土砂降りにけぶる空気を切り裂くようにスピードを出しているのは、いつものグレーのリムジンとは別の車だ。
 カプセルコーポレーション開発の高級車、C-R215。電子制御式ホバーシステムと、走行環境を選ばないなめらかな加速がどうのこうの…というのは、前に調べたネット記事の受け売りだ。正直車にあまり興味のない私ではどれもわりと同じに見えるし、真っ赤だから雨の日も見やすくていいな程度である。
 雨のおかげで気温が下がった車内はわずかに肌寒いが、革張りのシートの背が暖かくなってきたので、寒さに弱い私は少しほっとした。
 音楽も会話もない、エンジンと雨の音だけを聞きながらの朝のドライブはもうかれこれ一時間にも及んでいる。晴れていれば東の空が明るい頃合いだ。
 今運転席にいる男がシケた面を下げて無為に吸い殻を量産していたので、そんなデカい図体丸めてじっとしてるくらいなら、その辺をてきとうに流して脳味噌と手を動かしたらいいと提案したのは他ならぬ私だ。
 何時間でも付き合ってやろう。途中で寝そうだけど。
 
「起きてるか」
「ん…あ、はい」
 ちょっとうとうとしていたが、時計を見るとそこまで時間は経っていないようだ。私は革のシートから身を起こして大欠伸をした。
「少し落ち着きました?」
「ああ」
 横のカーマインさんも、いつも送迎時に見るような思考のわかりにくい鉄面皮に戻っている。少なくともさっきまでの静かに自死してしまいそうな様子は見当たらない。
 どうせあのままほうっておいたとしても、休みが明けて出社したらいつも通りの仕事ぶりを見せるだろう。別に私が心配してやるいわれはないかもしれないが、そこはそれ。気になるものはなる。
「で、どうしましょうか」
 ましてや彼の決断は私の進退を決めるのだ。
 カーマインさんは雨に濡れるフロントガラスの向こうを透かし見ながら、少し言葉を探しているようだった。
「最初に言っておくが、今回のことは完全に俺の落ち度だ。…悪かったとは思ってる」
「そうですね」
 それはそうである。
 惚れた男に自分で選んだ女をあてがって抱かせて、疑似的に自分が抱かれているような構図を楽しむとは。あらためて考えてもよくわからないが、そこで周囲への警戒を怠った結果、肝心の総帥に見られておかしな方向の誤解をされたのだ。わりと救いようがない。
「総帥にあれだけ誤解された以上、解くとなったら難しいだろうな」
「…そうですね」
 そして、ちょっと長いつきあいにはなったものの、ここから彼がどう出るかは私にも読みきれない。
 わからないからこそ表へ連れ出した。
 車はいつの間にか自動車専用道路を抜け、都の外れあたりで止まっている。おりからの雨で人の気配もごく少ない今は、多少大声を出しても誰にも悟られはしないだろう。
 
「俺と心中しろと言ったらどうする?」
 人を殺すなら夜間よりも朝と聞いたことを、私は不意に思い出した。
 その物騒な切り出しは想定内とするには言い過ぎだが、そう驚くにはあたらない。
「場合によります」
 カーマインさんはじっと私の言葉を待った。
 横で目を細めて、まるで猛禽類が獲物を狙うような静けさで。
「たとえば、このままあなたと結婚して、ベッドの上で老衰で死ぬことすらできなさそうな裏稼業の後方支援をする…なんていうのも遠回しな心中だと思いません?」
 色付きの眼鏡の奥で、鋭い目がわずかに丸くなる。
 今になって私がビビって尻込みしてやると思うな。
 これでもちょっとは付き合いも長い身、追い詰められてのこの局面なら、試すように威嚇してくるくらいはシミュレート済だ。
「もう堅気に戻れないとしてもか」
「むしろまだ戻れる道が残ってたんですか、知りませんでした」
 ディナーに誘われたあの夜から、人ひとりの人生をこれだけ捻じ曲げておいてどの口が言えるんだ。
「案外度胸があるな、お前も」
「つけたのはあなたですよ」
 そうでなけりゃ。もしもあの夜のままの私だったら。こんな風にあなたとタイマン張ろうなんてさすがに考えることもしなかった。つまりは、やっぱり、全部あなたのせいなのだ。
 次はどう出るのか見せてもらおう。
 
「俺もここまでで色々考えてはみたが」
 カーマインさんは三本目の煙草を灰皿に押しつけてから、しれっとものすごく失礼な言い方をした。
 
「結婚するとしたら、お前以上に都合のいい女がいない」
「そんなサイテーのプロポーズあります!?」
 
 思わず声が跳ね上がった。言い出したのは私だし、夜景の見えるレストランで指輪を差し出してくれなんて言わないが、いくら何でもそれはないだろう。
「聞け。自分で認めるのも癪に障るが、お前と俺とは通じるところがある。その証左に、俺のことはどうとも思わなくても、マゼンタ総帥には惚れてるんだろう?」
「まあ…はい」
 否定はできない。
 横目でじっとりと睨みつけると、さっきまで煮詰まって淀みきっていた色硝子の奥の目には、いつものような冷徹な光が戻ってきつつある。
「金持ちどもの社交場ってのはうんざりするほど時代遅れな場所でな、結婚ひとつしてない男はナメられるものだ。総帥くらいならともかく、俺の年と立場じゃ重みが足りん…寄ってくる虫を払うのも、もうめんどうだ」
「でしょうね」
「お前もお前で、愛人なんかそう何十年も続けられる生き方じゃない。あの人の女の立場を適当なところで切り上げて俺の後方支援に回るなら、生活にも困らずに済む…総帥とも縁を切らないでいられるぞ」
 それとも十把一絡げの女どものように、店でもいくつか与えられて夜の町でくすぶるのが好きか?
 嫌味がましい笑みを浮かべてそんなふうに語りつづけるうちに、彼はもうすっかりいつもの通り。会議室のモニターでも前にしているようななめらかな口ぶりに戻っていた。まさにカーマインプレゼンツ。内容は多少、いやかなり最低だが。
「それに何より、このまま結婚すれば」
 彼のその言い方を聞いた途端、ぴんときた。
 次の言葉がありありと耳に浮かぶ。気付いたら口が開いていた。
 
「「マゼンタ総帥が喜ぶ」」
 
「……。」
「……。」
 思った以上にきれいに声が重なり、目を見合わせたまま二人揃ってなんともいえず嫌な顔をしてしまった。やるんじゃなかった。本当に思った以上に気持ち悪い。
「しょうがないな、もう! どうしてもって言うなら結婚してあげますよ!」
「ああ、そうしろ」
 首筋の鳥肌をごまかすように声を上げて、勢いよくシートに背中を預ける。いつのまにかフロントガラスの向こうは小雨になって、そろそろ出勤時間も近いせいもあり、まばらではあるが傘を差した人の姿も見えた。
 横でアクセルを踏み込む気配がして、赤いエアカーはすべるように走り出す。
「感謝してくださいよ。あなたほどめんどうな男のバックアップなんて、務まるのは私くらいなものですから」
「その台詞はそっくりそのまま、リボンでもつけて返してやる。こんなやっかいな女の貰い手が俺以外にいると思うか」
 喧嘩というには軽すぎる憎まれ口の応酬も、もう慣れたもの。
 
 だけど、明日報告を聞いたらマゼンタ総帥はどんな顔をするだろう。
 それを思うだけで、この偏屈で面倒臭い男を亭主にするのもまあいいかなと思えるのだ。