今夜はひどく荒れそうだ。
目的の人物を探すべくゲート奥の人混みを透かし見ながら、私は僅かに首を振って嘆息した。さながら天候までもが今日の不穏な空気を感じ取っているよう。風が強くざわめき唸りを上げて、灰色の雲を空の彼方へ押しやっていく。雨ですむならまだしも、最悪雷が鳴ってもおかしくはない天気だ。
まあ、そうなったらなったで仕方がない。それよりも当面の問題は、私が練習生として所属する鴨川ボクシングジムの、後輩の試合である。もちろん何もないに越したことはないのだが、相手が相手だ。
曲者で知られる彼とあっては荒れずに済むまい。


私が暫く目標を捕捉したとき、当の彼は今にも空港を出ようとしているところだった。
いかにも試合が待ち遠しいと言いたげに、目に見えて楽しそうな表情。仕立てのよさそうな帽子を指先でくるくる回す一連の仕草が、実に軽やかで様になっている。思った以上に手先が器用な口だろう。
彼の名は、マルコム・ゲドー。幕之内一歩選手が今回対戦する相手だ。
痩身に纏った白いスーツがおかしいほどしっくりと馴染んでいて、一見したところではそれほど強そうに見えないが(ボクサーというよりカジノを渡り歩いて生計を立てるギャンブラーだと言われたほうが納得いきそうな雰囲気だが、そこは私の中であのポスターのイメージが強く出ているからだろう)油断は禁物。
私は彼の後ろに立つと、低く押さえた声で呼びかけた。
「失礼。Mr.ゲドー」
「ン?」
怪訝そうに振り返った彼に軽く会釈して名前と所属ジムを告げると(一度ジムに来たから私の方は知っているが、向こうのほうは絶対に認識しているまい)にやりと笑い、こちらの用は心得ているとばかり幾度か頷いた。
どうやら肝心なところを間違っているようだが、特に今すぐ正すべきでもない。
「Yes understand! あなた幕之内の友人デスカ…なら話は簡単デス」
後ろに控えたマネージャーと顔を見合わせ、英語とはまるきり違う聞き慣れない言葉でなにやら囁き交わす。
やはり八百長に荷担すると取っているようだ。
「まあ、そうですね。他ならぬこの度の試合のことで、私から一つ提案があります。
 …しかし、ここから先は関係者といえどあまり大勢の耳に入れられない類の話でして…唐突で不躾とは存じますがMr.ゲドー、そちらのご都合さえよろしければ、今すぐお一人だけでついて来ていただけませんか?」
もう一言。
貴方にとって損な話ではないはずですと軽く仄めかすと、案の定楽しげに私の後をついてきた。

「このあたりなら、誰にも聞かれずに済むでしょう」
「…あなたの言う、提案トハ?」
早速、である。
喫茶店の奥まった席に座るや否や、彼は依然として笑いながら切り出してきた。こちらが何を言いたいかは察している、四の五の抜かさず払うものさえ払えば誰にも何も気付かせないように勝たせてやるぞ…と。そんな表情で。
「提案というのは他でもありません。
 幕之内一歩に、負けて欲しい…などという話ではなく、むしろ真逆なんですよ」
その言葉に、マルコム・ゲドーはようやっと笑みを崩してくれた。
「逆? …どういう意味デスカ?」
「ごく簡単なことです。
 よろしいですか、Mr.ゲドー? 私はね、うちの幕之内の相手をする方には真剣勝負を望んでいるんです。後輩といえど…いえ、可愛い後輩であるがこそ手を抜かれての勝利など嬉しいはずもない…ましてや八百長など言語道断」
ここまでほぼ一息に捲し立てた声の調子で、彼はようやく気づいてくれたようだ。
私がこの一件で、それはもう怒っていることを。
八木さんは、仕事と割り切ってリングに上がるボクサーは珍しくないと言っていた。私もそのスタンス自体はむしろ好ましく思う。あまり食べるに困らない国柄のせいなのか、日本人は自分の仕事に不必要なまでに力んだ誇りを持ちすぎるところがあるし、私としてもそういった人間は嫌いだ。自分で言うのもなんだが白身魚ばりに淡泊だという自覚がある。
しかし、八百長試合などとなれば話は別である。うちの…鴨川ジムの看板の一枚、世界ランカー幕之内一歩をそうまでなめられてはたまったものじゃない。
あの子は今までずっと黙って見てても勝ってきたのだ。今の今更、何を勝たせてもらう道理があるものか!
「ここに、50万用意しました」
ジャケットの内ポケットから封筒を取り出し、中を改めてみせる。
「あなたにとって高額ではないかもしれませんが…ファイトマネーに加えて、KO勝ちなら全額。判定勝ちなら半額を確約しましょう」
ですからどうか、本気で掛かってください。
付け加えて、私はじっと相手に視線を据えた。金で動く男だというのは先日確認したばかり。だからこそ、こうでも言えば乗ってくるだろうと持ち金あるだけかき集めてきたのだ。
驚かせたと思ったのも束の間、先ほどから彼はまるっきり表情を変えていない。ジムで見せたような賢しげで人を小馬鹿にした笑い方ではなく、口元にだけ薄く笑みを浮かべて、不敵にこちらを見返している。
「もう、一声デスネ」
言うような気は、した。しかし私が出せるのはこれが限度だ。
「そう言われましても…私は今回ジムを通さず個人的に来ていますので、これ以上の金額は「オット、私がいつマネーと言いまシタ?」
事あるごとに言う癖に、今更なにを白々しい。
「金額の問題でなければ、なんです?」
マルコム・ゲドーは言葉では返さず、代わりにゆっくりと「答え」を指し示してみせた。

…私を。

「私が勝ったら、掛け金と一緒にアナタも貰いタイ。
 アナタに一晩中私の言うコト聞いてもらいマス。この条件、飲めますカ」
「な、!」
なんだって?
つまり私の提示した額にプラスして、一晩好きなように抱かせろと? つい先日、ジムであれだけ吹っ掛けておいて?
こ…










知らずのうちに握っていた拳が、ひどく震える。怒りで震えたのはこれが初めてだ。できることなら今この場で足腰立たなくなるほどぶん殴って国に送り返してやりたいところだが、そうはいくまい。
会長に続きうちのジムから二連チャンで傷害事件を起こすのも十分問題なのだけれど、そもそも「傷害」できるかどうかが一番怪しいところだ。
私も女性の中ではそれなりに力のあるほうだが、なにせ相手は現役のボクサー。うまいことかわされた挙げ句笑われてお仕舞いだろう。バカにされた上、こっちから手を出したからといって慰謝料を取られるような展開になっては泣くに泣けない。きっと皆に怒られる。
落ち着け。落ち着け私。激昂したら相手の思うつぼだ。

「いいでしょう。
 …挑発に、乗って差し上げます」
ああ、まったく。この言い方は紛れもなく会長の影響じゃないか。私も柄が悪くなったものだ。
元はといえばこっちから売った喧嘩、多少条件を吹っ掛けられたところでぐらついてたまるものか。第一なんだ一晩くらい。減るものでもあるまいし。
それに試合をするのは私じゃなく、強打で知られる幕之内一歩なのだから。
負ける訳があるものか。


 * * *


本当におかしなことになったものだ。
今までの試合の中で金を賭けたことは珍しくないが、こうした二重の賭けをするのはさすがに初めてだ。
しかもその女は誰に強要されるでもなく、自ら進んで持金を全額賭けると言っている。俺の常識からしてみれば愚かしい限りだが、なるほど、日本人にはおかしくない考えであるのかもしれない。痩せ我慢と自己犠牲をセンチメンタルに美化する民族ならでは。
経済大国と呼ばれるほど豊かであるからこそ、これほどに甘い考えが浮かぶのか。そう思うと、ふと意地の悪い考えが脳裏をよぎった。
相手の全身を舐めるように視線を這わせると、不審げにこちらを見返してきた。
今まで気付かなかったが、改めて見るとなかなかいい身体をしている。(勿論プロにはなり得ないけれど)ボクシングジムの練習生というだけのことはあって、適度に引き締まって筋肉のついた…けれどとても柔らかそうな肢体。
思いついたことを告げたら、この目は烈火のような熱を帯びて怒るだろう。ことによっては平手打ちの一つも見舞われるかもしれない。
しかし…
(言って、怒らせてもみたい)
俺にしては相当に珍しい考えだ。いつもなら金にもならない…否、それどころか金の絡んだ話を台無しにしかねない(有無を言わせず席を立たれる可能性だって十分に有り得るというのに)考えなど決して起こさないにも関わらず。
それとも煽って怒らせるだけでは厭き足らず、本当にこの女を抱いてみたいのか。
だから、こんなことを?

「もう、一声デスネ」
まあ、なんだっていい。どういう条件であれ、この気性の荒さなら乗ってくるだろう。
せいぜい覚悟をしておくことだ、日本の小娘。
試合ではこの魔術師の手並みをいやというほど御覧に入れよう。賞金も世界ランキングもお前自身も、全てまとめて俺が戴くまでだ。

そうしたら頬張り尽くし食い尽くして、骨の随まで思い知らせてやる。