落ちてきた、私の体積の十倍はあろうかという瓦礫を微妙な体勢から何とか避けられたのは自身の反射神経を褒めてもいい。ただ、その時足の骨にヒビでも入ったのだろう。その瞬間はさほど痛みを感じなかったけれど時間が経つほどにひどく痛んで、今や、もう駄目だ動くなさっさと止まれと絶え間なくレッドシグナルを発し限界を訴えている。しかし残念なことに止まれない。足が一本動かなくなるより命の方が重要だ。なにせ監獄のボス…マゼランはすぐ後ろにいるのだから、ここで倒れたら確実に地獄のヒドラの餌食になる。私は麦わらほど強い奇跡を起こせたりしないから、動きを止めてあの毒の竜にやられたらすべてがお仕舞い。麻痺性の毒に神経を焼かれ、耐えがたい痛みに声を上げて床を転げ回って、死ぬだけ。拷問を受ける余地もない確定の話。だからこの足が砕けても逃げる。ああ早く! 早く早く早く早く早く早く



逃げないと。
走らないと。
それなのに呆れるほど弱い身体は私の意志と裏腹、あっさりと限界を迎えた。
落ちていた武器に足を取られて、ぐらりと大きく身体が傾ぐ。重力に逆らえぬままその場に倒れ込む。周りの声ももうほとんどノイズのようで聞き取れない。きっと誰も助けてなどくれないに決まってる。そもそも私だって望んで犯罪者になった身、今さら助けてなんてどの口で抜かせるか。
ああ、もう、駄目だ。
最後まで目を背けてたまるものかとマゼランを睨み付けた一瞬後。視界中を埋め尽くしたのは毒ではなく、
純白の壁。


「………なに、あの変な人」
呟いた言葉は私以外誰の耳にも届かず、消えた。


* * *


「私はドルドルの実のキャンドル人間。鉄の硬度のこの蝋の壁は、毒液など通しはしない」

マゼランと話している内容を聞いて納得した。
ああそうか、この人も能力者。それも蝋燭なら、壁を作れば成程…毒液をガードするのはわけもないだろう。すぐ近くにいたイワさんの顔見知り…クロコダイルさんが言うように、本当に能力の相性というものは馬鹿にできない。
ともかくまあ、今ここを凌げたのはずいぶん助かった。しかもありがたいことにまだ余裕がありそうだ。
今のうちに立って、逃げないと。
足は未だ震えて力が入らないけれど、なに、ここに来てからは生き意地の汚さをそれこそ基盤から叩き上げた。死に物狂いの大事さも骨身に染みるほど学んだ。何より、信じられないほど痛みに対する耐性がついた。こんな程度で騒げるか。他でもないここの拷問に比べたら屁みたいなものだ。
先程足を浚った三つ又の鉾…トライデントを引き寄せ、杖代わりに握りしめて立ち上がる。
行けそうだ。いや、
(…行く。
 力強く床を蹴って、なんて無茶は言わないから、頼むから。少しだけ保ってよ?)
もう少し、持ち主の意志に従ってくれ。心中でそう言い聞かせて踵を返し、
「うわ!」
走り出そうとしたところで、痛む右足の爪先から膝のあたりまでを薄く蝋が覆い、瞬時にブーツのような形状で固まりついた。
背後から声が飛ぶ。
「それなら、少しは満足に走れるだろう」
視線を向けると、…名前知らないけど3頭の男は今度は麦わらをコーティングしている。あ、麦わらの方はなんかおかしな格好にされた。泣いて感謝を述べているけどアレ…かっこいいか? いいんだけどね。人の趣味を否定はするまい。
「あの、」
「なんだ! 話は後にして行きたまえよ、私も早く逃げたいんだガネ!」
もちろんわかってますよ。たぶん私は、どちらといえば麦わらよりは貴方に近い心持ちでいるから、その気持ちは十分わかります。怪我があって足手纏いになることが解っているのに、ここに留まってお手伝いを…なんてバカは言わない。でも。
   
「ええ…今行く。
 ありがとう、どうかあなたも無事で!」
お礼ぐらい言わせてくださいよ、恩人なんだから。
   
   
   
悲鳴や怒号、銃声、断末魔の叫びを振り払って戦場の隙間を縫い、駆け抜ける。
痛みは(それほど)強くない。少なくともさっきよりずっとましだ。ひょっとしたら後々足が動かなくなるかもしれないが、そしたらその時考えればいい。とにかくこのペースならまだ持ちそうだ。
もちろん一時の危機を凌いだだけで、生きて出られると決まった訳でもない、まだまだ油断も楽観視も許されない状況だけど。でも麦わらやイワさん達と一緒にここから逃げられたら…少しだけでも落ち着けたら、もう一回お礼を言おう。それと名前聞こう。
周りの呼び方なんだか気になる。
(あの人、いろんな呼び方されてたしなあ)
   
『ホレ直したぜェ3兄さん!』
『お前か、Mr.3…』
『よし3! 一緒に戦うぞ!』
   
「……敬称とかつけないで素で呼ぶと、ただの…3、だけど…いいのかなあ…」
後で知る話だが、いいわけがなかった。
決してよくはなかったのだが、残念ながらこの時この場に私の呟きをわざわざ聞き咎めてツッコミを入れるような奇人など存在するはずもなく…それ故、後にきちんと話すまで、私の中でその人の名前は暫定「3」であった。
たいそう失礼な話ではあろう。でもどう考えてもあの頭が原因だから反省はしていない。
   
   
* * *
   
   
― 同時刻、Mr.3 ─
   
海底監獄において恐怖そのものとさえ例えられる存在を前に、なけなしの余裕を振り絞って、男はほんの数秒余所事に意識をやった。
   
『ありがとな! …こんなにカッコよくしていただきまして…』
『ありがとう! どうかあなたも無事で!』
   
(どいつもこいつも…)
貶されることや疎まれることはどうとも思わないが、礼を言われるのは今一つ慣れていない。騙して利用する目的でならば、いくら言われようと気にも留めないはずの言葉だというのに、今はなぜか微妙に落ち着かない気分になる。
(あれもこれも、任務と同じようなもの…ただ生き残る確率を上げるためで、特に貴様らを生かす目的じゃないんだガネ!)
ほんの数分前、倒れていたのを見咎めてギブスを作ってやった…名も知らない女もそうだ。あのサポートはただの気紛れ。足を薄く蝋で包んでやるだけで、十秒すらかかりはしない。そもそも自分は造形美術家…蝋のコーティングくらい、満面の笑みで礼を言われるほどのことでもないのだ。
女の方はさほど頭は悪くなさそうだ、そのあたりを承知しての儀礼的なものかも知れないけれど。
それを差し引いても、つくづく馬鹿な連中だ。
この時点での印象はそんなものであった。
   
   
馬鹿な女の中で『3の人』なる認識をされている事実を、男は知る由もない。