お世辞にも図太いなんて言えない人だから、気を遣って可愛がって、綿にくるむように大事に大事に接したい。けれど同時に、徹底的にいじめて泣かせて、その無表情を思うさま歪ませてもみたくて。
そんな矛盾をいっぺんに叩きつけられたのは、あなたが初めてよ。



「っ、…、さん」
細い声に名を呼ばれた彼女は心底嬉しげに微笑み、行燈の炎に作られた影を揺らめかせてゆっくりと斜堂に顔を寄せた。
互いに好いて好かれた仲の男女で…しかも自室に二人きりとなれば、狼に変貌する側は大概男と相場が決まっているものであるが、今の状況はどこから誰がどう見ても逆だった。膝立ちになったが斜堂の両手首をしっかりと掴み、壁際に追い詰め体重をかけて、それこそまるで押し倒すような形になっている。
「そ、……そんな、に。楽しい…ですか」
何をするでもなく斜堂を押さえつけたまま、ただ耳元に囁いた。
「とっても」
解るまい。自分は一言たりと言っていないのだから。
目の前の恋人の怯える表情が好きだなどと。


この男はひどく神経質で、汚いものは勿論のこと…他者が傍に寄ることも本来あまり好まない。
他人が自室に入ったり、今のように至近距離に寄ったり(況してやその気になれば楽々と口付けられそうな距離に)と、そうした行為に嫌な顔を見せない相手はそれこそくらいなものだった。
少しばかり緊張してはいるようだが、それはある意味でいつものことだ。常に他人と一定の距離を置き、自分の縄張りに侵入されることを極端に嫌う。他者から見てどうかは知らないが、彼女はそういうところが臆病な小動物のようで可愛らしいとさえ思っていた。
故には思いを通じ合わせてからも、斜堂が自分に慣れるまで本当に細心の注意を払った。表面上では何でもないふりをしながら、二人だけのときにふと微笑まれるたび、優しい言葉をかけられるたび、愛おしさのあまりなんの頓着もなく抱きついて口付けてしまいたくなる衝動をどれほど抑え込んだことか。
(それをしなかったのは斜堂を気遣うほか、汚いものにでも触れたような顔で拒まれたりしては暫く立ち直れないだろうと判断しての予防線でもあるのだが)
だからこそ、こうして触れられて、動きを封じるように押し倒されて、それでも斜堂が拒む様子を見せなくなったことは嬉しくてたまらなかった。
それなのに、だ。
人間というものの性だろうか。一を得れば十が欲しくなる。十を手にすれば百を奪いたくなる。
もう何度となく自問自答した。
どうしようもなく、自分に対する嘘も誤魔化しも意味がなくなるほどに、


今度は泣かせたくて仕方がない。


女という生き物は多かれ少なかれ加虐の資質が備わっているが、はそれがひどく強い。…というよりも、恐らくその性癖が故に斜堂に惚れているのだと自覚もあった。
見ているとたまらなく嗜虐心をそそられて、自分の手で追い詰めて穢していたぶって泣かせてみたくなる。
それをしない理由はひとつ。

(…嫌われそう、なのよねえ)
決定的に感じ方が違うのだ。自分にとっては愛情表現であっても素直にそれを出したが最後、ずたずたに傷付けたあげく心底から嫌われてしまいそうだ。
そんなことは望んでいない。
別に傷付けたいわけではなく、ただ怯えさせてみたいだけなのだ。その欲望が歪んでいることは承知済みだが、だからと言っても黙って飲み込み気付かなかったふりをするにはあまりに比重が重すぎる。というより、そんな器用な真似ができる性分ならば今頃こんなことでいつまでも悩んでいるはずもない。
さあ。どうしたものだろう。
さん?」
手の力を緩めて黙り込むと、気遣うように斜堂が見上げてくる。
「え…あ」
「どうしたんです? あなたが…その、こういうときに余所事に気を取られるなんて」
それとも気付かないうちに私が何かしてしまったのですか、と自問のように呟く気弱な表情が意図せず心を千々にかき乱し、飼い慣らそうと躍起になっていた内なる獣が再び鎌首をもたげて牙を剥く。
「(ああもうっ! 人の気も知らないで!)なんでもないわ。ただ…、いやその、うん。なんでもないの」
まさかあなたをいじめて泣かせたくて仕方がないと言うわけにもいかず、顔を引きつらせて無理やり誤魔化した。
自分ですら思う。まるで無垢な乙女を前にして、傷付けまいとする心と耐え難い欲望に板挟みになった男のようだ。
「なんでもない、ですか…いつもそう言いますね。なにか無理をしていませんか。
 私は、あなたの隠していそうなことに少し心当たりがあるのですが…」
一気に心拍数が跳ね上がる。
どう返したものかと我ごとながらつかみ切れず詰まった彼女に視線を据えて、ゆっくりと身を起こす。わずかに引きかけたその手を、先ほどまで己がされていたように、斜堂はそっと指をからめて握った。
「え…ええと。あのう、つまり」

ぐいとそのまま手を引かれる。
なにを言う暇も与えられずに斜堂の腕の中に納められたと思うと、次の瞬間唇に触れるだけの口付けを受けて。
「………!」
あまりに予想外であったため、は目を閉じることすら忘れて固まりついた。


「す…すみません。私は…誰かに触れたり、今のように口付けをしたり、…そういう行為が、その…苦手なものですから…ですからさんはそれを察して、ずっと気を遣ってくれていたでしょう」

「…気付いていました。あなたはいつでも、女性にこの形容はなんですが…紳士的で、さりげなく優しくて。いつだってまず、私を優先してから自分のことを考えていて。強引に見えても、その実とても細やかなひとで。
 だから、触れたそうにしていてもそれを飲み込んで…なんとも言えない熱っぽい目でこちらを見つめていることが多くて」

「その目を見るたびずっと、報いようと考えていたのです。いつしかちゃんと、もう大丈夫だと思えるほどになったら、
 …あなたが欲しいと、きちんと伝えようと」


今。
斜堂はなんと言った。


「だめ、でしょうか…この程度のことを告げるのにこんなに時間がかかるような情けない男は、嫌いになってしまいましたか…
 それでも私は、あなたが恋しくて仕方がないのです」

震える声で告げられた言葉に、先ほどまであれだけ心中を荒らし回っていた嗜虐衝動がすっかりなりを潜めて、は悪い気を中和されたようにくたりと全身から力を抜いて俯いた。
「あの…さん?」
「……。ううん、いいの。なんでもないの…あなたが考えてるような理由じゃないから、安心してていいの。ちょっとだけ待って」
思わず頭を抱えてくつくつと笑いだしながら、はつくづく思った。
ああ。やはり好いた相手の言葉というものは、なににも代えがたいまじないだ。あなたが欲しいと、その一言だけで、筋金入りだと自覚していたこの自分の欲望を抑え込んでしまうほどに。
「影麿さん!」
「は、はいっ!」
眼前の削いだように痩せた頬に手を伸ばして、ごく軽く一度だけぱちんと叩く。
「だめなわけないでしょ? そんなことを言うようじゃ、どれだけ私に惚れられてるか自覚がないみたいね。
 あなたが好きよ。…狂おしいほど」

言い尽くせぬ思いを一言だけに乗せて、今度は自分から掠めるように口付けた。




ああもう、今日のところは私の負けよ。本当に本当に可愛い人。
でも覚悟しておいたほうがいいわ。まだ嗜虐欲が消えたわけじゃないからね。
そう。これから私なしじゃいられないほど、しっかりと夢中になってもらおうかしら。たとえどんなことをされようが、離れるなんて考えもつかないくらい首ったけにね。
あなたをいじめて泣かせるのは、それからにしてあげる。