「ああああああ!」
ふと目が覚めたら斜堂先生がいなかった。
逃げられた、しかも居眠りしてる間に!
どれだけ寝てたんだ私は。この頭のスッキリ具合からそれほど長い時間じゃないだろうが(長時間寝ないでいた後短時間に集中した睡眠を取ると、脳は驚くほど活性化する)、とにかくなんとか急いで見つけないと学園中をあの様子で徘徊しかねない。
保険室を飛び出しあちこち教室やら倉庫やらを覗き込みながら(そして時折別の先生に見つかって怒られながら)、あるだけの集中力を総動員して走り抜けた。勢いのあまり大人のくせに廊下ですっ転びそうになったが、まあ転んだらその時はその時だ。生まれてこの方これほど疾走という表現が相応しかったことはない。
T字形の廊下を真っ直ぐ通り過ぎたその後ろから斜堂先生と新野先生の声が聞こえて、慌てて漫画ばりのブレーキをかけるや、勢いを利用して片足を軸に回転、方向転換。我ながらなかなか軽やかな動きだ。これを普段の仕事に生かしなさいよと自分でも言いたくなるがそんな場合じゃない。食堂だ! なんだかただならぬ様子じゃないか!
「斜堂先生、ここでしたか!」
「あっ、さん! なにやってたんです、目離したらだめだって言ったのに!」
「すみません居眠りしてる間に逃げられて…って、これ一体何事ですか! 斜堂先生がますます変なことになった!」
いや、ほんと何これ。目付きは尋常じゃないわそもそも言葉をしゃべってないわ、その上心なしか挙動が人間っぽくない…ような…。
「ええとつまりさんが寝てる隙にご飯を食べに来て、倒れまいとハジケた結果がこれでですね!」
「ハジケてなんで怪獣っぽくなるんですか!」
「知りませんよ!」
明るくなったり怪獣になったりもうなんなんだこの人!
「話は後です、さんそっち押さえてくださ、ぎゃっ!」
「うわあ!」
新野先生が私の頭上をすっ飛ばされ、壁に強かに叩き付けられて意識をなくした。
「ぎしゃーーー!」
こんなの私の手に負えるわけない。
逃げよう!
「な、なんだっていうのあの腕力。大の大人を持ち上げて投げつけるとか…ほんと、余裕なくなった時の変わりようが半端ない人ね。あ、大丈夫ですかおばちゃん。この前腰傷めたでしょ、ぶり返したりしてないですか?」
「あたしは大丈夫だけど…どうしようかねえ、あれ」
「どうしましょうねえ…なにか武器に使えるものがあればいいんですけど」
ともかく調理場へ避難してカウンターの中に身を潜め、掃除婦と料理人の実戦未経験二人が即席作戦会議である。場合が場合だけど、さすがに刃物はまずいだろうなあ。
「これ使えないかしら、ちゃん」
「ん? 桶か…いいかもしれません」
木製だから、思い切り殴っても後を引くダメージはなさそうだ。
「じゃあ私が向こうに回り込んで注意を引いてみますから、その隙にこれで一発ぶん殴ってください。頭狙いでお願いします、効果ないから」
「いいけど、ちゃんはそれでいいの? だって斜堂先生のこと…」
「そりゃまあ好きですけど、もうこの際構ってられませんからね」
だいたいこの状況は私のせいでもあるんだから、ここは情に流されずに止めるのが先だろう。
「よし、行ってきます」
姿勢を低くしてカウンターから各テーブルの影伝いに移動し、食堂の壁に沿うように斜堂先生の正面へ回り込む。下手をしたら私まで壁に叩き付けられて気絶する羽目になりかねないので、慎重かつ迅速に。
「斜堂先生!」
呼び掛けて正面に立ち塞がると、普段の倍以上は鋭い目がぎらりとこちらを睨み付け…いや鋭いというか理性をなくしたというか。
その眼光が赤く見えるのは果たして私の気のせいだろうか。
「こっち向いててくださいよ…そう、こっちです。そのまま…、あ! くそっ!」
言うなり後ろを向こうとした斜堂先生に真正面から飛び掛かり、両腕ごと抱えるようにして抱きつい…もとい、羽交い締めにした。思った以上に力が強い。このままじゃ確実にやられる…その前に!
「おばちゃん! 今!」
澄んだ、それは気持ちのいい音が食堂に響き渡った。
* * *
とりあえず保険室に運んで寝かせてから、その場の全員が一様に肩を落として溜息をついた。
「まあ、一時的にはおとなしくなりましたね」
「まだですよ。これは長引きそうです…今度こそちゃんと付いててもらいますよ」
「はい勿論です。もう居眠りしません」
あんな騒動は二度と御免蒙る。
でも新野先生の辟易ぶりから察するに、明るくなったのも怪獣になったのも一度や二度じゃなさそうな匂いがするのだが…聞きたいけど聞かない方がいいような気がするから聞かない。
「え、斜堂先生に付いてて居眠りなんて…らしくないな、どうしたんですか?」
「や、ちょっといろいろ。徹夜明けで眠くてね? だからわりとすぐ寝ちゃって…」
まさか膝枕した側の私までが、安らぐあまりにうたた寝してましたとは言えない。というかあれは至福過ぎて人に言いたくない一時だった。
「そんなこと言って、どさくさで口付けのひとつぐらいはしたんじゃないすか?」
「す る か !」
私を痴女かなんかだと思ってないか、この子達。
第一分かっちゃいない、斜堂先生相手にそういうことをするんだったら、起きてる時…つまり反応が見られるときでないとおもしろくないだろうに。
「まあまあまあ。あ、誰か来ましたよ」
「失礼します…」
からりと障子を引き開けて入って来たのは、一年ろ組の伏木蔵君と怪士丸君。
「斜堂先生のお見舞いに来ました…」
そう呟く(ような話し方の)怪士丸君の手には…どう言ったらいいか形容に困るモノトーンの千羽鶴があった。
…お通夜の会場に吊るされてても違和感がなさそうだ。
「ろ組みんなで折りました…斜堂先生に早く元気になってもらおうと思って」
「…シックで、かっこいい色合いね」
「それ何重のオブラートに包ん、痛っ!」
「今のはきり丸が悪いよ」
なんだかんだと言っても、結局とても慕われているのだなとこういう時に思う。斜堂先生や日向先生、ろ組のお二人だけじゃなくて、どの先生方もきっと。
「ところでさん」
「ん?」
「大丈夫…ですか?」
「なにが?」
「さんは斜堂先生がこうなるの初めて見たから、イメージ違うとか幻滅したとか…暗いままの先生の方がよかったとか…」
だからこういう返しに困るようなことを聞くのも、担任の先生を心配しているんだろう…たぶん…
「ないよ」
そう言い切れたことには、自分が一番驚いたけれど。
「なんでかなあ…吹っ切れたっていうのかな。確かに私の考えてた感じと違うし、驚いたけど、そんな差異はどうでもよくなっちゃった。普段がどうあれこれもこれで斜堂先生の一面で、今日はたまたま新しい面を見られただけのことよ。喜びこそすれ嫌だなんて言うもんですか」
「じゃあ」
「うん。それでも好き」
「なんでそれを本人に、起きてる時に言わないかなあ」
「きりちゃん、私にそれを言うのはね、君達にいつになったら進級するのって聞くようなもんよ」
「なにそれ」
「進行上の都合ってこと」
「おれたちが進級するのとさんが斜堂先生を落とすのと、この分じゃどっちが早痛い痛い痛いごめんもう言わない耳がもげる!」
「何度も言うけど一言余計」
「でもさんって案外非情に徹する人だよね。だってその斜堂先生を桶で殴るように指示「まあ過ぎたことは置いといて! …その千羽鶴、枕元に吊るしてあげたらどうかしら」
「そうだね、先生きっと喜ぶよ」
ある意味一番一年ろ組らしいオブジェだ。斜堂先生にとって暗くなるのがイコール元気になるということなら、これは相当元気になれそうな…言っちゃなんだがなんとも身体に良さそうな禍々しさじゃないか。言わないけど。大人だから。
「あれ?」
怪士丸君が窓の格子に千羽鶴を下げると、明らかに斜堂先生の様子が変わった。まず怪獣になって、次には明るくなって、
それから…
「戻っ、た…?」
「戻りましたね。これはいつもの…暗い健康体の斜堂先生です」
何回聞いても変な日本語だけどそんなことはともかく、まさかあの千羽鶴、何か精気的なものを吸い取るんじゃないか。それで常人だったら吸われてへたばるところが、斜堂先生は逆に…それこそ「元気に暗く」…
ありそうな線で怖い。
「…もう大丈夫…」
言って起き上がるや、心なしか周囲が暗くなった…だけならいいのに人魂まで出てきた。いやいや、これはまずいんじゃないでしょうか。慣れてないは組の三人が怯えてます。
怯えて…ますけど、でも、これは紛れなくいつもの斜堂先生だ。辺りの空気を暗く染め替える陰鬱な雰囲気も、さながら召喚獣のごとく付き従う人魂も、特有の覇気のない喋り方も、どうやっているか知らないが頭も肩も動かさない幽霊のような動き方も、なにもかも全て。
事実、一年ろ組の二人はそりゃもう嬉しそうだ。
しかも伏木蔵君に至っては、こうこなくちゃと言いたげな不敵極まる笑み…私が言うのも確実に妙ではあろうけれど、この際だから正直に言わせていただく。こういう表情をすると伏木蔵君は確実に担任よりかっこいい。
作法向きに思えるんだけどな、性質的には。
「それから、さん」
「はい?」
「……さっきはどうも…無理をお願いして、すみません」
「無理?」
…さっきと言えば…
膝枕か。
「申し訳ないとも思いましたが、…気持ち良かった、です」
告げると、無音ですうっと障子が閉まる。ちょっと待った、その台詞は何かと誤解を招く言い方じゃ「二人とも、一体何をやってたんですか。真っ昼間から保健室で」
や っ ぱ り だ !
「うわあああああちょっと待ってください新野先生、違います何もしてません!」
「何が違うんです、うっかり居眠りするほど疲れたんでしょうが。…そりゃあね、そういう仲になるなという訳では決してありませんよ…二人ともいい大人ですし。でも大人だからこそ時と場所を選んでもらわないと、生徒達に示しがつかないでしょう」
「いえあの本当にそうじゃなくて、誤解なんですってば! あああもう戻ってきてください斜堂先生!」
その後、あくまでジト目とお小言を崩さない新野先生の誤解を解くのに三十分を要した。見た目でこそわからなかったが、たぶん斜堂先生は桶で力一杯殴るようにと指示したのを覚えていたんだろう。
すみません。もうしません。
* * *
『さんが膝枕してくれたら寝ます』
『大好きです、さん』
『確かに考えてた感じと違うし、驚いたけど、そんな差異はどうでもよくなっちゃった』
『それでも好き』
「………。」
「どうかなさったんですか、斜堂先生」
「…いえ、何でもありませんよ。伏木蔵」
「あの…一年ろ組は、みんな斜堂先生の味方ですから…がんばってください」
「ありがとう…怪士丸…」
生徒達の暖かな思い遣りが色々な意味で心に沁みて涙が出そうになった、そんな斜堂の春の日の一幕であった。