整えられた環境で艶やかに咲き誇る大輪の薔薇も、暖かい日溜まりで優しく微笑む蒲公英も、彼女を例えるには不向きだろう。
むしろ似合うのは、その身に鮮烈な毒を有した鳥兜。触れたらただでは済まないと分かっていても、尚手が伸びる魅惑の毒薬だ。
教職員用の長屋へ通じる渡り廊下を歩きながら、ふと右手の花に視線を落として、知らずのうちに斜堂は薄く笑みを浮かべた(余談であるが、偶然側を通った四年生が顔を引き攣らせて避けた)。
無論鳥兜ではなく、山の中で見つけた似たような色合いの花。名は知らないが毒性はなかったはずである。生徒達を裏裏山まで連れて行った帰り道、しゃんと背筋を伸ばして咲く佇まいに引き寄せられるように手が伸びて、つい一輪摘み取ってきたばかりだった。
(やはりさんによく似合いそうですね)
花弁の色は、少し竜胆にも似ている。明けの空のように青みがかって深い紫の…先日いい仲になったばかりの恋人が好きだと言った色だ。
渡したらどんな反応をするだろう。喜ぶか、照れるか、それともその両方か。
どの道「あの」のことであるから、自分が渡したものならばたとえ毒草だったとしてもそれは大切に飾っておいてくれるだろうけれど(触らないで見てるだけなら害はありませんよ、などと笑い混じりに言う様子が鮮やかに脳裏に浮かぶ)。
長屋の片隅…一応女性職員用とはなっているものの、男のそれと比べて絶対数が少なく自然人気もまばらな一角に、彼女の部屋は割り当てられている。
当人は静かで過ごしやすいと言っているが、斜堂の記憶に間違いがないなら、この部屋は割り当てられた当初埃まみれの物置きであった筈ではなかったか。生徒達に荷物だけ運び出してもらってからどうやって片付けたのか、日当たりは悪いがそこそこ人の過ごせる環境に激変を遂げている(大概散らかっているが不潔ではないのが有り難い)(掃除婦というより奇術師だ)。
障子でなくその横の柱を軽く叩いて、中に声を掛けた。
返事はない。だが物音と気配はある。
「…はて」
部屋の主か、もしくはその自身に許可を取った人物ならば、返事があるはず。物取りや侵入者、なにか後ろめたいことがある人物ならば、小さくともはっきり分かるような音を立てたりせずに息を潜めるものだろう。
怪訝な顔で首をひねるのと、どこか平坦な調子の声が斜堂の名を呼ぶのはほぼ同時だった。
「斜堂先生ですね? どうぞ」
その声に、斜堂はまた首を傾げた。決して自惚れるわけではないがは自分にそれはもう惚れ込んでくれていて、訪ねると嬉しげに出迎えるのが常だ。今のような…心ここに在らずという反応を見せたことは一度もない。
なんとはなしにいつにも増して注意深く、音を立てないように障子を引き開ける。
彼女の姿を確認した瞬間、ああそういうことかと納得した。かさかさと軽い物音はこれだったか。
「すみません。時間があったら待っててください。今は、」
「ええ、手も目も離せないようで」
無理にとは言いません。付け加えてそっと後ろ手に障子を閉める。
見たこともないほど真剣な表情で文机に向かうの手元には、色とりどりの紙で作られた、精緻な細工の花飾り。
その集中しきった表情と、傍らの物入れに色違いの同じものが幾つも納められているあたりを見るに、売り物、もしくはそれに準ずる物だろう。
「居てもいいのですか?」
「居るだけなら」
元よりいきなり押しかけたのはこちらである。
言葉に甘えて、邪魔にならないよう部屋の隅に膝を抱えて座り込む。いつもへらへらと饒舌であるだけに、別人と見誤るほど引き締まった、どこか精悍な印象さえ与える横顔はなんとも見物だった。
(ああ、なるほど。…人目が少ないところでだけ、真顔になるのですね)
笑顔は人を一番魅力的に見せるなどとよく言われるが、少なくともに関しては今の真剣な横顔が最も美しい。
無論、自分が何ごとか褒めたり贈り物をしたり、ふとした時に見せる笑顔も十分に魅力的ではあるけれど。それでも尚。たとえ自分に一瞥もくれなくとも、その視線と指先は、美しい細工を作り出している時にこそ惚れ惚れするような色を帯びるのだ。
そしてまた、恐らくこの表情を見られるのは自分くらいでもある。
普段能天気に笑ってはいるが、人を側に寄せたり隙を見せることはあまりない。まして、いつでも後ろから忍び寄ってそっ首をかき切ってしまえそうな、この距離と集中ぶりである。自分でない他の誰かなら室内で待たせたりせず、後で来てくださいと追い返した筈だ(返事をしたかどうかも怪しい)。
そう考えると立場はもちろん、影が薄いと言われつけている持ち前の微弱な気配も少しばかり有り難い。
(この様子では、少々動き回っても気付かない…はず、)
「………。」
ふと思い至って、斜堂は気配を消したまま立ち上がった。
* * *
すべて工程を終えて最後のひとつを箱に仕舞い終え、ふと気付くと室内が薄暗かった。
「うわ、腰痛っ」
痛いのも当たり前だ、そういえば結構長い間姿勢を変えた覚えがない。腕も背中ももれなく痛い。肩凝った。とりあえずガチガチに硬くなった筋肉をほぐすべく思いっきり伸びたら身体中の骨が鳴って、あげく背中が攣りそうになった。もっと痛い。
どれだけ時間が経っただろうと目を細めて机に置いてある腕時計の盤面を覗くと、(こちらに来て随分長くなって時間の数え方もこの時代に馴染んで、今や作業にどれだけかかるかと正確な時間を計るためにしか使っていないのに、スチール製の元愛用品は泣けるほど健気だ)文机に向かって作業を始めてから三時間と十分ほど。あまり複雑なものでこそないが、数を考えれば上々のペースではある。
あるが、なにか忘れているような気がする。途中で誰か来たような、来なかったような。
「…お疲れ様でした…」
「うわああああ!」
いつもと言えばいつも通りの平坦で覇気のない声に飛び上がりそうになった。そうだ斜堂先生を忘れてた。仮初にも恋仲の男を放ったらかして、私はなにをのうのうと!
「び、びっくりした…! すみません、あの、ずいぶん待たせたみたいで…どれくらい待ちました?」
「気にしてません」
「私がします」
聞くところによれば作業の邪魔をしては悪いからと、ありがたいことにいつの間にかそっと明かりを入れてくれて、今までずっと(声もかけないまま)部屋の片隅に体育座りでうずくまっていたらしい。…その現場を誰も目撃しなかったことを願いたい。客観的に見たらきっと幽霊と、それにとり憑かれて正気を失くした細工師に見えるだろう。いや、私の感性ではいじらしくて可愛いけどそんな奇人は一人だけだ。たぶん。
「しかし何分単位ならともかく何時間も、一体なにしに待っててくれたんですか」
「途中からは、すっかりあなたの作業を見るのが本題になってしまいました。最初はこれを渡しに来ただけだったのです」
言って渡されたのは、飾り気のない一輪挿しに活けられた鮮やかな青紫の花。
私の好きな色だ。
「ろ組の補習授業で見付けたのです。どうせ今日はそれ以外の予定もなかったことですし、これを渡しがてら外に食事にでも誘おうかと思いまして…そうしたら」
つい見入って期を逃してしまいました、と斜堂先生は気弱げに笑った。
「すみません、間の抜けたことを。…あなたがあんまり器用に作っているから、ずっと見ていたくなってしまいまし、!」
ああもう、まったく本当にかわいい人だな!
…衝動的に遮って抱きついてしまったが、向こうが嫌がっていなさそうだから後悔はしていない。ちなみに花は倒したりしない位置にちゃんと置いてある。抜かりなし。
「嬉しいです。…いやあの、花も、手際を褒めてくれたのも、気遣ってくれたのも、全部。
なにかお返しをしたいところですけど、成人男性にあの紙細工の花あげても仕方ないですね。何がいいかな」
「あれは売り物ではないのですか?」
「いえね、冬休みにでもまた小間物屋をやることになってるんで、馴染みの…私のことを覚えててくれたお客さんにちょっとプレゼントでも」
千代紙のなり損ないだったり、または小松田君の実家の扇子の失敗作だったり。あちこちから安く仕入れてきたものを、以前見よう見真似でコサージュに仕立ててみたら存外きれいにできたのだ。
そしてモニターをやってくれたくのいち教室の子たちからもいい反応が返ってきたので、数日後の休みの日…つまり今日に調子に乗って量産したというわけだ。原料がタダも同然なため、これに関しては店の評判を上げるためのいわゆる撒き餌である。当店は雰囲気が薄暗いぶん品質と口八丁で勝負をかけております。
「………。
そういうことをするから、あそこの店主は女たらしだなどと言われるのですよ」
「反省してます」
品が品だけあってうちは九割方女性客であるから、女のセンスや扱い方をよく心得た風の軽めなノリが一番やりやすい(実際女なのだから、任せていただけるだけのセンスはあるつもりだ)。そういうわけで意識して遊び人を気取ってみたら、店ではすっかりそれが定着してしまった。
お客の顔立ちや雰囲気、着物の色柄に合わせて品物を見立てたり。時にはそのついでに褒め言葉や軽い口説き文句を添えたり。綺麗なお姉さんのお誘い文句を笑い交じりにかわしたり。さらに暴力的な匂いのする…いわゆるゴロツキさんがうろうろしている時にはさっさとお高めの花町に引っ込んで、片手に可愛い女の子をはべらせて歩いたり、顔馴染みの郭に消えたり(どうでもいいことではあるが、それなりに遊んでも肝心の行為がないので大した金はかからない)。
どう見ても女たらし…控え目に言ったところで遊び慣れしたやさ男。
でもそのろくでなしのイメージがいい隠れ蓑になって、本気で言い寄ったり詮索したりする娘さんがいないのも、まあ、非常にありがたい。…ので、しばらくこの路線で行く。誰かにうっかり惚れられでもしたら、決まった相手がいるから素人女に手は出さないとごまかしてみるつもりだ。
私の決まった相手は目の前のこのひとであるから間違ってはいない。
「しかしどうしましょうねえ…」
私はあまり男受けするような物は作れないし、そもそもこの時代の男性に何をあげればいいかよくわからない。潔癖症だから風呂にも入らないうちに、こちらからあまりべたべた触れるのもはばかられる。…というかむしろその場合拒まれるこっちではなくて、拒む向こうの方が傷つきそうで尚更いやだ。
「なにか欲しいものってありますか、斜堂先生」
「別にお礼が欲しくてしたことではありませんが…なんでもいいならお言葉に甘えて、一つあります」
「どうぞどうぞ。私にあげられるものなら、」
なんでもいいですなんて言わなきゃよかった。
「よりによってそれですか!?」
「…簡単でしょう。生徒にはずっとそうしているくせに、ずるいじゃないですか…」
「照れるから今まで避けたのに…いや、でもさすがにもう頃合いか…」
「頃合いどころか通り過ぎています。そろそろ腹をくくってくれないと」
「う…わ、わかりましたよ…
…………影麿、さん」
「それでいいのです。せめて二人の時ぐらい名前で呼んでくださいよ?」
「善処は…します…」