「バカじゃないの」
思い切りぶっ倒れたと思えば、ぼんやりとする意識が最初に認識したのはの白眼と剣突の言葉だった。
とりあえず、天井に見覚えはない。
「あのね、私は張くんと組むようになって、時々陸軍幼年士官学校の教官でもやってる気分になるよ。この真冬に港町を片袖ない着物で歩き回って風邪、しかも倒れるまで気付かないってなんなの、子供じゃあるまいし。その頭は帽子乗せる台かなんか? 乗らないだろうけどさあ」
その認識には大いに異議を申し立てたいところであったが声が出ない。
「そらあの鬼じょ、ゴホゴホッゲホッ」
 
あれだけ格好付けて去っておいてなんやねんと微妙な気分になりもするが(そもそもこちらの求める空気を一切読もうとしない男であるから、またいずれしれっと自分の前に姿を現すのやもしれぬ)、斎藤は蝦夷地へ渡って以降もむろんに指示は出している。
その実に厳しい指令によって寒空の下での一刻半の待機、それからさらに半刻の歩き仕事がおっつけられたのは記憶に新しい。
いちおうその後、がひとりでは手に余る腕ずくの仕事があったことはあった。楽しくこなしはしたが、逆にそれもまずかった。びゅうびゅうと横殴りの寒風が吹きすさぶ夜の波止場で、久々の斬り合いに脳味噌が“あどれなりん”を吹き出させるままに、大いに暴れ回ったのが二日前。これはアカンかもしれんとひどい寒気を覚えたのが事後処理を終えた昨日の昼だ。
それから先がどう考えても記憶にない。
 
「ごご、どk」
腹に力を入れて発声すると、ひどく咳込んだせいで喉に絡んだ濁声になり、自分でも後半が聞き取れぬ。だがとりあえず視線で意図は察したのであろう。は溜息混じりに、ここは自分の家だと告げた。
…言われてみれば、警視庁のツテで借りている自分の長屋がこれほど清潔なはずはありえぬ。
気合いを入れて拵えた気に入りの着物は見当たらず、体中に何本も仕込んであった刀はすべて外され枕元に置いてある。目だけで伺うとさらにその側に小さな鍋と紙袋。それ以外は特に何もない。
「助っ人まで頼んで引っ張ってきちゃったけど、どうせろくに食べ物も備蓄してないんでしょ。しばらく寝てるといいよ」
「な、なんの根拠あんねん、それ」
「へえ。刀と春画と洗濯物以外に何かそれらしいものがあるなら聞いてあげなくもないわよ、言えるもんなら言ってみなさい」
「う…」
ほぼ図星である。
そういえばは一度自分が今の長屋に移る際、斎藤に命じられてぶつぶつ言いながらも引っ越しの手伝いに来たことがあった。一応女の内に入らないこともないゆえに見せてならぬブツは隠したつもりが、どこかで見られていたか、それとも推測でモノを言っているだけか。
後者であってほしいものだ。
「あとこの鍋はお粥。寝るだけ寝て具合も良くなったら食べて…あと薬もちゃんと飲みなさいね、こっちの紙の包み。それから悪いけど着物は汗吸って汚かったから勝手に洗ったよ。もう半日もあれば乾くでしょ」
「お、おう、そらスマンな」
あれこれと口うるさい割には親切で手を惜しまず、一度やると決めればまめな女である。
まあ忙しい時期を抜けたあたりでよかったよと、はようやく笑った。
「よかったね、斎藤さんがいたら風邪でも構わず尻蹴り上げられてたよ」
「あの、オッサン、アンタにも、そないなんか」
「私は暴力で躾られたことはないけど」
そのかわり女ならではのものすごく面倒臭い任務が回ってくるよ。
はなんともいえぬ半眼でぼやいた。
(ワイの見張りもその内なんやろなあ)
今日からこいつと組んで仕事をしろと言われて、へえへえ仰せの通りにとのんびり構えているほど馬鹿ではない。
政府のお偉方の腹積もりとすれば、模範囚の安慈やもう戦う目的のない鎌足ならばまだしも(自分で言うのもなんだが)喧嘩っ早い張を使えるのが斎藤一人では心許ない。猛獣使いがもうひとりくらいは必要だが、それにはまず、いかほどの人間ならば自分の手綱を取れるか知らねばならぬ。
ゆえに、元十本刀にびびらずあれこれ口うるさく言える度胸と、そこまで強くはないそこそこの腕っ節、なによりそうと知っても逃げずにお役目を果たせる胆力と勘の良さ。
そんな人員をつけることで、元“てろりすと”の自分の中にある、打算と人情と忠誠心の兼ね合いを測っているのであろう。
いわばこの女は、事あらば自らの命で危機を知らせるための、鉱山のかなりやなのだ。
自分がどうこうと口を出すほどのことではなかろうが、本当にそれで文句はないのかと疑問はある。
「どしたの」
「な、んでも、あらへん」
京都大火も終結してたかだか数ヶ月しか経たぬ、後処理もまだ山と残った今は、当然のことだが寸でのところで逃げ延びた志々雄一派の残党は多い。明治政府のお歴々には自分の印象なぞ、それこそどこにどう転ぶかわからぬ危険物であろうに。
その世話を放り投げられて、口ではどうのこうのと文句を垂れながらなにをここまで。
(…アカン、寝よ)
張は重い瞼を下ろして、慣れぬ考えを無理矢理遮った。弱気になるのは体が弱っているからに相違あるまい。
このような面倒な考え事は完治してからすればいいのだ。
 
 * * *
 
「ああ治ったの、おはよう張くん。似合うじゃないその羽織」
「お、おう」
「大事に着てね、ひっかけて鉤裂きでも作るぐらいならともかく、万一なくしたら二枚目はないよ。そんなのもう二度と経費で落とせないから」
青みの強い紺の生地に銀糸で縫い取りが施された羽織は、気に入りの緋色の着物と合わせると実によく映える。その辺りのうらなりでは着こなせまいが、逆立てた金髪に堂々たる廃刀令違反の傾いた身形にはまるで誂えたようによく似合った。
そのなんとも自分好みの色柄に、滑らかな肌触りの黒絹の襟巻きを合わせると、人目を引く鮮やかで派手な色がぐっと引き締まる。
起きたら枕元に置いてあった“新こすちゅーむ”は、殊の外気に入った。
 
「この羽織と襟巻き、やっぱりあんたやってんな」
「まあね」
「…その、おおきn「預かり物がバカな格好してうろつき回って体壊したから、そのとんでもない“せんす”でも喜んで着るような防寒具を買ってやる必要がありますってねじ込んだのよ」
「……。」
張はさっと視線を反らし口笛を吹いて誤魔化した。
 
 
漸く礼を言えたのは昼を過ぎてからであった。