わたしがそのノートを見つけたのは、まったくの偶然だった。

「デスノート?」
直訳すれば、死のノート。
黒い表紙のそれを拾い上げてざっと中を見てみるとページはすべて真っ白で、表紙の裏に英語…それもかなり癖の強い字体で使用方法が表記してある。得意かと聞かれれば英語は苦手と答えざるを得ないが、とりあえず箇条書きにされている最初の一文だけは読み取れた。
このノートに名前を書かれた人間は、死ぬ。
(バカバカしい)
そんなご大層な力を持ったノートが、なんだって駅の構内になんか落ちていたのだか。しかも今は通勤時間の真っ盛り…わたしが拾わなければ誰一人気がつかないまま、大勢に踏みつけられてボロボロになりそうなものだ。
しかしまあ、落ちていたにしては汚れも使われた形跡もない。もらっていってメモにでもしよう。

それっきり、わたしはノートの使用法など忘れてしまった。
家に帰って放り出してからは、それこそ意識の端にすら浮かぶことはなかった。
だというのに。











ある週末の、仕事帰りのこと。
戸に二つ付けられた鍵を閉めチェーンをかけてから、わたしは重い足を引きずるようにゆっくりとリビングに向かった。ジャケットを脱いでソファの背に引っかけ、次いで鞄からノートを出してテーブルに放り投げる。
「疲れた…寝ようかな」
何か簡単なものでも作って、今日はこのまま寝てしまおうか。そう思ったとき、どこからとなく低い声が聞こえた。

「まあ待て。寝る前にちょっと俺の話を聞けよ」


「誰!」
咄嗟に、ひどくきつい響きを伴った誰何の言葉が飛び出した。
それもそのはず、わたしが帰ってからまずすることといえば鍵を二つしっかり施錠することとドアチェーンをかけること。窓だってちゃんと鍵をかけてカーテンを閉めている。女の一人暮らしなだけに防犯には気をつけているというのに。
(いったいどこから入った変態野郎ッ! まさかベッド下に潜んでたんじゃないでしょうね!)
しかし随分掃除をサボったせいで埃まみれなのだけれど、あのベッド下に潜めたら本気でたいしたものではある。常人なら確実に喘息になるはずだ。
とりあえずは護身とばかり台所に走り、よく研ぎ澄ませた出刃包丁に手を伸ばすと、今度はもっと近くから声がした。
「無理無理、俺はそんなもので刺しても死なないからな」
言葉が途切れると同時に目の前へ現れたものを、見るや否や。
わたしは思わず悲鳴を上げた。


「こっ、ここ、こ、こ」
「ニワトリ?」
「違うッ!
 この部屋に、幽霊が出るなんて聞いたことないわよ! くっそその点は大丈夫ってあんなイイ笑顔で請け負っておいて騙したのね管理人さんのバカ! 訴えてやる!」
だいたいこんなのが出るとわかってれば、家賃をもう少し値下げしてくれてもよさそうなものじゃないか!
「いや俺幽霊じゃないし、管理人は悪くないんだけどな」
ぬけぬけとそんなことを言い放った「その存在」を一言で表すならば、化け物としか言いようはないだろう。
黒い翼を持った悪魔とも死神ともつかない異形が、目の前に浮かんで余裕げにわたしを見下ろしていた。


「まあ落ち着けよ。デスノートを持ち歩いてるってことは、もうあれがどういうものか分かってるんだろ?」
「デスノートって、あの黒い表紙の?」
「そうだ。俺はあのノートの前の持ち主、死神のリューク」
「死神…リューク」
なるほど、これは人を責めるのはお門違いというものだ。
元はわたしが変なものを拾ってきたせいだったようだが、それにしても死神とは! そういうオカルトな話は嫌いじゃない方だけれど、いざ目の前にひょいと出てこられては対処に困る。
あの裂けた口や牙、いかにも人食べそうだし。
「じゃあなに、あのノート、あなたが落としたんなら…返したほうがいいの? それとも死神の姿を見たから、問答無用に魂を抜き取る気?」
ということは、あれは本気で死神の力を持ったノートなのか。やっぱり書いたら人が死ぬのか。
とりあえずよかった、日記とかに使わなくて。
「人間はよくそう言ってるみたいだけどな、魂を抜くなんて掟はない。そのノートも人間界の地に着いた時点で人間界のもの、お前が拾った時点でお前のものだ」
「わたしの、もの…」
「ああ。どんな風に使おうが俺は一切口を出さないし、干渉もしない。ま、面白くなるに越したことはないけどな」
「だったら、怒ったりしないわね?」
「なんで」
わたしはリビングに戻ると、テーブルからノートを取り上げて中を開いてみせた。
「…………。」
あ、絶句した。
死神を黙らせてしまった。


「ご期待に反して悪いんだけど。
 ……買い物ノートにしちゃった」


死神…リュークが絶句するのも無理はない。モノは人を殺す力を持つ道具だ。話が本当ならば…死神まで見ておいて今更真偽を問うのもバカバカしいけれど…このノートは数年前に世間を騒がせた、姿を見せずに人を殺めるシリアルキラーを思い起こさせる。
持つ人が人なら、それこそまさに大量殺人が起きているのだろう。なんの変哲もないように見えるこのノート一冊で。
その人知を越えた力を持つ兵器の使い道が、こともあろうに買い物ノート。ページ一面に食材やら生活用品やらその日出る雑誌やら、日付と一緒にやたら無作為に書き留めてある。しかも本人でなければ判読不能! と友人たちからお墨付きをもらった悪筆で。
こんな使い方したの、ひょっとしたら史上初じゃなかろうか。
「いや、悪気はなかったのよ? でもわたしほとんど英語読めないし、最初に読んだ人を殺せる云々のくだりも信用してなかったっていうか…ぶっちゃけると手の込んだガキのイタズラだと思ってたし」
言うと、死神は。
「ク、クククク…人間ってやっぱ面白! 俺が前に憑いてた奴なんてそれこそ山ほど殺したのに、今度は反対に頭から信じないなんてな!」
笑いやがった。

「一口に人間っても、いろんな考えの人がいるもの」
見損なわないで欲しいものだ。
使うことなど考えられない。それよりは自分の手を汚すことなく人を殺せるノートなど、手元にある方が気持ち悪い。
(呪われたりしないでしょうね…いや今更か。死神が側にいるってほうが色々アレだわ)
「そういえば、リュークって言ったっけ…どうしてわたしのところに来たの? 干渉しないって言うなら放っておいてもいいんじゃない?」
「死神の掟でな、そうもいかないんだ。人間界にノートを落として先に人間に拾われた場合、その人間の最期かノートの最期を見届けないとならない。
 その人間の側を、離れずにな」

…………。
ということは?

「これからよろしくな」
「これからってつまり、わたしに取り憑くってこと!? 駄目駄目駄目絶対駄目ッ! 他人にその姿見られたらとんでもないことになるわ! コスプレでごまかせるような人外度じゃないし、マスコミにあれこれ聞かれて全国に恥晒すなんていやよ!」
第一、この物件はペット禁止だ。
とはいえ、もう半ば黙認レベルなのでこっそり飼ってる人はたくさんいるようだけど、たいがい猫や小型犬。人以上のサイズのを飼っていいとは思えない。
「ああ、それなら大丈夫だ。俺の姿はデスノートを触った奴にしか見えないからな。死神は基本的にもの食わないし」
「ほんとでしょうね。少し霊感の強い人には見えちゃうとか、そんなオチはないわね? 本当にバレないならいいんだけど…」
知らずのうちに疑いの目になっていたのか、リュークは裂けた口をにやりと歪ませて喉で笑った。
「そうだな…信用できないって言うなら、見せてやるか」

次いで死神は窓に向かうと、いとも簡単にガラスをすり抜けて夜空に身を踊らせた。
「…え、」


「そのデスノートに触れない限り、お前以外の誰も俺を見ることはできない」
窓の向こう…空中に静止しているリュークに(これほど目立つ姿にだ!)まったく視線が向けられていない。人はそれなりにいるというのに、誰一人として。
これは納得するしかないようだ。


「わかったか?」
「否応なくわかった」
同時に、おかしなものを拾うのは金輪際やめようと痛感した。
「しょうがないか…じゃ、とりあえずはよろしく、死神リューク」

それから、わたしは自分の名を名乗った。もうリュークには主の名前くらいわかっていたかもしれないけれど、まあ、そこは礼儀として。
これだけ喋って、名乗ったのが今頃というのもどんなものだろうか。
ぼんやりと妙なことを考えながら、わたしは死神にねだられるままに冷蔵庫から林檎を取り出してやった。話を聞くと、人間にとっての嗜好品にあたるらしい。
買い置きしておいてよかった。
本来はアップルパイに使う予定で買ってきたのだけど…
まあ…もう、いいか。


なんだか、驚くほどすんなりといろいろなものを諦めてしまった日だった。