「大体あなたねえ、元々こっちにいた人でもないんだから、住み着くよりもさっさと帰る方法を探す方が先決ですよ。こんなところに馴染んで、いつまでも子供らとへらへらしゃべってる場合じゃないでしょう。それでどうなるわけでなし。
 …本当にさんは、親不孝もいいところです。まったく」


「なんだよあれ! ひどい!」
「安藤先生最近変だよ!」
「土井先生や斜堂先生ならまだともかく、さんまで目の敵にして!」
やはりと言うべきかなんというか。ちょうどその場にいたから、というのもあるのだが、基本的に私と仲のいいは組は全員そりゃもう怒ってくれた。
嬉しいけど気が短いのは若いうちに直しとこう、血圧上がるから。それからいつも嫌味を言われているからいいだろうと思っても…ぶっちゃけ私もちょっと思うけど、でもさすがに土井先生と斜堂先生が気の毒だから今のは撤回しようか。
「まあまあ、みんな頭から湯気出してまでヒートアップしないでも。クールダウンクールダウン」
「あああもうなんでさんが僕達を宥めてるんですか!」
「逆でしょ普通!」
「怒らないんですか!」
「うん」
『なんで!』
「なんで、ね。は組が総掛かりで、私の代わりに怒ってくれたからね。嬉しすぎてそれどころじゃないよ」
「……だからって」
「しかしまあ嫌味はいつものこととしても、確かに最近安藤先生はちょっと不安定気味か。なにかって言うと人に喧々突っかかってくるし…なにか面白くないことでもあったのかしら、たとえばお嬢さんとか」
「女絡み?」
「いや団蔵、それは用法がおかしい」
「団蔵くんは字だけじゃなくて、国語全体をもうちょい重点的にやっといたほうがいいよ。文章力はつけて損にはならないから」
「はーい」
「あの、そんな先生みたいなコメントはいいです」
「その例えは正確じゃないよ庄ちゃん。さんが一年は組の先生なんてやったら血ヘド吐いて倒れるよ」
「ねえ兵太夫くん、それ胃のことを言ってるのかな? それとも体力面?」
「両方でーす」
「うわあサクッと決めてくれるね」
シンプルな事実だけにキレは半端ない。
仙蔵くんとこの秘蔵っ子…顧問を始め精神的に不安定なタイプが多いと評判の作法委員において、一年は組だけあってこの子の安定感は飛び抜けているなあ。
「そんなことはともかくよ。なにか原因があるはず…ここ数日特に機嫌が悪くなった要因がわかればまだ打つ手もあるんだけど、今は動向を見つつちょっと静観ってところね。迂闊なこと言ったら地雷踏みそう」


* * *


「というようなことがあったんですけど、なにか御存じないですか」
「…そうですね…直接の原因かどうかはわかりませんが、三日ほど前に小松田君から手紙を受け取っていたところを見ました」
潔癖症…もとい綺麗好きで、なのに暗くて湿ったところが好きというのは矛盾じゃないでしょうか。
いや、だからといってもこの状況に文句をつける気なんてさらさらないですけどね。
大体の仕事を済ませたあと、さて休憩だ昼寝でもするかと欠伸混じりに踵を返した途端、薄暗い茂みの中で例によってビニールシートに体育座りで蹲った斜堂先生と目が合った。始めて見た時は身体ごと引いてびびったものだったが、惚れた弱みと慣れはすごいもの…今となっては後ずさりそうなところをなんとか堪えて挨拶できるまでになった。
そして丁度考え事をしていたところだったので、ここぞとばかり斜堂先生の真向かいに膝を揃えてしゃがみこんで、経緯を説明してみたわけだ。
「三日…目に見えて不機嫌になったのはちょうどそのあたり…それかな? 手紙の送り主まではさすがにわかりませんよね」
「ええ。どこからかは聞かなかったのですが、ひょっとしたら小松田くんが見て、覚えているかもしれません…確率は低いですけど」
「あとでちょっと聞いてみますよ。本当に、率としては相当低いですけど」
けっこうひどい言い草だがこれも事実。
「さほど実害もないんで、放っておこうと思えばそうもできるんですけどね。それもそれですっきりしないもので。ただでさえ天候がすっきりしない季節に、これ以上割り切れないもの抱え込みたくないですよ。面倒臭い」
「私はこういう薄曇りの日が好きですよ。梅雨が明けると無駄に暑くなって、干上がってしまいそうで困るので…」
干物になったところで案外今と変わらないかもしれない。なんというか夕立の間にアスファルトの道路に出てきて、止んで日が照った時戻るに戻れず日干しになるミミズみたいだ。
いや言わないけど。泣きそうなほどひどい比喩だし。
「ところで、今はお暇ですか」
「ええ、休憩中です」
「よろしかったら、ここで一緒に日陰ぼっこでも…無理にとは言いません、が…ええと」
中にトエトでも住んでるんじゃないかこの人。かわいい娘さんならともかく、三十路目前の男が様子を窺うような上目遣いはよしていただきたい。陰気というか薄暗いというか、忌憚なく言えば気色悪いというか、あなたに惚れてる私でさえヒきます。ウソです。
だってどんなに気色悪くても好きなものは好きなわけで…だから、あんまり葛藤させないでください。
「もちろんご一緒します」
隣に腰を下ろすと、斜堂先生はなぜか驚いたように目を見開いてこっちを凝視した。
…あれ。そっちから誘いませんでしたっけ。
「あのう…ビニールシートに、と言ったつもりなのですが」
「ああ、これ。まあいいじゃないですか。直に座ったところで害はないし、土埃だから洗えば落ちますし」
「……格好いいですね、さんは」
「ほんとに思ってます? そんなこと言いながらこっそり幻滅してません?」
「し、してません。…私には到底真似ができませんから、そういうところはかえって…いい、と…」
「本当ですか?」
「そんな…どうして疑うんですか」
「だって斜堂先生は内に溜め込むタイプですから、嫌気が差したとしてもきっぱり言ってはくれないでしょう。…しつこく聞きたくなっちゃうんですよ」
我ながら底意地の悪い愛情表現とは分かっているが、斜堂先生は本当にいじめた時の反応がかわいくて堪らない。まして今のようにこちらが不安げにして見せたりすると、一見なんとも思っていなさそうな暗い表情の下で、どう言えばいいのかとそれはひどく狼狽しているのが分かる。
それが可愛くて、私の言葉にいつもの平坦な調子を乱してくれるのが嬉しくて、またこちらからいろいろ言って困らせてみたくなるわけだ。
まったくもって厄介な。あなたのことなんか嫌いです。
「嘘です」
「…え」
「すみません、からかい過ぎました。嫌なら今隣で話をしてないくらいもうとっくに分かってますってば。斜堂先生は本当に、わかりにくそうで結構わかり易いんですから」
ああ、これは人のことをどうこう言えない。私の中にも確かにいる。ここぞという時いざという時、ついつい大好きな相手をからかって茶化していじめてしまうトエト亜種。主に小学生男子の頭の中に生息する例のアレ。
…我事ながらいつか嫌われそうでヒヤヒヤする。
思わず苦笑するのと、通りすがりざまに冷やかし文句を投げかけられるのはほぼ同時だった。
「やれやれ…まったく最近の若い人は困りますねえ。人目のあるところで憚りもせずいちゃついてまあ、目のやり場に困るったらありません」
「「え?」」
「別にさんが誰とくっつこうが勝手ですけど、くれぐれも色に現を抜かして仕事のほうを疎かにしないでくださいよ?」
「…はあ」
言うだけ言ったら安藤先生はどこかへ行ってしまったが、いや、それより。
「なるほど…あの調子ですか」
「あの調子なんですよ」
「それにしても、いちゃついて…いましたか、今」
「どうでしょうね」
私としてはそのつもりだったけど、しかし端から見ててどうしてわかったんだ。あんなやり取りで。


* * *


食事時のピークが過ぎて生徒たちもだいたい捌け、食堂の手伝いも一段落したあたりで、こそこそと私の名を呼ぶ声がした。
。ちょっと来い」
「野村先生。なんですか、今日はラッキョウないんだから全部食べてくださいよ。私食べませんからね」
「誰がお前のような偏食家に余り物の処理なんか頼むか。いいから早く来い」
「イヤです」
なんだか知らないが、ろくなことじゃなさそうな匂いがする。
「…くそ、体力や腕力面は最低ランクのくせをして、いらん所で勘の鋭い奴め…任せたい仕事がある。お前ならさほど難しくもないことだ、損はさせん。早くしろ」
微妙に信用ならないのはやはり行いの所為か。
だいたいにおいて普段が普段から、前科がいくつもあったりするのだこの人は。(押し掛けてきた)大木先生との決闘に熱中するあまり、私がせっかく掃除したあたりを台風が通った後みたいにしてくれる…それだって一回や二回ならまだ許せるのに来るたびやる。そして見た目からしてアホならまだ救いようもあろうものを、下手に理知的に見える分だけタチが悪い。
「実技担当の先生方の中じゃ一番理性的に見えて、そりゃもう鮮やかに見かけ倒し…すぐ理性が飛ぶし制御も効かない、厄介すぎるバーサーカータイプって感じか…」
「何か言ったか!」
「なんでもないです!」
「だったらとっととついて来い。これ以上駄々を捏ねたら、明日からお前の仕事は便所掃除のみだ」
「…慎んでお受けいたします」
私は現世に鬼を見た。


「あ、さん。来てくれたんですね」
「松千代先生…廊下の角から顔半分だけ出すのよしてくださいよ」
でかい猫みたいですよ。
しかし松千代先生の頼みならそう無下に断ったりしないんだし、こっちが誘いに来れば良かったのに。いや、食堂にはまだそこそこ人がいたから入れなかったんだろうけど。まったくもって難儀な人だ。
「どうなさったんですか、お二人揃って」
「いやな、最近安藤先生の様子がおかしいのは知っているだろう」
またその話か。
「ええ、まあ。私も結構噛みつかれましたから」
「でしょうね」
「というと、私になにか関係があるんですね。もしくは性別か年頃か、原因を連想させるものがあるとか…」
「ほう、ズバリだ。なかなかいい読みをするな。
 …安藤先生の娘さんが、家にいい仲の男を連れて来たそうだ」
「うわあ」
多くを語る必要もない。その一言ですべて把握できた。
「それで私か…娘さんとはずいぶん年が違うけど、それでも独身でそこそこの仲の男がいるあたり、つい思い出して八つ当たりが来たと」
「しかも気に入らないからって突っ慳貪にしたら、ちょっと前娘さんに手紙で怒られたみたいです」
もう泣けてきた。
「それでだ、見ていられんから今出来る限り人数を集めて酒を「やっぱり帰ります」
「待て! …なぜわかった」
「わかるに決まってるじゃ、ちょっ、痛い痛い首放してください一般人相手に大人げない! 大方飲み会をやったはいいけどやっぱり突っかかられるのめんどくさいから、そこに私を連れてって引っ張り込んで風避けにしようって魂胆でしょうが!」
「本当に土壇場になればなるほど読みが冴えてきますよね、さんって…」
「損はさせんと言っただろうが。短慮は身を滅ぼすぞ、人の話は最後まで聞け」
どう考えても私にとっては損じゃないか。
「条件を聞いてもそう言えるか見ものだな。なにも言わずに耳を貸せ、いいか」
言われるままに耳を貸して、聞いた途端にひっくり返りそうになった。
「…本人に了解は取ったんですよね」
「勿論だ。さあどうする」
くそ、答えなんぞ見透かしているくせに腹の立つ。
なんだかんだと言ったところで、この人たちが本気になれば私なんぞ敵いもしないのだ。羽交い絞めで連れて行かれるのでなく交換条件付き、それもここまでおいしい餌を持ってきてくれたことに多少なりとも感謝するべきだ。いや今のは言い過ぎた。


「いいでしょう。行きますよ。
 斜堂先生が傍に侍ってお酌してくれるとまで言うなら、安藤先生の嫌味ぐらい何ぼのもんですか」


「よく言った。…ああそうだ。言い忘れていたが、今丁度斜堂先生が執拗に絡まれて困っていたから、早めに助けてやれば株も上がるだろうな」
「…結局どうあがいても無駄ってことでしたか」
それを最後に持ってきて否応なしにテンション上げてくるあたり、ぬぐい切れない根性の悪さが窺い知れますよ。
「すみません、できればさんに頼んだりはしたくなかったんですけど…安藤先生は酔うと、そのう…」
「ええ知ってます、普段の三割増厄介になりますよね」
教職員の間では有名なのだ。
執拗というかねちっこいというか、しかも誰が聞いても反論の余地のないところを責めるあたり、まったくもってたちが悪い。それをみんな知っているからこそ話の引き受け手がいなく…こう言ってはなんだがそのへん要領の悪い斜堂先生が捕まってちくちくねちねち言われているのも頷ける。
「いいんですいいんです…そうと聞いたらかえって武者震いがしてきました。任せてください、私は見返りがあればやる女ですよ」


今夜の私のことはナイトとでも呼んでください。そう言ったら野村先生は盛大に鼻で笑ってくださった。
いいんだ。べつに。