私は喧嘩をしたことがない。
 と言ったら正確さに欠ける。言い直そう。口論ならばそこそこいけるが、誰かに手を上げたことはない。拳どころか平手すら、一度もない。
 であるから、宇宙人に拉致されて恫喝されている現状なんかはもはや想像の埒外。ここまで行くと人間は恐怖を通り越して平常心に近くなるものだと私はこの日はじめて知った。
 いまだに信じられないけど宇宙人だ。
 私のことを地球人と呼んでいたから、まちがいではないだろう。
 
「地球の女、隠し立てをするとためにならんぞ」
「だから本当にそんな人知りませんよ」
 いまは大きな窓のついた部屋に連行されて、見慣れない銃を持った下っ端と思わしき宇宙人が右手がわにひとり。これが私を拉致してきた実行犯だ。とはいえそんなことはあまり重要な問題ではない。たぶんあの銃、私一人くらい消し炭にできそうだけど、それすら問題ではない。
 
「困りましたねえ…お嬢さん、あまり時間を取らせないでもらえますか」
「……。」
 
 一番の問題はこいつだ。真正面の大きな椅子に腰を下ろした、真っ白いトカゲのような宇宙人。昔おじいちゃんちで見たイチマツ人形≠ノ似た不気味な顔である。
 室内にはいろんな姿がいるが、その中では特に大きくも強そうでもなく…どちらかと言えば小さめで造作もつるりとしている。しかし一番落ち着いているし、場の全員が一定の距離を置き、ごつい男が視線を向けられるだけでか弱い乙女のように目を伏せる様子を見ていればバカでもわかる。
 こいつがボスだ。
 丁寧でもの柔らかな言い方はしているが語調は冷酷そのもの。私だって目を合わせたくない。絶対ヤクザじゃんこんなやつ…。
「あなただって生身で宇宙空間に放り出されるなんて嫌でしょう」
 ヤクザだった。
 泡のお風呂に沈めるより怖い脅し文句聞いた。
「ソンゴクウについて。早く教えてくださいよ」
 だがしかし。悲しいことにそんな人はほんとに知らないのだ。
 
 ここまでで聞いた話と、プラスしてなんとか聞き出したところによれば、この白いトカゲの名前はフリーザだ。
 そして自分を一度は殺した(意味がわからないがそんなこともあるのだと思っておく)ソンゴクウなる男の情報を集めている。らしい。
 どこにいるか探しているのかと聞けばそうでもないようだ。襲撃しようと思えばいつでも行けるが、いまはその人を殺すためにトレーニングをしている最中だとか。毒殺とかしないなら、宇宙人もあんがい律儀ではないか。
 私をさらってきたのがそのためで、そのソンゴクウとかいう人のトレーニング方法や生活習慣を聞き出そうとしたものの、いっこうに口を割らないので業を煮やして上司の前に引きずり出したというわけだ…いや、杜撰すぎない?
 割るも割らないも、そもそも私の交友関係にそんな強い人はいないのだ。
 強い男と言われたところで、何年か前に弟が買った「君もミスターサタンになれる! マッシブを約束する必勝トレーニング!」とかいうしょうもない本の存在くらい。なおくだんの一冊はもらったので古本屋に売った。
 あとは私のおじいちゃん世代に、天下にその名を轟かせた武道の仙人がいたとかいないとか。そのくらいだ。そのくらい、マジのマジで、強い男などには縁がなく…まして宇宙人を殺せるようなグローバルな知り合いがいるはずない。
 だけどやっぱり信じてはもらえなかった。
「てめえ、どこまでしらを切るつもりだ!」
「いたっ、いたい! やめて、離してよ!」
 横の男が業を煮やして人の髪を鷲掴んだ。
 引き攣れるような痛みに、ぶちぶちと数本がちぎれる感触。悲鳴を上げてもがいても男の手は微動だにせず、それどころか掴んだ髪をぐいぐいと引っ張りさえした。
 
「いい加減にしないと本気で殺してや、「ぎゃっ!」
 頭皮を強い衝撃が襲ったと思うと、ほぼ同時に横の男がすごい勢いでぶっ飛んだ。
 
「……えっ」
 いつの間にか彼の手は外れている。
「いけませんねえ」
 ゆったりと目の前で、白い、長いものが揺れる。
「あまりにも手際が悪すぎますよ。暴力はもっと効率よく使うべきです。わたしの直属にそんな愚鈍な者は必要ありません…天下のフリーザ軍も地に落ちましたね」
「ひ…」
 フリーザの尻尾だ。本人はぜんぜん動いた様子もなく、ただの尻尾の一振りでなんのこともなくごつい男を吹き飛ばした。……たぶん、死んでいる。
 その強靱な尻尾はしゅるりと私の頬を一撫でして、首に巻き付いた。
「ねえ、あなたもそう思いませんか」
「あ、あ…あの」
 絞められてはいなくとも、あんな力が出せるくらいだ。ほんのちょっとひねられたら私の首など爪楊枝より簡単に折れてしまう。
「さ、そろそろ思い出していただける頃でしょう?」
 フリーザは丁寧でにこやかな、機嫌の良さそうな声色で、殴る蹴るなどよりもずっと恐ろしい恫喝をこちらへ向けた。
 やばい。本当に本当にやばい。
 全身から冷や汗が吹き出した。いやに耳に残る高い男声にかぶさるように、次にしらを切ったら殺すと副音声がはっきり聞こえたような気さえする。さすがボスだ。下っ端なんぞとは迫力が段違い。
 じゃなくて!
(ソンゴクウ。マジでそんな名前の人いたっけ? よくよく考えろ、聞き間違いとかそういう可能性だってある。似た響きとか、どこかで区切るとか……あれ、いや、待てよ)
「あ、あの、その方、種族とか年齢とか、あと容姿とか、は、どんな風なんでしょうか」
「なんの変哲もない地球人男性に見える男ですよ。黒髪で、ひどく呑気そうな顔をしています」
 黒髪。呑気そうな。ソンゴクウさん。いやたぶんそうだけどそうじゃない。ソン・ゴクウさん!?
「ソンさんちの、ゴクウさん…?」
「やっぱりご存じなんじゃないですか」
 そら見たことかと言わんばかりのフリーザの声も、あんなに恐ろしかった冷たい尻尾の感触も、一瞬頭からすべてが飛んだ。
 
 爆発的な理解と、同じほどの納得のいかなさに、私は思わず大声で虚空に吠えた。
 
「農家のおっさん!!!」
 
 たしかに付き合いはあるがフルネームなんざ忘れかけて孫さんちの旦那さん≠フ認識しかなかったその人こそ、私の今の暫定勤め先に週に数回野菜を売りにくる、紛うことなきイナカもんのおっさん。孫悟空さんであった。
 うそでしょ。

 * * *

「えーと…その人はですね、確かに交友はありますが、たぶんお探しの人とはちがうんじゃないでしょうか…。
 あの、まず私最近まで都で暮らしてまして、ちょっと暮らしが立ち居かなくなって実家に帰ったんですね。いやそこはどうでもいいか、今は親のコネで地元の農協…農業協同組合で働いてるんですけど、私の知る孫さんはそこに登録されてる、野菜を売りにくる農家のオジサンの一人です」
「農家の…おじさん…」
 フリーザはぽかんとしている。しかし事実なんだから納得いかなさそうな顔をされてもどうにもできない。第一あのいなかのおじさんがメチャクチャ強いとか、ましてや昔宇宙人を殺しただとか、そんなグローバルな人とはちょっと思えない。さすがにこれは人違いだろう。
「そうです。地元から出たことないって言われても納得するようなのんきで大雑把なおじさんだし、確かに力持ちだけどとても武道家なんてガラには見えませんよ」
「はあ…まったく、あの男もその子供も、あくびが出るほど平和に暮らしているようですね」
 だから人違いだろうと口に出す前に、フリーザは頭痛を堪えるようにこめかみを指で押さえ、ゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、人違いではありませんよ。今の話で確信しました。わたしを地獄に叩き落とした怨敵、ソンゴクウはその男です」
 ウソだぁ…。
 第一あのおじさんどうやって宇宙になんか行ったの。さっき子供って言ったけどまさか孫悟飯くんか。え、お父さんに輪をかけて喧嘩ひとつもしたことなさそうな純朴な田舎の若者も? こんな凶悪な宇宙人に恨み買ってるの? 彼私よりだいぶ若いけどそれいつの話?
 考えるほどどうしようもなく混乱するばかりの私を後目に、むこうはと言えば、でかい溜息をついたあと妙な納得に至ってくれたらしい。
 私のこの納得のいかない気持ちをどうしてくれるんだ。
「完全に無関係ということはわかりましたよ。ソンゴクウの実力ひとつ知らなかったあなたが、トレーニング方法もなにも知っているはずがありませんし」
「はあ…」
 奥さんとはわりと仲良しなので無関係というほどでもない。農協主催のバザーで一緒に屋台とか出店したことがあるんだぞ。
 ものすごく釈然としないが、とりあえずこれで死ぬことはなくなったということだろうか。
 
 心中で文句をつけながらも安堵が優ったそのとき、フリーザはとんでもないことを言った。
「ごくろうさま、下がっていいですよ。地球にはそのうち戻してあげますから」
「えっ!」
 そのうちって何よ。
 
「今じゃないんですか!」
「ここをどこだと思ってるんです? 地球なんて辺境の田舎惑星からはだいぶ離れていますから、この艦で向かうには時間が掛かりすぎますよ」
「勝手に連れてきておいて、こんな所でどうしろって言うんです!」
「雑用でもやって適当に過ごせばいいでしょう。近くを通ったら降ろしてあげます」
 言い終わった時にはフリーザは背中を向けたあとで…これ以上私の言葉に構うつもりはないとでも言うように、尻尾の先がひらひらと揺れていた。
「そんな…「おい、もう出ろ」
 あとから思えば、これだけの口を利いておいて殺されなかったのはまったくラッキーでしかなかったのだが、ともかくそれどころの話ではない。
 右を見ても左を見ても宇宙人しかいない、意思の疎通もできるかどうかわからず、地球の通貨だって使えないだろうこんなところで、また地球の近くを通るまで生きてろというのか!
 
「……し、死んだ方がマシなんじゃ……」
 司令室から放り出された私の呟きは、誰もいない廊下にむなしく溶けて消えた。