暗い。
ひどく暗く狭い場所で、は為す術もなく震えながら膝を抱えていた。つい先ほど見たものはあまりにも非現実的な…いかに話には聞こうとも、今まで平和な日常生活に浸りきっていた身には受け入れ難い出来事。
強い力で掴まれた手の、未だ生々しい痕の残る痛みであり…また普通の男だった顔が一瞬で変わり果てぎょろりと目を剥いた、ヒトならざるもののおぞましい笑みでもあった。
(油断…は、してなかったはずなんだけど)
手に引っかかったまま持ってきた革の鞄を、それだけが命綱だというように強く胸に抱く。
(どう…どうしよう、…どうすればいい?)
今の状況下では、心中を埋めつくす言葉を一言なりと口に出してはならないとは直感した。
声に出してしまえば確実に弱音になる。弱音を吐けばその分だけ心が食われる。心を擦り減らせば、その分生きて帰る確率は下がる。それが故に。
こわい、とは、口が裂けても言うわけにはいかなかった。
   
 * * *
   
ことの発端からは、思うに10分と経ってはいない。
“柔らかい石”の検査施設に行くことを了承こそしたものの、いくら何でも舞台衣装のままであちこちうろつき回るわけにはいかないだろう、と阿紫花が提案したことによる。
は有り難くそれに賛同した。…それもそのはずで、今の格好では動きにくいにもほどがある。丈は踝まで届くほど長く取ってあり、ざっくりと膝上までスリットの入った…さらに肩や背中の剥き出しになるホルターネックのドレス。青というよりブルーブラックの生地は、胸元と腰回りに人工の宝石が都会の星空のようにあえかな輝きを添えている。いくら気に入って購入したといっても、まさか昼日中に着るものではないだろう。
(申し訳程度に阿紫花からコートを借りて羽織ってはいるが、焼け石に水なのは鏡を見るまでもなく明らかであった)(むしろドレスの上に男もののコートでは不審さはいや増している)
夜の繁華街ならばともかく、これでは男二人をどうこう言えない不審人物…いや、仮に繁華街だったとしても、連れ立って歩いていたらどう頑張ったところで同伴出勤としか見えないに違いなかった。
とりあえず動き易ければあまり種類は問わない、と指定にもならぬ指定をしてみると、ジョージは割合あっさりと承諾し、比較的安価で知られる衣料品店に車を止めた。少し意外には思ったが、果たしてその判断はを気遣ってくれたのか、もしくは渋って言い合いになるのは面倒だと思っただけか。…十中八九、後者であろう。
場合も場合だ、選り好みをする気はあまりない。数点選んで会計を済ませようとした時…阿紫花とジョージ、二人の目がほんの少し離れた瞬間。
品物を受け取ろうと伸ばしたこちらの手を、レジを跨ぐように伸ばされた店員の手ががっちりと掴んだ。
その瞬間“店員であったもの”が見せた表情の変化は生涯忘れられまい。
   
きりきり、きりきり、と歯車の回る音がいやに耳に付く。目尻の細かな皺や毛細血管さえ視認できるほど作り込まれた瞳が人間の限界を超えて見開かれ、大仰な瞬きを繰り返す。事前に聞いた情報では感情を解さないと言われていたが、の目にその顔はひどく邪悪な、加虐の愉悦に震える悪魔のそれに見えた。
肺病みの鴉のようなしわがれた声が、呼ぶ。
ちゃん、みいつけた」
   
“それ”を見たのが自分一人だったことは幸いだ。子供でも見ていたらどれだけ深いトラウマを刻み込むことになったか知れない。
後のことは未だ記憶の整理がつかない。蛇腹状の腕をぐいと伸ばしての身体を掬い取り、元の二倍ほどもあるサイズに膨れ上がった樽に似た形の身体…そのからっぽの腹の中に押し込めて攫ったのだとどうにか理解している。
しかし移動していないわけもないだろうに、その振動が殆ど感じられないのはどうしたことなのか。表が見えない分恐怖は募った。
「なにが、どうなってるの…どうすればいいの」
歯の根が合わない。頭が回らない。口に出すことだけはぎりぎりで堪え切っても、脳を侵す恐怖は知らずのうちに涙を溢れさせる。
話には聞いていた、了解していたつもりだったが。それでもまさか本当にヒトでないものが襲ってくるなどと、自分はまったく分かっていなかった。いざ自分の身に危険が迫れば、冷静に四の五の考えていられる余裕などどこにも残りはしない。
物事を考えるのは脳味噌であっても、それでさえ所詮頭蓋骨の中に入った内臓なのだ。
「…た、」
たすけて、と声に出しかけた時。
服の中で何かが震え出した。
   
事前に渡されていた通信機だ。サイズは成人女性の掌に収まるほどで、隠密行動の最中でも使えるように音は出ない仕様になっているという話だった。
「もしもし?」
「こちらジョージだ。通信機の使い方を教えておいてよかった…静かに聞け、少し厄介なことになった」
言われた内容はともかく、味方の声を聞いたことでは一気に安堵した。渡された時念を入れて首から下げていたことも幸運だったろう。
「ジョージさん…よ、よかった…ねえ、私今どうなってるの? 何も見えなくて、捕まってることしかわからないの」
暫時、返答は返ってこなかった。
向こう側でなにやら争う気配と、甲高い悲鳴や怒号が漏れ聞こえてくる。
(自動人形…私を捕まえたやつみたいなのが、まだいるのかしら)
時間にすれば十秒も経ってはいなかったろう。次に通話口から聞こえた声はジョージではなく阿紫花のそれだった。
「ねーさん、無事ですかい!」
「え、今度は阿紫花さん?」
「ジョージの兄さん、ちょいと人形に囲まれて手が塞がっちまいやしてね。それであたしに…
 くそ、洒落臭え! 三下はすっこんでろい!」
こちらはこちらでやはり自動人形に襲われているのだろう。周囲の悲鳴や派手な破壊音にかき消されそうになりながら、それでも相棒よりはまだ余裕があるのか、今度は声が途切れる様子はなかった。
「ったく、程度はたかが知れてるってのに数が多くていけねえ…大声出さずに聞いてくだせえよ、簡単に言いやすとね」
「え、ええ」
「ねーさん、あんた空の上に連れてかれちまったんでさあ」
「……エッ」
   
いくら何でも簡潔に過ぎて、恐怖も不安も動揺も一瞬飛んだ。
   
「さっきねーさんを浚ってったのは、空飛べるタイプの奴で…要はそいつの腹ん中に閉じ込められて、そのまんまこっちの手の届かねえとこまで連れてかれちまったんです」
「じゃ、じゃあ何も見えないけど、ここ空の上なの?」
「そういうことで。…大口叩いて面目ねえんですが、地面の上のあたしじゃとても手が出せやせんね。ついでに空まで行けそうな兄さんの方は、人形どもにがっちり張られちまった…それで、」
「そんな!」
「静かに、静かに聞いてくだせえって。不安にさせちまったのァ申し訳ねえ…ただ、さすがにこちとら無策ってわけじゃありやせんよ。あんたにちょいとやって貰いてえことがあるだけで」
次いで阿紫花の言い出した作戦に、は今度こそ声も出なくなった。
「今あんたをとっ捕まえてる人形に一発かまして、そっから落っこちてくれりゃいいんでさあ」