「…ほんとに怖くないんですか、さん…」
「うん、全然」
「よせよ乱太郎、聞くだけ野暮だって。そりゃあ斜堂先生にべた惚れのさんなら全然怖くないよ」
「きりちゃん、あんまり大人をからかわないように」
「からかうっていうか、もう冗談抜きにおれたちだけ帰りたい…いいじゃないすかそっちだって、先生と二人きりなら」
「それはそれで魅力的だけどそうもいかないの。だって私学園長から君たちが逃げないように見張っておけって言われてるんだもの」
「だからあ、なんでぼくたち逃げたらだめなんですか…」
「それはしんべヱくん、私が思うに君たちが怖がりだからじゃないかと…暗い所を怖がったり幽霊に怯えたりするようじゃ、この先忍者はやってられないって配慮じゃないの?」
「うああ…迷惑な思いつきもあったもんだぜ…」
「ここで度胸をつけてこいってことですか?」
「たぶんね。だいたい幽霊なんて言ったところで要はただ死んだだけの、人間でしょ」
さーん…バチ当たりますよ」
「豪傑すぎる…」
「大丈夫だってば。斜堂先生に脅かされてびびらない人なんて、私以外にいるわけないから」
「人っていうか、それに元がついちゃったらもう別ものじゃないですかあ!」
「…それが、そうとも限らないかもしれないのよね…」
『え?』
   
「…なんでもない。さ、戻るわよ。もう逃げるなんて考えないように!」
「……はーい…」

   
* * *
   
はっきり言ってしまえば、ああやっぱりというのが感想だった。
こういう場合は得てしてそこに住む人間に恨みを持っているか、もしくはその土地自体に用があるか、そのどちらかの動機で仕掛けられたトリックと相場が決まっているもの…いや、あれではトリックにすらなっていない。ミステリーファンでもない自分が速攻で見破れたではないか。あれは戴けない。
反応から言えば斜堂も…そしておそらく学園長も気付いていたのかもしれないが、それはもう何だってかまわない。幽霊もどき…ヤケアトツムタケの忍者たちの足を掛けて捕らえるのに使った罠を片づけながら、しかしさほどの徒労感も感じずに、は少しの間ぼうっとしていた。
(三人に言われたまんまで悔しくなくもないけど、怖いどころか嬉しいに決まってるのよね。こんなの)
手燭を片手に、木立の中にひっそりと佇んでいる斜堂を見ながらそう思う。何をやっているのかはわからなかったが、どこぞかの忍者の残した痕跡でも見つけたのだろう。
(それにしても暗いところで見ると半端ない迫力ねえ…三人にあれだけ大口叩いてなんだけど、これは…心の準備一つなく出くわしたら私でも悲鳴ぐらい上げるんじゃ…いや、もちろんそういうとこが好きなんだけど、でも)
「…さん」
「うわあ! は、ははははいっ!」
案の定、あまりのことに声がひっくり返る。
(いや! いやいやいや、これは悲鳴ぐらいしょうがない…私の度胸がどうこうの問題じゃない!)
呼ばれたほうを向いた先。暗がりの中から静かにこちらへ視線を向け、周囲に青い人魂を纏わせた(と、見える)斜堂に手招きをされて声の一つも上げない人間がいたならお目にかかって拍手を贈りたい。は心底からそう思った。
とてもではないが怖いに決まっている。
この世ならぬ場所に連れていかれそうとでもいうのだろうか。何をあんな程度でと笑い飛ばしてはみたものの、今更ながら偽の幽霊や三人組の気持ちがわかる気もした。
「あ、す、すすすみま、せん。どうかしたんですか斜堂先生、こんなところで」
「考え事をしていたのです」
「ここで、ですか?」
まさかさっきからずっと、という訳でもないだろうけれど。
「…私は、そんなに怖いでしょうか」
「エッ」
なぜよりによって自分がこうまでリアクションに困る質問を振られなくてはならないのか。
「(もちろん個人的には怖くなん…か…あー。いや。ちょっとしか怖くないけど、でも世間的に見てどうかと聞かれれば決して、…)ええと…し、失礼かもしれませんけど、あの。……私はともかく、客観的に見れば怖い人が多いんじゃ…ない、でしょうかね」
「ずいぶん表現に気を遣っていただいてどうも…ですが、あなたの主観を聞きたいのです」
いつもと言えばいつも通りの呟くような陰気な口調でそう告げて、すいとこちらへ歩を進める。
(うわ!)
もう恐怖はない。
にもかかわらず、今度は別の理由で心拍数が跳ね上がった。
(ち、…近、え、なんで? それに、私の主観ってどう…ちょっと待ったなんなのこのギャルゲーみたいな展開は! いつの間にフラグ立ってたの、スチル出ないの!
 ってそんな場合じゃない!)
少し手を伸ばせば易々と触れられるような距離。
そもそも人間自体をあまり好きではない斜堂がこれほど近い距離にまで寄ってくるというのは純粋に嬉しくもあるが、それにしても不可解すぎた。
「わ、私の…主観、ですか。どうして」
「わかりませんか」
目前の薄い唇が笑みを刷く。
「あなたにどう思われているか知りたいと、それが理由ではいけないのですか」
(うそ、でしょ。4月1日は…過ぎ、)
細いけれど節の高い指が伸ばされて、の背後の木に軽く触れる。退路を断たれて固まりついたこちらの反応を楽しむように、斜堂は耳元に囁いた。
「あなたが好きなのです」
ぞっとするほど優しい声音。
「好きです、さん。…この世の誰よりも」
「…!」
姿かたちも声も確かに斜堂のそれだというのに、気配や口調は…そうしてゆっくりと腰に回された手は常の彼よりもずっと強く、熱い。
そのまま引き寄せられ強く抱きすくめられて、欲しくてたまらなかった言葉を囁かれて、くらりとする。
「汚、く、…ないん、ですか」
「他ならぬあなたのことを、誰が汚いなどと思うものですか」
冷静になって考えてみなくとも、文句なくおかしいのだ。斜堂がこんなことを言い出すはずがない。こんな気障な…洒落者めいた口説き文句が吐けるような器用な男ではない。どんなに気を許していようと、どれほど近しい者であろうと、そうそう滅多に人に触れるなど有り得ない。手が汚れるといって素手ではチョークも持てないような…授業で使う虫獣でさえ不潔だと厭うような男が。
どうしてこんなことができるものか。
「この肌も髪も、唇も…どれほど汚れていようと、あなたなら平気ですよ。気になりません」
ましてや今の自分は風呂にも入っていない…それどころか先ほどまで藪の中に屈み込んだり、地面にそのまま腰を下ろしてさえいたというのに。
おかしいと思う気持よりも、しかし泣きたくなるほどの心地良さがずっと強い。頭の片隅では引っ切り無しにハザードランプが明滅しているのに、それと裏腹に陶然と身を委ねてしまう自分の意識がひどく厭わしい。
自分はこれほど弱かっただろうか。はっきりと違和感に気付いているのに、姿と声が好いた男のものだと、たったそれだけのことで、抵抗もままならない軟弱者だったろうか。
目の前の「これ」が斜堂だという意識は、ないも同然だというのに。
   
低く続いた言葉で我に返らなければ、は最後まで流されていたかもしれなかった。
「もういっそ、今宵、このまま…ここで」
   
「…! う、る…さいっ! なめるんじゃないわよ!」
全体重をかけて足を踏みつけ、痩身の腹に力の限り肘打ちを叩き込む。
不意を突かれて声も出せずにのけ反った斜堂の…いや、斜堂の姿をしたものの胸倉をつかみ上げると、うっかり騙されかけた顔を一息に引きはがした。
「はぁ…は…や、やっぱり変装ね! 誰かー! 誰か来て!」
「な、なんでわかった…!?」
おそらく自分をくのいちだとでも思っているのか、逃げようともせず悔しげに顔を歪めるその男に、にやりと不敵な笑みを向ける。
「ふ、ふふ。あ、危なかった…! ヤケアトツムタケの残党ね。斜堂先生のあの雰囲気を出せるなんてなかなかの変装名人だけど…でも、ああまで化けにくい人を選んだのが間違いよ」
「だって、お前…聞いてたぞ、あの男に惚れてるんじゃないのか!」
「惚れてるわよ。とことん大好きで思い入れがあるからこそ、顔と声と名前だけ同じの偽物に騙されたりしないってこと!」
顔だけでなく、口からも自然と笑い声が零れ出る。もう笑うしかないというものだ。傍の立木に拳を叩きつけながら、感情を抑えることもしないまま、吹っ切れたは笑いの発作に身を任せて思うさま笑いころげた。
ああ、ああ。数分前の自分はどうしてこんなものにこだわっていたのだろう。まったくもって、馬鹿馬鹿しいにも程があるじゃあないか。
   
姿かたちだけを真似た偽物に口説かれたからといって、それがなんだ。
いかほど甘い言葉をもらおうが、優しい特別扱いを受けようが、びた一文の価値もない。
常の彼とはかけ離れたあんなまがいものに惹かれるようなら、自分はいったい斜堂のどこに惚れているというのだ。
   
気付くと同時に無性に愉快になって、また笑って、笑って、それからまったく納得がいかないと言いたげな表情の…斜堂とは似ても似つかぬその男へ、笑い交じりの説明を向けてやる。
「斜堂先生はもっと薄暗くて陰気で気弱げで…あんな強気な人じゃないの。それほど深い付き合いもない他人に簡単に触ったりもしないし、よりにもよって表でなんて、絶対言うもんですか…潔癖症なんだから、それも重度の。そこを取っ払って不自然な特別扱いされたところで、怒りはしても嬉しいわけないでしょ。あんなので騙そうなんて私をどんなスイーツだと思ってるのよ。
 まあよく見もしないで結構がんばった方だと思うけど、騙されたり、は…あー、でも、ほんと危なかった…」
三人組と和尚と、それから本物の斜堂がこちらへ駆け寄ってくる足音を聞きながら、やっと笑いの収まったはひとつ深々と息をついた。
「あのらしくない台詞で目が覚めなかったら、どうなってたかわからないぐらい」
   
   
「…お前、本気でべた惚れなんだなあ…悪趣味にも程があるだろうに」
「ほっといてくれない?
 あと一つ言っておくけど、本物にこのこと言ったらあんたの歯全部微塵で砕くからね」