靄がかかったように判然としない意識の中、自分の身体に触れるものがあった。
(…人の、手?)
ごそごそと身体のあちこちを探ったその手は斜堂の痩身をぐっと強く抱え込むと、
一気に冷気の中に引きずり出した。


「!」
暗く生暖かい体内から引っ張り出されると同時、粘液で掠れた視界が開けた。気管に体液が詰まって呼吸が儘ならず、斜堂は幾度も咳き込み、喉がひりつくほど冷たい空気を思う様味わった。強い刺激に喉の奥が痛み余計に咳が出たが、かえってその痛みで意識が急激に冴える。
「わたし…は…」
記憶が飛びでもしていない限り、自分はあの厭らしい飛竜に足から飲み込まれたはずだ。
それが証拠に着けた装備も所々が溶かされ、酷い有り様になっている。軽さの割に頑丈な籠手もブーツも、竜の頭蓋から作られた一際特徴的な肩当ても、もう原型を留めていない。これでは廃棄処分にして作り直すしかないが、命と引き換えならば安いものか。
電光に打たれ、身動きの取れないところを丸飲みだ。他には目立った怪我もない。オオナズチの方にやられた足は痛むが、この程度なら動けるだろう。幸運もいいところだ。
例え、フルフルの体液で身体中を汚されていようと。
(しかし、私はどうして)
あの状況下で独力で脱出できたはずもあるまい。
「大丈夫そうね」
周囲を見回そうとするよりも先。
静かに掛けられた声の方へ視線をずらすと、思いがけないほど近くでこちらを見据えている一対の漆黒の目とかち合った。
「…ええ。あの、つかぬことを伺いますが、助けてくださったのは…」
「私」
「ありがとうございます。あのままでは到底助からなかったでしょう」
「いい。ついでだから」
元々寡黙な性質なのか、助けたことを恩に着せるでもわざとらしく謙遜してみせるでもない。至極当然と言いたげな態度だった。
そして改めて間近で見ると、なるほど鳥と見紛うのも無理のない姿をしている。
(ああ、なるほど。羽根のように見えたのは、フルフル装備だったのですね)
全て身に付けると、確かに純白の大きな鳥に似るシリーズだ。ついさっきまで自分を飲み込もうとしていたあの飛竜の皮を素材とする…しかしそれにしては不気味さもなく、ひらひらと柔らかな翼を思わせる。
普段ならば、そうだったろう。
しかし今は、飛竜の腹を裂いた時のものだろう…べっとりと体液で汚れたひどい有様で、頭から血を被ったのか、白い帽子も見る影もない。狭量は承知だが、自分ならばこう汚れて、その上いらぬ危険を背負ってまでは助けてやれないに違いない(それ以前に斜堂はハンターの中でも非力な方であるから、胃の中で人間一人を溶かすほんの僅かな時間内に討伐できるか否か怪しいところだが)。
(助けてくださったことは、感謝してもしきれませんけれど…)
それにしたところで、解せない。考え得る限りでは、自分を助けたところで彼女には何のメリットも見当たらないだろうに、どうしてこんなことを。
「あの、ついでと言うのは」
「私はフルフルに用があったのよ。いろんなところで出没場所の情報を集めて、ここに来たらちょうどあなたが食われてたの。助けられたのはタイミングが良かっただけの気まぐれ。別に感謝はいらないわ」
「ですが、…そんなに汚れてまで」
「こう大々的に捌けば汚れるに決まってるじゃない」
「それはそうですけれど…」
「私は気にならないわ。たとえあなたが胃袋の中で死んでたとしても、きっと同じことをしたはず」
いともあっさりとそんなことを言ってのけるものだから。
「………。」
斜堂は暫時彼女から視線を外せずにいた。
一般人なら触れることはおろか目をやることさえ躊躇うような、粘性の体液と血でべっとりと汚れた姿…しかもあちこちに決して軽くない怪我を拵えてさえいるのに。
装備や挙動が示す通り、他者のために危険を覚悟で命を張るような…嘴の黄色い見習いハンターでもあるまいに。
なぜそんなことが言えるのだ。
そして何よりも不思議なのは、自分だ。言葉には出さなくとも、普段ならば(いくら命を救われていようとも)進んでいらないリスクを負うなどと馬鹿馬鹿しいと、ことと次第によっては軽蔑さえするだろうに。しかしそんなリスキーな行いすら、
(どうしてこの人は、様になるのでしょうか)


「…ほら」
「へ?」
「肩貸して。足折ってるでしょ。さっきから動きがおかしい」
ベースキャンプまで送る。
手を差し出されて、思わず斜堂はどきりとした。
初めて微笑んだ彼女は、手や顔のみならず、全身を血と泥に汚されていてさえ。尚。
(なんて綺麗な…)

「あの。
 …できるならその前に、お名前を」


* * *


「へえ、知らなかった。あの時点で一目惚れだったの」
「…私も若かったものです。
 でも普通は思いませんよ。あなた程のランクのハンターが、本当にフルフルだけを目当てに沼地にいるとは」
「英雄が助けに来たと思った?」
「そこまで能天気ではありませんが。…ですが…まさかフルフル討伐タイムトライアルの片手間だったなんて予想外すぎて…」
「いや、その、だからついでだって言ったじゃない」
「そうですね…夢を見た私が馬鹿でした」
「なら、今は夢も希望もない?
 ふうん…あの後ここを出ていこうとしたら、影麿さんなんて言ったっけ? フルフルは嫌いだけど、あなたについて行く為ならきっと克服してみせる。ギルドを抜けて流れのハンターにだってなる。だからどうか私も一緒に連れていってくださいとか、すごーく健気なこと言われたような…「ちょっ、そ、そういう話は!」
「変なこと言ったらこれ皆に喋るからね。この前マスターがまた面倒ごと思い付いたせいで、そのあたりの話聞きたがる子結構多いんだから」
「私がフルフルに似ているとか、余所では言ってないでしょうね」
「まさか。でも私が言い出すより先にみんな気付いたみたいよ? やっぱりそういうイメージ持たれてるのよ」
「……人をナメクジかなにかみたいに」
「あら、ナメクジなんかじゃないわ。紛れもなくフルフルよ。こんなに似てる人どこにもいないわ、薄暗ーくて陰気でどことなくじめじめしてて、…それに、血管が透けるほど青白い肌…あとはもう少し太ってくれれば完璧なんだけど」
「すみませんね…体質上太りにくくて…」




こうしたやり取りは今に始まったことでもないが、改めて泣きたくなる。何が悲しくて最愛の恋人に、(一度は克服する覚悟を決めたとはいえ)世界で一番嫌いなものに例えられなくてはならないのだろう。
(でも、私を好きでいてくれるのならば)
フルフルだろうがゲリョスだろうがナメクジだろうが構わないと思ってしまった時点で、もうどうしようもないことくらい解っているのだ。
どこの先人が言い出したことか知らないが、惚れたが負けとはまったくもってうまい言い回しではないか。


薄暗い酒場の片隅、誰も見ていないことを確認してから、斜堂はそっと傍らの細い肩に寄り添った。