グリーティングタイムも終わり、イベントの全行程がつつがなく完了した後のことだ。
 足音を潜めて狭い通路を歩きながら、私はどうしたものかとひとしきり思案した。いちおう出入り口としては解放されているが、駅に行くにはだいぶ遠回りになる道だ。人はいないに等しかった。 
 ついさっきまでは視界に入っていた小太りの少年も、その後を追っていった悪ガキどもも今は見えない。
 まったく、せっかくの楽しい思い出になんてことをしてくれるのだ。
 
 互いに喜び合ってイベントを終えたあと、人の少ない方へ歩いていく小さな背中を見て、そういえばあの子のユーザーネームを聞きそびれたなと思い出したのが切っ掛けだった。どうせアカウントのひとつやふたつ持っているだろう。だいぶ若いけどノリも合いそうだし、よければ交流したい。
 しかし、彼に注目していたのは私だけではなかった。
 早足で私を追い越していったのは、さっき見かけた転売クソ野郎三人組。年頃は大学生くらいだろうか、いかにもフットボールで壁ポジションでもやっていそうながっちりした体格。にやにやと顔を見合わせる三人は、あきらかに少年の背を追っていた。
 かすかに漏れ聞こえる声は、さっきの観客プレゼントの話題だ。
 いわく、小さな子供たちを差し置いてグッズをもらうなんて酷いやつだ、俺たちがもらってやって、誰でも買えるようにオークションに出してやろうだとかゲラゲラ笑っていた。クソみたいな理屈もここまで行くと恐れ入る。
 それにしてもどうしたものか。
 むこうと私のガタイが逆なら話は簡単だ。ぶん殴ってでも止める。しかし現実は逆、ケンカすらしたことないかよわい女オタクひとりが行ったとして一緒にボコられる未来しか見えなかった。
 そんなクソの役にも立たないことをやるくらいなら、ここは一発運営に通報である。ブックマークしてあったページから電話番号を呼び出し、あとはワンプッシュで通話が可能…というところで、肩に誰かの手が掛かった。
 
「失礼」
「うわ」
 
 私は素で飛び上がった。
 派手に反り返ったリーゼントに、スーツもタイも革靴も全身真っ赤な出で立ち。くだんの赤い男が私の肩に手をかけて、色眼鏡の奥から静かにこちらを伺っている。
「…通っても?」
「アッハイ! スミマセン!」
 いつの間にか狭い通路を完全に塞いでいたことに気付いて、私ははっと謝って道をゆずった。迷惑をおかけして申し訳なかったけどわりと真面目に怖い。何なんだろう本当にこの人は。
 こちらが明けたスペースをさっと通り過ぎ、真っ赤な影は携帯を耳に当てたまま、驚くような速度で通路の奥へ消えていった。あまりの異様さに、脚が長いと便利だなあなんて思わず場違いなことを考えてしまう。
「こ、こわ…」
 さっきのチンピラみたいなガキんちょどもと違って、別に恫喝されたわけでもなんでもない。ごく紳士的に道を空けてくれと言われただけであの威圧感。絶対堅気じゃない。
(もうこのまま駅のほうから帰ろっかな…いや、でも! あの赤い人、通路をまっすぐ行ったんだからあの子とガキどもと鉢合わせする!)
 さしものクソガキどもだって、あんな異様な風体の大の男がぬっと現れたら驚いてカツアゲをやめるかもしれないが、問題はその後だ。運良く少年が助けてもらえるなんて限らない。だって絶対正義の味方って外見じゃないし、ほっとかれたらカツアゲが再開されてしまう。
 そう、こんな時こそ希望的観測に頼るな。慎重さが足りない≠シ。
 ちょっとびびって時間をロスしたものの、最初の予定通り携帯を構えて通報の構えをとり、特に何の意味もなく壁に背中をつけて背後を警戒しながら、私は小走りで通路の奥の方へ向かった。
 結構よく来るから勝手は知っている。この扉の奥は、ふたつあるうち薄暗くて人気のないほうの駐車場につながっているはずだ。なんせスペースが狭くとられているから胴の長い車は出しにくくてヒヤヒヤするし、そのせいで使う人も少ない。
 恐る恐る金属製の重い扉に耳をつける。
 何も聞こえなかったので、そっと開けて隙間から様子を伺い、誰もいないことを確認して数歩。やはり目を引くものや音はない。そこはただ灰色のコンクリートに覆われた無機質な駐車場が広がるだけだった。
「どっち行ったんだろ」
 とりあえず扉の下に折ったパンフを噛まして開けたままにしておき、身を屈めて物陰をのぞき込んだり、耳を澄ませたり。
 あちこちきょろきょろしていると、ふと耳に人の声が入ってきた。
(何これ、あの戸のむこうから…なんか、唸るみたいな…)
 一瞬でいやな予感がした。
 まさかこの十数分でカツアゲが済んでしまったんじゃないだろうな。
 私は早足でそちらへ向かい、携帯を握りしめたままでさっと消火扉を開けた。
 
「うわあ!」
 人だ。
 地下駐車場へ通じる狭い階段に、意識を失った人間が三人ほど、折り重なるように倒れていた。この頭のわるそうなナリはよく覚えている。くだんの転売クソ野郎三人組じゃないか!
 私は通報をやめてためらいなく扉を閉め、一目散にその場から逃げ出した。