“渡された武器と通信機を常に身に付けておくこと”と“捕まったらできるだけ無力を装って、通信機の電源だけは入れる。声は出さないこと”が私に事前に言い含められた注意事項である。言わんとすることはわかるがそれにしても大雑把だ。指令と言うほどのことでさえない。それとも刻々と状況が変化していく実戦となれば案外こんなものなのか。
まあ幾らなんでも飛行タイプに空の上に連れて行かれる、しかも客ならまだしも店員に化けるなどとはさすがに想定していなかったのでそんなものだと思う。
…注視したら血が付いていたが、あの制服を奪われた店員さんがどうなったかはあえて考えないようにした。あとで黙祷しておこう。
「はあ…とりあえず間に合ってよかったわ。やっつけたまでは良くても、あんなとこから転落死じゃ洒落にならないもの」
「笑い事じゃありやせんが、笑うしかねえでしょうねえ」
そう言う阿紫花さんは口調こそ余裕を保っているが、注意深く見ると珍しいことに少し顔色が悪い。護衛対象を目の前で浚われたのはこの人にとっても痛い誤算なのかもしれなかった。
「そら、下ろしてやんな。グリモルディ」
「うわ」
人より遙かに大きい人形を両手の糸で操ると、“彼”はなめらかな動きで首をもたげ、そっと私を地面の上に下ろした。目元を仮面で覆い特徴的な帽子を被った…よく見ると割合端整な顔立ちの人形だ。どうでもいいが名前もとてもかわいい。
「グリモルディ、って言うの…これが阿紫花さんの人形?」
「へえ。最初は違ったんですがね、こいつたァちょいと縁がありやして、今はあたしのでさあ」
黒賀の人形使い、という集団が普通いくつ人形を持っているかは知らないが、時々持っていた謎の大荷物の正体はこれだろう。そうなると、武器を内蔵したこういう人形を常日頃から持ち歩いていることになって…
(…私の部屋やお店を出たその足で誰か殺しに行ったり、とか…やっぱりそういうこともあったのかしら)
あった、のだろう。その手のことを知っても精神衛生上よろしくないので聞かない。
   
閑話休題。さすがというか何というか、元々二人からしてみれば大した相手でもなかったようで、頭上から下ろされた時には自動人形は全滅していた。
「野次馬はいないのね」
「かなり派手にやっちまいやしたからね。てめえの方にまで被害が行くかもしれねえってのにわざわざ居残るバカもいねえでしょうよ」
「はたから見たら人間対人間だしね、当然怖…って、あれ?」
「なんですかい?」
人間対人間に見えるのならますますおかしくはないのか、この状況は!
「だってこれ、喧嘩どころか殺し合いに見えるじゃない! 人間にしては歯車とか装甲の破片が見えてるけど…でもこんな一見すると殺人現場に、なんで警察も呼ばれてないの?」
「ああ、そりゃあですね」
「警察は向こうだ。この近辺の封鎖と情報規制を頼んである」
「ジョージさん。そっちは終わったの?」
足止めをしていた自動人形にどうやらかなり手間取らされていたらしいが、見る限り二人とも目立った怪我はないようだった。何よりだ。
そしてジョージさんが言うことには、対自動人形を旨とする以上(何せ彼等はあれだけ精密に人間に化けられるのだから)一般市民の混乱を招かないよう、同時にできる限りスムーズに自動人形を駆逐できるように“しろがね”は全国のありとあらゆる機関に名を通してあるのだとか。
「しろがね…って、そんなに影響力のある組織なの?」
「今更何を間抜けなことを」
ルシール女史に聞かれたら鼻で笑われるだろうな、とか知らない名前が聞こえたが、この人のことなので詳細は聞いても教えてくれなさそうである。
「サハラで随分数は減っちまったってことですが、何万単位の員数がいたってこたァ聞きやしたね。…まあこれ以上は言っても悲惨なだけなんでね、やめときまさあ」
「そもそも私達が数千単位だと思う方がおかしいだろう。世界中に散らばった人形どもを相手にするのだから」
「うわー…」
つくづく世の中とんでもない話があるものだ。
同時に思う。知らないと言うことはとても幸せなのだろう。
なんだかんだと巻き込まれて今この場で国際組織の説明なんぞを聞いている身の私も、元々は何も知らずに日常生活を送っていた身なのだ。私のいたクラブは繁華街近くだったので、時々あまり柄のよろしくないお客さんも来たし(それはもう目の前でグリモルディちゃんをトランクに詰め直している人とか)酔っ払いをつまみ出したことぐらいはあるが、こんな死闘に立ち会うなど考えたことさえない。
そして“知らない”ことは“ない”ことと同義だ。
彼等が常識として知っていることを、私は知らない。さらに今の私が知っていること、了解していることを、その辺を普通に歩いている人は何も知らない。
ごく平和な日常の有難み。…小説や漫画でよく使われる表現を、今心底思い知った。
また、いざとなれば肚をくくって戦わなければ生き残れないこと。
(もうびびったりしない…は無理でも、少なくとも、さっきみたいに固まって泣き出したりしたら、死ぬかもしれない。相手があんな人形じゃ、命の保証はどこにもない)
   
私は手の中のナイフの柄を強く握った。武器の材質には詳しくないが、手に吸いつくようにしっくりと馴染む不思議な質感。素人でも扱いやすいようにできているのだろう。
次に会ったら、もっと思い切って動く。
いかに巻き込まれただけの一般人でも、いや、一般人だからこそ、意識して立ち回らなければ危険性は高くなるばかりに違いない。
「ところで、君が気付いているかどうかは分からないが」
「え?」
ひっそりと沈んだ思考のただ中から意識をすくい上げたのは、ジョージさんのひどく冷静な声と…阿紫花さんがさっきから浮かべている、なんと言い表せばいいのか困るいやらしい笑みだった。
「コートの前は閉めることを勧める」
   
……。
「えっ、ちょっ、な、なんで気がついた時に言ってくれないのよ! この格好で歩いてたら通報される!」
   
落ちる時にどこかに引っかけたのか、グリモルディちゃんの頭上に抱えられていた時なのか。お気に入りのドレスの大部分と下着の一部が無惨に破れて、昼日中の往来に大変ふさわしからぬことになっていた。指摘されるわけだ。
恥ずかしくないわけでは談じてないが、もうこの際ギャラリーがいなかったことを幸いに思うしかない。
「まあ今のままでも目の正月ってやつで、あたしゃ一向に構いやせんが」
「…アシハナ、つくづく思うがなぜそう下品なことしか言わないのだ」
「またまたー、兄さんだってキライってわけじゃねえでしょうが」
「そういう問題か! 少なくともお前ほど下卑た視線で異性を見ることは私には有り得ん話だ」
「そうでしょうよ、“しろがね-O”ってのァ確かそういう欲求もほとんどねえって何回も聞きやしたからね」
「ではなぜ私にその手の話を振る」
「そりゃ勿論あんたの人間臭ェ反応がおもしれえからで」
しれっとそんなことを言うので、またジョージさんが目に見えてむかついている。いつも思うことながら阿紫花さんは言葉より語調や表情の煽りスキルが大層高い。
「それにしても黒レースたァなかなかいい趣味で」
「…それ以上言ったらいくら阿紫花さんでも殴るからね。顔面を。グーで」
   
とりあえず、いろいろあって落とした着替えの替えはジョージさんがいつの間にか用意してくれていた。自腹ではなさそうだからたぶん必要経費みたいなものを認められているんだろう。