでいた。 「ま、私も斜堂先生の腕を疑うわけじゃあありませんけどね」 「では…何を?」 「いえ? 確かに腕は認めていますが、歳を考えますとねえ…」 言いつつ、ちらりとこちらにも視線を投げる。 またかと心中うんざりしながら、土井はともかく早く自室に戻るべく口を挟んだ。 「それは…安藤先生からすれば、私も斜堂先生も年端もいかない子供のようなものでしょうけど」 「けれど、そうそう滅多に若造呼ばわりをされたくはない、とでも言いたげですね」 こんな場合であっても安藤は飄々とした顔を崩さない。常のまま…それこそ生徒達のテストの点数がどうの素行がどうのと、ちくちく刺すような嫌味を言う時と大差ない平素の表情。 内容は子供染みた嫌味であろうとも、この男も十分に狐狸のたぐい。それもなまなかでは尻尾を出さぬ古狸だ。 「……分かっていらっしゃるなら、よしていただけますか…」 「あ、ああああのっ、止しましょうよこんな、こんなところでそんな、不毛ですよ」 おろおろと井戸の影に身を隠しながら、松千代が制止に入る。 これがまたよく分からない。一撃で人馬を共に沈めるほどの膂力を持ち、またこの上なく身も軽い。本当ならいくさ忍びとして最前線にいてもおかしくはないのだが、人の視線に滅法弱く、物陰に隠れていなくてはろくに話もできないとはどういう人物なのか。 「松千代先生は黙ってなさい」 安藤はにべもない。 「いえそんな、だって「…ああうるさい…」 斜堂が横目でじっとりと見据え…もとい睨み付けると(記憶によれば学園の掃除婦はこうした行為を「ガンを飛ばす」とか呼んでいた気がする)、松千代はまたぞろきゃあと悲鳴を上げて、今度は深い植え込みの中に隠れて目だけを覗かせた。 …今に限っては恥ずかしいと言うより、怖かったのだろう。 「だいたい若造扱いをするなと無駄に達者な口を利くなら、二人とも、まずはその血の気をどうにかしてから言うことです。なんですよ、こんな程度の忍務でそうもぴりぴりとみっともない」 「!」 痛いところを突いてくる。 自分にも反論の余地はないが、斜堂に至ってはよりひどい。 今の殺気混じりの気配と血の臭いは、蜉蝣か幽鬼のごとき普段の印象と相俟ってあまりに濃く、強く、より陰惨に思えてならず…万一このまま生徒達の前に出ようものなら、阿鼻叫喚の大惨事になるだろうとさえ思うほど。 相手が一年生であったとて、そうそうこの雰囲気の誤魔化しは効くまい。 「あなたたちね、なにか間違えていやしませんか。私達は教師なんです。いくら忍術学園のそれといっても、現役の頃とは何もかもが違うんです。どんな任務があったとしても、どれほど神経をささくれ立たせても、ここは生徒達のいる学園で…いくさ場ではないんですよ」 「…解っているつもりですが」 「なに、それだって所詮は口先。小生意気なことを言うならね、斜堂先生。 先ずは結果をお出しなさい」 からかい混じりの一言に、今度こそ斜堂の黒い気配が膨れ上がった。 いつぞや言い負かされ圧倒された借りを、なにもこんなところで返さずとも良いだろうに。頭の片隅の冷静な部分が呆れ半分でそう告げるのを知覚しながら、もういい加減にしてともかく血を落としましょうと提案しかけた口が、ふと発音のかたちに固まりついた。 「先生方?」 片手に提灯、もう片手に何着かの洗い晒した忍び装束を携えて所在無げに声を掛けてきたのは、学園の掃除婦兼事務員であった。 「さん」 「良かった、先生方でしたね。まさかいないのかと思ってちょっと驚きました。暗いところはあんまり目が利かなくて…鳥目って言うんですか。その上真っ黒な忍び装束でしょう、余計に。 ああいえ、そんなことより。返り血を落としてからお風呂を使われるそうで、これは手拭いと替えの装束です。あらかた血を落としたら、お手数ですけど夜のうちに出しておいていただけますか。明日の朝一で洗います」 (余談であるが、聞き付けて行間から出て来ようとした村名琴頼こと突庵望太は「話の腰が折れる!」と実技担当の教師達に止められた) 彼女の表情も変わりはない。 生徒たちの仕掛けた罠やら掘った塹壕やらにはまって服を汚された時と、大きな違いも見受けられぬ素のまま。暗殺者が来ていることくらい実感できないとは思えないのだが、それで尚呆れるほどに平穏な気配を纏っている。 そう、それこそ…担任の自分が言ってしまうと傷付きようもひとしおだが…は組でもあるまいに。 「…さんは、怖くはないのですか」 おそらく全員が思っていたであろうことを、斜堂が聞いた。 「なにがでしょうか」 「人が死んだことが、です」 言葉の裏に隠された私心に気付かないものがいたとしたら、それは当人だけであったに違いない。 斜堂はこう言っている。 我々が人を殺したことを知っていながら、どうしてそうも平然としていられるのですか。戦も知らない一般人でありながら、今の自分たちを前になぜ動揺もせずにいられるのですか。と。 「変なことをおっしゃいますね、生き物の致死率は今も昔もかっきり100%ですよ。今ここでなくたって同じこと…それに、必要以上に気にしたら先生方が困るだけでしょう」 「…いや…ええと、確かに、言っていること自体は正しいんですけどね」 土井は問い詰めてみたくなるのを堪えるのが精一杯だった。 だからといってこの空気はなんだ。先ほどまでああもぴりぴりした…焦げるような緊張感を有していた空気が、なぜあなたが出てくると同時にふっと緩んでしまったのだ。 「血を見るのが怖いんじゃないかと心配してくださってるなら、尚更大丈夫です。ほら、忍び装束が黒地なんで赤い色がよく見えないでしょう。だからさほどグロくは思わないといいますか」 そういう問題ではない。 「それに、私鳥目ですし」 だから。 「ちょうど今風邪気味で鼻が詰まってて、血の臭いもよくわからないんですよ。わからなければないのと同じ、です」 「いやそんなしんべヱじゃないんですから!」 うっかり突っ込んだ自分に、が日中と変わらぬ表情でへらりと笑う。 ああ、これだ。 当人にどういう意図があるのか…あるのかどうかすら知らないが、彼女の言葉には力がある。それも癒しやら和みやらかわいらしい響きのものではなくて。強いて言うなれば。 (脱力、系…) 本当に、先刻自分で思ったままに。 自分のクラスの生徒たちが大人になったなら、ちょうどこんなふうになりそうだ。 そこへ考えが行くと同時、身体から一気に力が抜けた。 残るのは…心地好い時も悪い時もあるが、いい加減馴染みになった忍務後の疲労感と、持病でもあるきつい肩凝り。そうして、 かちりと音を立てて自分の中のなにかが切り替わったような、不思議な感覚だった。 松千代もようやっと繁みの中から出てきて、髪と髭で隠れた顔を満遍なく赤くして着替えを受け取っている(向こうも向こうで気を遣って目を合わせずにいるが、やはりまだ野村がいなければ満足に話せないようだ)。 その様子に安藤がまったく情けないだの女々しいだのと普段の素行を持ち出して嫌味を言い、松千代が生真面目にも巨躯を縮こめへどもどして、見兼ねた掃除婦が苦笑混じりに止めに入る。 まるきり日中のテンションではないか。 「あれ、斜堂先生はそのままお風呂を使われるんですか?」 「私は返り血を浴びていませんから、水を使わなくても良いのです。…だって、他人の血なんて汚いじゃないですか」 そして最も顕著な変わりようを見せているのは、斜堂だ。 近付けば呪われそうなほど鋭く凶々しかった空気が、今は見る影もなく凪いでいる。 血の臭いは変わらずとも、それさえどうにかすれば生徒達の真横を通り過ぎても気付かれまいと思うほどに。 これまた、影が薄いと言われつけているいつも通りの同僚のそれ…というより不思議なもので、むしろ言葉や表情を注意深く観察してみると、常よりも態度が柔らかくさえなっているのだ。 (これは、案外…) が彼に思いを寄せているだろうことは学園内にも感付いている者が多いのだが、その逆…斜堂がどう考えているかと言えば(元より読み難い男であるから)それはそれでさっぱりわからない。 しかし、今の表情ときたらどうだ。 (…斜堂先生も満更じゃないふうに見えるなあ) 「ああそうだ、さん」 を呼び止めると、土井は自分が持っていた替えの装束を彼女の鼻先に差し出した。 「手間を掛けてすみませんが、これは風呂場の脱衣場に持って行ってくれませんか。…私はほら、この量ですから」 井戸水だけでは完全に落ちませんよ。せっかく持ってきてもらったものをもう一度汚すのも偲びないですし。 適当にそう言い含めて自分の分の着替えを持たせたその後ろで、(鳥目の掃除婦は気付いていなかろうが)安藤がにやにや笑う気配がする。 (…ずるいですよ、まったく) 自分だって笑い出すか…でなくば、どうぞ道々は二人きりでなどと、一言くらい囃してやりたいというのに。 素直にそれを受け取り斜堂の背を追う彼女が、自分のそんな節介に感付いたかどうかは、やはり解らないけれど。 夜空を覆った分厚い雲がいつの間にかわずかに切れている。 雲間から覗いた白い月をおかしなほどすっきりと冴えた心地で見上げながら、土井は古井戸のほうへ足を進めた。 その身に浴びた血を落とし、「一年は組の土井半助」に戻るために。 |